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政員の子・[[比企則員]](左馬助)は幼少期に[[上田朝広]](上野介、[[松山城 (武蔵国)|武蔵松山城]]主<ref>{{cite web|和書|url=https://adeac.jp/akishima-arch/text-list/d400030/ht060660|title=第六編>第五章>第三節>二 後北条氏の敗北>A 小田原合戦|work=昭島市史|accessdate=2024-08-07}}</ref>)のもとにあり、天正年間には常陸国や下野国に転戦して武功を重ね、高名であった<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。比企則員は、天正年間に中山(現在の[[埼玉県]][[比企郡]][[川島町]]中山)に[[金剛寺 (埼玉県川島町)|金剛寺]]を再興して一族の菩提寺としたとされている<ref name="chocotabi-saitama_kamakura13">{{cite web|和書|url=https://chocotabi-saitama.jp/feature/kamakura13/|title=鎌倉殿を支えた武士の故郷 比企の史跡|work=ちょこ旅埼玉|publisher=一般社団法人埼玉県物産観光協会|accessdate=2024-08-07}}</ref><ref name="higashimatsuyama-kanko_kongouji">{{cite web|和書|url=https://higashimatsuyama-kanko.com/kongouji/|title=清月山金剛寺(せいげつざんこんごうじ・川島町)|work=東松山観光|publisher=一般社団法人東松山市観光協会|accessdate=2024-08-07}}</ref>。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の[[小田原征伐]]の際、松山城も前田利家らの軍勢に包囲されるが、この際に比企則員も守備陣に加わっている<ref name="higashimatsuyama-kanko_kongouji"/>。則員はその後比企郡で蟄居し、慶長6年(1601年)に[[結城秀康]]に召し出されたものの、まもなく病気によってふたたび蟄居した<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。
 
徳川家康はあるとき比企義次政員のことを思い出し、[[春日景定]]・[[春日家吉|家吉]]父子や[[松野助正]](いずれも北条旧臣)にその子孫について尋ねたが、このとき春日・松野からの推挙はなかったという<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。慶長16年(1611年)、則員の子・比企義久(次左衛門)は遠江国浜松で自ら名乗り出、徳川家に仕えることとなった<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。また、則員も慶長18年(1613年)に本多正信によって川越で召し出された<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。
 
家康は比企家の由緒にかんがみ、比企義久に対して比企郡で知行地を与える意向を示したが、義久の病気や家康の死去が重なって実現しなかったという<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。義久の子・比企重員(次兵衛・藤左衛門)は寛永2年(1625年)より徳川秀忠に仕えて大番を務め、最終的に武蔵国内で400石を知行した<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。重員の子・比企久員(藤十郎・次左衛門)は大番組頭を務めて蔵米200俵が加賜された<ref name="kanseifu1125_kokumin862"/>。久員の子・比企藤十郎も大番を務めたが、殺生を犯した(元禄9年(1696年)に[[生類憐みの令]]に抵触したために追放処分を受け、旗本としては系譜が絶えている<ref name="kanseifu1125_kokumin862-863"/>。
 
中山の金剛寺には、「比企系図」が伝えられているほか<ref name="chocotabi-saitama_kamakura13"/>、則員から久員まで4代(則員が比企家15代目とされている)の墓がある<ref name="chocotabi-saitama_kamakura13"/><ref name="higashimatsuyama-kanko_kongouji"/>。