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[[ファイル:SUMINOKURA 8.jpg|thumb|東京牛痘館]]角倉賀道は、1857年4月14日([[安政]]4年3月20日)、[[尾張国]][[知多郡]]八幡村(現・[[愛知県]][[名古屋市]])に医師[[角倉市治]]の長男として生まれる。母は美ね。
 
賀道が4歳のときに母が他界。15歳のときに父も亡くなった。実姉の嵯峨と「八丁のおじいさん」に育てられた。[[1872年]][[明治]]5年)から京都で和漢学を修業。[[1874年]](明治7年)から京都府医学校にて[[理化学]][[解剖学]][[生理学]][[動物学]][[植物学]][[薬物学]][[病理学]]を修業した。賀道は京都在学時に町の鳥やの前に立ち、何時間も鳥の解体を観ていたという。戸塚寛海に師事しながら[[1877年]](明治10年)から[[済生学舎]]([[長谷川泰]]の設立した私立医学校)で外科・内科・眼科を学ぶ。学費を稼ぐために夜は按摩をしていた。[[1878年]](明治11年)埼玉県医学校に就く。[[1879年]](明治12年)熊谷病院に転属。[[1880年]](明治13年)内務省医術開業免許を取得し、[[神奈川県]][[藤沢市]]で開業。神奈川県十全病院医となる。
 
1884年(明治17年)神奈川県天然痘避病院長を拝命。[[天然痘]]対策に奔走する。[[1884年]](明治18年)頃に南新堀1-1(通称;霊岸島、現在の[[新川 (東京都中央区)|新川]]1丁目付近)に住んでいた(1893年(明治26年)に[[神田三崎町]]に移り住み、1919年(大正8年)から[[西巣鴨町|巣鴨町宮仲]]1931で終生を過ごした)。賀道はこの年、三崎町で日新牧場の跡地を買い取り、日本初の民間ワクチン接種所である「痘苗製造所東京[[種痘所|牛痘館]]」(日本初の私立製苗所)を設立した(神田三崎町1-6)。併設して「愛光舎(牧場・牛痘種継所)」を設立。<ref name="nakazato-1957" />{{rp|259}}。[[天然痘ワクチン]]<ref name="nakazato-1957" />{{rp|259}}は賀道が1884年(明治17年)に神奈川県に牛痘種継所を開設した際、現代のような種痘(ワクチン)の冷凍保存などの手段がないため、常に生きている牛に天然痘を感染させておいて、必要に応じて「痘種」を採取して使用する、という発案に基づいていた。「種継所(牧場)」とはそうした天然痘専用の牛を飼っておく施設だった。乳業は当初、賀道の念頭にはなかった。[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001381256-00 神田三崎町] 181P)