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テンラ (会話 | 投稿記録)
m 期限付き移籍(リンク先の名称『レンタル移籍』を、リダイレクトにならないように正式名称『期限付き移籍』に修正)
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しかし日本代表では出場機会に恵まれず、日本が初優勝した[[AFCアジアカップ1992|アジアカップ]]や[[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選|W杯アジア1次予選]]にメンバーとして参加するも未出場。1993年、日本代表の控え選手たちで構成された日本選抜のメンバーとして香港遠征において、1月23日の[[サッカースイス代表|スイス]]戦では先発フル出場<ref>[[ストライカー (雑誌)|サッカーストライカー]] 1993年2月18日号 p.7-11 [[Gakken|学研]]</ref>、またアジア最終予選直前のスペイン遠征ではヘレス戦でもプレーした<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/19930923/ | publisher =samuraiblue.jpl | title =ヘレスvs日本 1993年9月23日| accessdate =17 April 2020}}</ref>。10月にカタールのドーハで開催された94年米国W杯最終予選メンバーに選出されたが、「使ってもらえないし給料は減るから代表に行きたくない」と参加を辞退<ref name="postseven">{{Cite news |title=山田隆裕選手 J2のベガルタ仙台に移籍 |newspaper=京都新聞 |publisher= |date=2000-06014 |url=http://www.kyoto-np.co.jp:80/sanga/topics/0614yamada.html |accessdate=2017-10-30| |archiveurl=https://web.archive.org/web/20000711025415/http://www.kyoto-np.co.jp:80/sanga/topics/0614yamada.html |archivedate=2000-07-11}}</ref>。1994年の[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]監督時代には、[[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア大会]]のメンバーとして再び日本代表に参加したが、大会を通して出場機会は一度も訪れることはなかった。アジア大会の壮行試合として開催された、1994年9月27日の[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]戦が、唯一の[[国際Aマッチ]]出場となった。
 
その後1998年に[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]に移籍後、1999年は[[レンタル移籍|期限付き移籍]]により[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]でプレーし、移籍期間終了後は京都を退団<ref>{{Cite news |title=新入団選手と退団選手の移籍先 |newspaper=京都新聞 |publisher= |date=2000-03-16 |url=http://www.kyoto-np.co.jp/sanga/topics/iseki.html |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20000620161315/http://www.kyoto-np.co.jp:80/sanga/topics/iseki.html |archivedate=2000-06-20}}</ref>。その後一度は引退したが、2000年、横浜M時代に指揮を受けた[[清水秀彦]]監督に誘われベガルタ仙台に加入<ref name="snavi" />、ここではチャンスメーカーとしてのプレーでJ1昇格に貢献した<ref name="snavi" />。仙台時代の応援歌の原曲は[[BOØWY]]の「Dreamin'」。[[2003年]]シーズン途中で現役引退した。J1では通算224試合20得点、J2では通算47試合出場3得点。
 
引退後は全国でサッカースクールや講演活動などを精力的に行う傍ら日本サッカー協会こころのプロジェクトで夢先生としても数多く登壇している。