削除された内容 追加された内容
高橋石見 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
出典を追加、スタブテンプレートを除去。
10行目:
| tower_struct = 不明
| builders = 武田信玄
| build_y = [[永禄]]13([[1570年]])か
| rulers = 望月甚八郎、伴野助十郎
| reject_y = 不明
| remains = 土塁、空堀、井戸跡
| cultural asset =[[史跡]]等未指定<ref>[https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600088/ 「高崎市の文化財」]高崎市公式HP</ref>
| ___location ={{ウィキ座標2段度分秒|36|17|21|N|139|1|21.523|E|region:JP-10_scale:20000_type:landmark|display=inline,title|name=根小屋城}}
| 地図=Japan Gunma
| 緯度度=36|緯度分=17|緯度秒=21
| 経度度=139|経度分=1|経度秒=21.523
| ラベル=根小屋城
| アイコン=日本の城跡
24行目:
}}
 
'''根小屋城'''(ねごやじょう)は、[[群馬県]][[高崎市]]山名町城山<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=日本城郭大系 |date=1979-11-15 |year=1979 |publisher=新人物往来社 |page=431 |volume=4 |doi=10.11501/12205902 |editor=阿久津久 |editor2=峰岸純夫 |editor3=菊地卓 |editor4=山崎一 |editor2-link=峰岸純夫 |editor4-link=山崎一}}{{要登録}}</ref>にあった[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[日本の城]]([[山城]])。
 
== 概要 ==
[[烏川 (利根川水系)|烏川]]と[[鏑川]]に挟まれた丘陵帯のうち、北方向に張り出した丘陵の先近くに位置し、[[高崎城|和田城]]や[[倉賀野城]]を見渡せる山城である。標高は180mほどで南北に280m、東西250mに広がる<ref name=":0" /><ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=群馬県古城塁址の研究 |date=1971-12-10 |year=1971 |publisher=群馬県文化事業振興会 |pages=323-327 |author=山崎一 |author-link=山崎一 |doi=10.11501/12271287 |volume=上巻}}{{要登録}}</ref>。また南の尾根続きの南東丘陵部には[[山名城]]が存在する。
 
築城は[[永禄]]11年([[1568年]])または同13年([[1570年]])とされる。[[永禄]]11年([[1568年]])に[[甲斐国]]の[[武田信玄]]が駿河国・今川氏の領国への侵攻すると([[駿河侵攻]])、武田氏と[[相模国]]の[[北条氏康]]との間で[[甲相同盟]]が崩壊する。これにより武田氏と[[後北条氏]]の領国が接する上野は係争地となり、武田氏は後北条氏への備えとして、同13年([[1570年]])山名城・鷹ノ巣(茶臼山城)の間に根小屋城を築城したとされる<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=新編 高崎市史 |date=1996-3-31 |year=1996 |publisher=高崎市 |pages=108-109 |editor=高崎市市史編さん委員会 |volume=資料編3 中世1}}</ref>{{要出典範囲|築城された当初は[[狼煙台]]としての機能が主であったという|date=2024年10月}}
 
『[[甲陽軍鑑]]』には「山名・鷹巣の間に、あたらしく城を取立、信濃侍望月甚八郎・反野助十郎両人さしをかれ」とある<ref name=":1" />。
根小屋城には武田家臣・[[信濃国]][[佐久郡]][[望月城]]主の望月甚八郎、および伴野助十郎、仁科加賀守信盛が守将となっている(『上野誌』、『[[関八州古戦録|関東古戦録]]』)。
 
『上野誌』、『[[関八州古戦録|関東古戦録]]』では、永禄11年(1568年)に山名城・鷹ノ巣城の間に新城を築き、守将として武田家臣・[[信濃国]][[佐久郡]][[望月城]]主の望月甚八郎、および伴野助十郎、仁科加賀守信盛を入れたとしている<ref name=":2" />。
 
[[武田氏]]の勢力が[[上野国]]から退いたのちの消息は不明となった。廃城時期も不詳である。
 
なお、根小屋城の名称は東麓の根小屋村に由来するが、この名は江戸時代に呼称されたもので、築城時の名は不詳<ref name=":0" />。『[[日本城郭大系]]』では新城と呼ばれてう名と推測している<ref name=":0" />
 
== 構造 ==
本郭は東西90メートル、南北35メートルの規模で、東南と北西に戸口があり、南東の戸口の前面には馬出状の三角形の郭が付属した<ref name=":1" />。本郭北東の堀には水を溜めて水の手として長期戦に備えたとみられる<ref name=":2" /><ref name=":1" />。山城には珍しい囲郭式の城郭となっている<ref name=":2" /><ref name=":1" />。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* [[平井聖]]〔ほか〕編集『日本城郭大系』第4巻、新人物往来社、1979年
 
== 関連項目 ==
* [[日本の城一覧]]
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:ねこやしよう}}
[[Category:群馬県の城]]