「ヴァーサ (戦列艦)」の版間の差分

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沈没直後: 2024-8-17のNHK Eテレ『地球ドラマチック』「悲劇の沈没船は語る ~バルト海に沈んだヴァーサ号~」をもとに追加。NHKオンデマンドにのればそちらのURLを補充していただきたく。
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== 建造から沈没まで ==
[[グスタフ2世アドルフ_(スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]の命によって[[1626年]]起工。当時のスウェーデン王朝の名にちなんで名付けられた。スウェーデンは当時ポーランドと戦争中で損失を受けた海軍力を回復するため強力な戦艦を建造しようとしていた。もともと砲甲板は一層の予定であったが、建造途中で初めての試みである二層に増やされるなど無理な構造で、さらに重武装だったため極端な重量艦になってしまった。設計者は当時建艦先進国のオランダから呼ばれた人物であったが、建造中に亡くなり、事業の経営はその未亡人が、設計は同僚の技師が引き継ぐこととなった。後任の技師はフランスの船の設計を参考にしたという。当時は現在のように船の安定性について計算する方法はなく、成功した船を参考に新たな試みを加えていくという経験的に作られていた。そのため、砲船ながら相手船との乗り込み戦闘の盛んだった時代の名残で船尾が高い設計になっていて、それが安定をさらに悪くしていた。また、船には国王が乗り込むこともされていて、様々な手の込んだ彫刻が施され、船体には高価な塗料で色鮮かに塗られたり、金箔装飾まで行われた手の込んだ彫刻が施された部分もあったとされる。
 
[[1628年]][[8月10日]]、波が穏やかな日に王宮であったトレクローノル城の下の係留場から、礼砲を撃って[[処女航海|初航海]]に出た。しかし、[[マスト]]に帆を張り 1,300 m ほど帆走した地点で横風を受け、[[復原性]]の低さが災いしてそのまま横転[[沈没]]した。砲門が開いていたため10分ほどで沈没し、乗組員150人ほどのうち少なくとも30人が死亡したとされる<ref>{{Cite web |url=https://www.vasamuseet.se/ja |title=ヴァーサ号博物館 |access-date=2024-6-4 |publisher=ヴァーサ号博物館}}</ref>。まだ兵士らは乗り込んでいず、乗組員の多くは泳ぎに長けていた者が多かったため犠牲者少なく済んだとみられる。とはいえ、船員の妻子らが記念に多く乗り込んでいて、彼ら・彼女らは外洋に出次第しだい小舟で下船するはずだったが、その前に事故に巻き込まれて
 
== 沈没直後 ==
事故は直ちに戦争で国外にいた国王に直ちに知らされ、国王は船の引き揚げと責任者の処罰を命じた。事故後すぐから引き上げが試みられ、大砲や貴重品は[[1664年]]までにほぼ回収できたが、船体の回収にはことごとく失敗し、海底に沈んだ状態で放置された。
 
マストまで含めて高さの高い船であったため当初は沈んだ位置も分かりやすかったという。事故後すぐから引き上げが試みられた。大砲や貴重品は[[1664年]]までにほぼ回収できた。当時現れていた潜水鐘を使って作業が行われたが、船に固定されていた大砲を船体を傷つけることなくどのように回収されたかは現在でも分かっていない。大砲は腐食がひどく、鋳つぶして再生するために海外に売り払われた。船体の回収にはことごとく失敗し、海底に沈んだ状態で放置され、その後長らく位置が分からなくなってしまった。
 
処罰については、設計技師や助かった艦長・砲術長らが逮捕・取り調べを受けたが、もともとの設計技師が死亡していたこともあってその責任だろうという雰囲気で終息したとされる。なお、出航前日に甲板長が乗組員三十人を甲板の端から端に走らせてみたところ横倒しの危険があり三往復した所で中止しなければならなかったという。副提督も危険を感じていたが国王の機嫌を損じることを恐れてに報告することがなかった。経営のテキストでこの事件は失敗の見本例として取り上げられることも多いという。
 
== 引き上げと展示 ==
1950年代に入って、バルト海は水温や酸素濃度が低く、[[フナクイムシ]]が生息していないことから、ヴァーサの船体が朽ちることなく復元可能な状態で沈んでいる可能性が持ち上がった。アマチュア[[考古学者]]{{仮リンク|アンデシュ・フランツェーン|en|Anders Franzén}}(Anders Franzén)により1956年再発見され、彼の尽力もあり1958年に引き上げ作業計画が決定、ヴァーサは沈没から333年経った[[1961年]]6月、ついに引き上げられた<ref>{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20170715-KTPMKLRHQFJQRPEW3TJYW2WZS4/ |title=【水中考古学へのいざない(15)】航海1300メートル、あっけなく 世界一短命の戦艦は…(1/3ページ) |access-date=2024-8-17 |publisher=産経新聞社}}</ref>。船体の下に6本のトンネルを作ってロープを通し、持ち上げていったん浅瀬まで運び、さらに持ち上げながら重量を軽くするため溜まった土砂をホース放水で落としていくという方法で引き上げられた。長期にわたる復元作業の後、[[1988年]][[12月]]から{{仮リンク|ヴァーサ博物館|sv|Vasamuseet|en|Vasa Museum}}にて展示中。引揚や復原の模様はテレビ撮影もされている。バラバラになっていた船体の復原作業は「世界最大のジグソーパズル」と称された。引揚や復原の模様はテレビ撮影もされ、とくに引揚模様は海外にも中継放送され、大勢が見たとされる
 
船体自体や船体装飾の彫刻や武器類や日常調度品、硬貨4000点以上などが非常に良く原形を残し、船員の衣服などや遺骨、さらにその中には毛髪や脳も残っていて、るものもあった。当時の戦列艦の姿、建造方法、設備などを知る貴重な資料を提供している。とくに舵輪が発明される前に船の舵を取るために使われていたホイップスタッフは、当時のものとしてはほぼ完全な形で残っている唯一のものとみられている。
 
ストックホルムにある三本マストを模した建造物があるのが特徴のヴァーサ号博物館で展示され、毎年100万人以上が来訪している<ref>{{Cite web |url=https://wired.jp/2012/09/06/swedish-warship-vasa/ |title=17世紀から蘇ったスウェーデンの軍艦ヴァーサ:ギャラリー |access-date=2024-6-4 |publisher=コンデナスト・ジャパン |website=WIRED}}</ref>。ストックホルムで来訪者最多の人気博物館で、館内では貸切パーティも可能である<ref>{{Cite web |url=http://letsgo-sweden.com/vasa-museum/ |title=ヴァーサ号博物館 |access-date=2024-6-4 |publisher=スウェーデン観光文化センター |website=在日スウェーデン大使館公認観光サイト}}</ref>。一般来訪者はヴァーサ号の外観を観覧できるが、内部を見ることは研究者の他は海軍関係者、国家元首に限られている。