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系列の[[フランス座|浅草フランス座]]へ出向した後は、[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]の幕間[[コント]]に出演していたが、当時、[[漫才師]]崩れの専属コメディアン・安藤ロール(後の[[坂上二郎]])と知り合う。当初の坂上に対する印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」だったという。
 
その後東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て、1962年(昭和37年)浅草松竹演芸場で「劇団浅草新喜劇」を旗揚げ。その後「じん弘とスリーポインツ」([[じん弘]]・[[さがみ三太・良太|みなみ良雄]])、「エーワンコミック」(須間一露・田畑俊二)などいくつかのトリオコントグループに参加と脱退を繰り返したが、同時期に放送作家の[[はかま満緒]]に師事し、お笑い作りに本格的に取り組んでいた。ここで同じはかまの門人で、後年コント55号のほとんどの台本を手掛けた[[岩城未知男]]と知り合う。また、はかまの伝手で[[TBSテレビ|TBS]]のプロデューサー・[[向井爽也]]や芸能マネージャー・[[浅井良二]]([[浅井企画]]代表)と知り合い、本格的にタレント活動を開始し、向井の手掛ける公開コメディ番組[[ジンタカ・パンチ!]]のコマーシャルに起用された<ref>{{Cite web|和書|title=ジンタカパンチ - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇ |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-8512 |website=テレビドラマデータベース |access-date=2023-07-26 |language=ja}}</ref>。
 
CM収録で19回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる<ref>{{Cite web|和書|title=日経スペシャル 私の履歴書|BSテレ東 |url=https://www.bs-tvtokyo.co.jp/rirekisyo/26.html |website=www.bs-tvtokyo.co.jp |access-date=2023-11-01}}</ref>。一度はテレビ進出を諦め、生涯舞台役者で生きていくことを決意し、浅草新喜劇も解散して、[[熱海市|熱海]][[つるやホテル (熱海温泉)|つるやホテル]]の営業で再起を期していた。
 
後に『[[快獣ブースカ]]』で脚本家デビューすることになる[[市川森一]]と、はかま満緒師事時代に友好を持ち、市川は後年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の開局40周年スペシャルドラマ『ゴールデンボーイズ』で、若かりし頃の萩本(演者は[[小堺一機]])の、これらのエピソードを描いている。