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MK0141MK (会話 | 投稿記録)
「武田氏の主な側近(信玄・勝頼時代)」に含まれてしまっていた安芸武田氏などを修復。上記と研究等の項目を甲斐武田氏の項目に統合
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=== 甲斐武田氏の主な側近(信玄・勝頼時代) ===
{{main|武田信玄の家臣団}}
武田氏は、戦国大名家の家臣団に関する軍制や所領の実態が記された軍役帳や所領役帳などの基礎史料を欠いているため、家臣団の実態を知ることは難しい。江戸時代に記された軍記物である『[[甲陽軍鑑]]』には晴信(信玄)晩年期・勝頼期に関し家臣団の詳細が記され、江戸期以来の流行により一般においても広く知られてはいる。『軍鑑』は明治期の史学会において[[田中義成]]により史料性を否定され、長く実証的研究においては用いられてこなかったが、近年は[[酒井憲二]]による国語学的研究が行われて再評価され、史料性の再検討がなされている。
 
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===一門御親類衆===
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武田氏関係文書の特徴として、文書の多くは戦国期に武田氏の拡大領国が確立した信玄・勝頼期に集中し、信虎期以前のものが極端に少なく、信玄・勝頼期でも当主以外の武田一族の文書や家臣団関係の文書、在地支配に関する文書は少ない。武田家では最低でも3人の[[右筆]]の存在が確認されているほか<ref>{{Cite journal|和書|author=柴辻俊六|authorlink=柴辻俊六|title=戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-|journal=山梨県史研究|issue=5号|year=1997|pages = pp.79-100}}</ref>、信玄文書は[[墨]]の濃淡が極端である特徴をもつことが指摘される。武田氏は家伝文書の多くが散逸しているため、[[真田氏]]の資料を使用するなどの搦め手が必要になる。外交文書においては、例えば近世大名家として存続している上杉家との関係においては武田氏側から発給された文書の多くが上杉家に伝存し、一方の上杉氏側から発給した文書の多くは伝存していないといった特徴をもつ。
 
 
==== 武田氏の偽文書 ====
なお、武田氏関係の古文書には[[偽文書]]が多いことも指摘され、一見してそれとわかる稚拙なものから、明らかに地域の事情に精通した人物によって作られた精巧なものまで様々な物が見られる。既に江戸時代から、甲斐国や信濃国に偽文書が多いことが知られており、その多くは武田信玄と徳川家康のものである。甲斐国では「[[大小切騒動#大小切税法の概要|大小切税法]]」という独特の金納税法を取っており、近世後期には換金相場が固定されていたことから相対的に年貢が低率となり、これは武田家以来の恩寵だという由緒が語られるようになる。そこでいわゆる「恩借証文」と呼ばれる偽文書が各地の村や家に伝来し、中には[[木版]]で印刷されたものも存在する。また、武田旧臣という由緒を誇る武田浪人たちも、偽文書を保持していた。これらは、戦功を讃えた内容に武田氏が用いた龍の朱印が捺された[[感状]]と、徳川家康による知行宛行状や本領安堵の朱印状を一緒に偽造することが多い。更に[[宗門人別改帳]]さえも、和紙の端を水で解し、その繊維を利用して紙を継ぐ喰裂継ぎという手法をもちい、別の文書に継ぎ足して内容を改ざんするという手の込んだものも見られる。このように多く偽文書が作られたのは、村落で地域の名家として成長した地主たちが、その家産に見合った家名を欲し、地域的な由緒である武田信玄と、全国的な由緒である徳川家康を組み合わせることで、武士との近似性を強調し、村落における家格の優位性を誇ろうとしたのだと考えられる<ref>大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 [[国立歴史民俗博物館]]編集発行 『企画展示 大ニセモノ博覧会 ー贋造と模倣の文化史ー』 2015年3月10日、pp.50-57。</ref><ref>[[西谷大]]編著 『見るだけで楽しめる! ニセモノ図鑑 贋造と模倣からみた文化史』 [[河出書房新社]]、2016年10月20日、pp.58-70、ISBN 978-4-309-27767-7。</ref>。