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当初は'''[[菊花紋章|菊紋章]]とともに[[皇室]]専用の家紋であった'''が、後に皇室以外の[[戦国大名]]などの諸侯も用いるようになり、'''皇室は専ら菊紋章のみを用いるようになった。'''
 
[[江戸時代]]には、[[江戸幕府]]が葵紋を厳重に管理したが、桐紋については保護しなかったので、庶民から[[大名]]まで、桐紋の使用層は広かった。侍や[[武家]]では、[[江戸幕府|幕府]]の家臣や大名家含めて473家が使用した。その結果、葵紋の権威が上がる一方、桐紋の権威は落ちた<ref name="takasawa151"/>。
 
=== 武家時以降の桐紋の歴史 ===
桐が[[鳳凰]]の止まる木として[[古代]]中国で神聖視されていたことに倣って、[[日本]]でも一説には[[嵯峨天皇]]の頃から、[[天皇]]の衣類の文様に用いられるなど、'''[[菊花紋章|菊紋章]]に次ぐ格式のある紋とされた。'''[[室町幕府]]以後は、[[武家]]が望んだ家紋とされ、[[足利尊氏]]や[[豊臣秀吉]]などもこれを[[天皇]]から賜っている。このため、五七桐は「'''政権担当者の紋章'''」という認識が定着することになった。ただし、[[征夷大将軍]]に任命された[[徳川家康]]のように、これを断り、紋章として桐を使用しなかった者もいる(ただし、家康個人は[[大御所]]時代になってから桐紋も用いるようになっている)。[[豊臣政権]]や[[江戸幕府|徳川幕府]]下では[[小判]]に作成を任されていた後藤家の家紋として桐紋が入っていた。江戸時代に小判に葵紋を入れることを強制されなかったのは、徳川家康が[[後藤庄三郎]]に軍資金や大橋の局のことなどで世話になったためといわれる<ref>[http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/tokugawa011.htm 徳川の大判・小判に葵紋が無い理由 平成20年4月 花野 韶]</ref>。[[1872年]]には、[[明治政府]]が[[大礼服]]を定め、[[勅任官]]は、その上着に「五七桐」を用いることとされた
江戸幕府滅亡後の近現代では、皇室に承認された為政者に下賜されてきた紋章としての歴史を持つ桐紋が再重視されたので、[[明治]]以降現代にいたるまで[[内閣 (日本)|内閣]]の紋章として使用されている<ref name="takasawa151"/>。
 
[[江戸幕府|徳川幕府]]が桐紋の使用を忌避したのは滅ぼした豊臣家の家紋であることも理由の一つであろうが、皇室の権威を落とす目論見もあったと思われる<ref name="takasawa151"/>。[[豊臣政権]]や[[江戸幕府|徳川幕府]]下では[[小判]]に作成を任されていた後藤家の家紋として桐紋が入っていた。江戸時代にも小判に葵紋を入れることが強制されなかったのは、徳川家康が[[後藤庄三郎]]に軍資金や大橋の局のことなどで世話になったためといわれる<ref>[http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/tokugawa011.htm 徳川の大判・小判に葵紋が無い理由 平成20年4月 花野 韶]</ref>。
ただし、一部の[[菊花紋章|菊紋章]]については、[[1869年]]に日本政府の[[太政官布告]]にて使用規定が明記されているのに対し、桐紋に関しては、[[1884年]]に[[官報]]で特に定めないことを公示されたため、自由に使用できた。使用者が多かったためと考えられる。現代では[[筑波大学]]の校章の意匠に取り入れられている。これは筑波大学の前身である[[東京高等師範学校]]が、[[明治天皇]]より校章として下賜されたものが起源である。近現代の企業ロゴの意匠にも取り入れられ、[[桐灰化学|桐灰化学株式会社]]や[[ザ・キャピトルホテル 東急]]の前身である[[キャピトル東急ホテル]]のロゴなどに使用がある。キャピトル東急ホテルのロゴ意匠の桐紋(中陰五七鬼桐)は、創業家である[[五島慶太|五島家]]の家紋を取り入れたものである。
 
[[江戸時代]]には、[[江戸徳川幕府]]が葵紋を厳重に管理したが、桐紋については保護しなかったので、庶民から[[大名]]まで、桐紋の使用層は広かった。侍や[[武家]]では、[[江戸幕府|幕府]]の家臣や大名家含めて473家が使用した。その結果、葵紋の権威が上がる一方、桐紋の権威は落ちた<ref name="takasawa151"/>。
=== 政治上の桐紋の歴史 ===
 
桐が[[鳳凰]]の止まる木として[[古代]]中国で神聖視されていたことに倣って、[[日本]]でも一説には[[嵯峨天皇]]の頃から、[[天皇]]の衣類の文様に用いられるなど、'''[[菊花紋章|菊紋章]]に次ぐ格式のある紋とされた。'''[[室町幕府]]以後は、[[武家]]が望んだ家紋とされ、[[足利尊氏]]や[[豊臣秀吉]]などもこれを[[天皇]]から賜っている。このため、五七桐は「'''政権担当者の紋章'''」という認識が定着することになった。ただし、[[征夷大将軍]]に任命された[[徳川家康]]のように、これを断り、紋章として桐を使用しなかった者もいる(ただし、家康個人は[[大御所]]時代になってから桐紋も用いるようになっている)。[[豊臣政権]]や[[江戸幕府|徳川幕府]]下では[[小判]]に作成を任されていた後藤家の家紋として桐紋が入っていた。江戸時代に小判に葵紋を入れることを強制されなかったのは、徳川家康が[[後藤庄三郎]]に軍資金や大橋の局のことなどで世話になったためといわれる<ref>[http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/tokugawa011.htm 徳川の大判・小判に葵紋が無い理由 平成20年4月 花野 韶]</ref>。[[1872年]]には、[[明治政府]]が[[大礼服]]を定め、[[勅任官]]は、その上着に「五七桐」を用いることとされた。
=== 近代以降 ===
江戸幕府滅亡後の近現代では、皇室の権威の回復で、皇室に承認された為政者に下賜されてきた紋章としての歴史を持つ桐紋が再重視されるようになっので、[[明治]]以降現代にいたるまで[[内閣 (日本)|内閣]]の紋章として使用されている他<ref name="takasawa151"/>、[[1872年]](明治5年)の[[太政官布告]]で定められた[[大礼服]]について[[勅任官]]は、その上着に「五七桐」を用いることとされた([[奏任官]]は「五三桐」)<ref name="takasawa151"/>。
 
ただし、一部の[[菊花紋章|菊紋章]]については、[[1869年]](明治2年)日本政府の[[太政官布告]]にて使用規定が明記されているのに対し、桐紋に関しては、[[1884年]]に[[官報]]で特に定めないことを公示されたため、自由に使用できた。使用者が多かったためと考えられる。現代では[[筑波大学]]の校章の意匠に取り入れられている。これは筑波大学の前身である[[東京高等師範学校]]が、[[明治天皇]]より校章として下賜されたものが起源である。近現代の企業ロゴの意匠にも取り入れられ、[[桐灰化学|桐灰化学株式会社]]や[[ザ・キャピトルホテル 東急]]の前身である[[キャピトル東急ホテル]]のロゴなどに使用がある。キャピトル東急ホテルのロゴ意匠の桐紋(中陰五七鬼桐)は、創業家である[[五島慶太|五島家]]の家紋を取り入れたものである。
 
== 日本の行政府における桐紋 ==
[[File:Emblem of the Government of Japan.svg|180px|thumb|内閣をはじめ、日本の行政各機関で用いられる五七桐花紋]]
[[ファイル:Emblem of the Prime Minister of Japan.svg|right|thumb|250px|[[内閣総理大臣]]章]]
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File:Seal of the Government-General of Taiwan.svg|[[台湾総督府]]の紋章
File:Seal of the Government-General of Korea.svg|[[朝鮮総督府]]の紋章
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かつて[[皇室]]・[[朝廷 (日本)|朝廷]]の副紋として五七桐が多用され、皇室に承認された為政者もその紋章を使用することが許されてきた歴史がある<ref name="takasawa151"/>。標準的な図案だけではなく、[[豊臣秀吉]]([[太閤]]桐)のようにその変種を使用した例もある。図案は五七桐に限らず、五三桐も使用された。
 
江戸幕府は皇室の権威を落とすためにも目論見で桐紋を一切使用しなかった経緯があったが<ref name="takasawa151"/>、徳川幕府滅亡後の近現代では、皇室に承認された為政者に下賜される紋章としての桐紋が重視され、[[明治時代]]以降から現在に至るまで[[内閣 (日本)|内閣]]の紋章として使用されるようになった<ref name="takasawa151"/>。他にも[[台湾総督府]]や[[朝鮮総督府]]の紋章に桐紋章が使用されていた。
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File:Seal of the Government-General of Taiwan.svg|[[台湾総督府]]の紋章
また[[皇宮警察本部]]や[[法務省]]では「五三桐」が紋章として使われているが、これは内閣より格下の機関だからである。歴史的に天皇から直接「五七桐」を下賜された為政者は、さらにその家臣に下賜する際には「五三桐」を与える慣習があった。このことから明治以降、太政官布告339号の大礼服の規定などにみられるように五三桐を五七桐の格下に使うようになった<ref name="takasawa151"/>。
File:Seal of the Government-General of Korea.svg|[[朝鮮総督府]]の紋章
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また[[皇宮警察本部]]や[[法務省]]では「五三桐」が紋章として使われているが、これ「五三桐」内閣より格下の機関だからである。歴史的には、天皇から直接「五七桐」を下賜された為政者、さらにその家臣に下賜する際には「五三桐」を与える慣習があったものである。このことから明治以降、太政官布告339号の大礼服の規定などにみられるように五三桐を五七桐の格下に使うようになった<ref name="takasawa151"/>。
 
[[日本国有鉄道]]の帽章も、桐紋に蒸気機関車の動輪を組み合わせたものだった。[[旭日章]]の意匠に取り入れられたり、[[皇室]]を表す紋章である「[[菊花紋章|十六八重菊]]」に準じるものとして、[[査証|ビザ]]や[[パスポート]]などの書類や[[硬貨]]([[日本の金貨|明治政府以後の金貨]]や、1982年(発行開始)以降の[[500円硬貨]])の装飾にも使われている。菊紋と共に[[賞杯]]に使われたり<ref>[https://www8.cao.go.jp/shokun/shurui-juyotaisho-hai/hai.html 賞杯] 内閣府</ref> 、[[内閣総理大臣官邸]]の備品、総理の演台に取付けられるプレート(内閣総理大臣章)にもあしらわれる。現代の[[日本国旅券]]の表紙は十六一重表菊であるが、[[帰国のための渡航書]]の表紙には「五三桐」が使われている。