「桜田門外の変」の版間の差分
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老中・阿部正弘や徳川斉昭、島津斉彬らが主導した雄藩協調体制を否定、幕閣絶対主義を反対者の粛清により維持しつつ、朝廷からの政治介入をも阻止するという井伊直弼の[[専制政治|専制]]政策路線は、自身の死によって決定的に破綻した。そればかりか、[[徳川御三家|御三家]]の一つである[[水戸徳川家]]と、[[譜代大名]]筆頭の井伊家が反目、長年持続した幕府の権威も大きく失墜し、文久期以降に尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここからわずか7年と7か月後の[[慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[1867年]][[11月9日]])、第15代将軍・徳川慶喜によって[[大政奉還]]が成され、翌年の[[江戸開城]]により急転直下で成る明治維新への、直接的ではっきりした起点がこの桜田門外の変であった。
襲撃後の現場には後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、大老暗殺はただちに江戸市中へ知れ渡った。斬り合いは既に終わったにもかかわらず、天気の回復した事変当日の午後から夕方には、見物人が桜田門付近のぬかるみの道に群れを成した<ref name="py265"/>。直弼の強権と、襲撃を受けた際の彦根藩士の狼狽ぶりは好対照で、「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)」をもじって「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」などと市井に揶揄された。また、首を取られたにもかかわらず病臥と言い繕うことを皮肉った「倹約で枕いらずの御病人」「遺言は尻でなさるや御大病」「人参で首をつげとの御沙汰かな(幕府から病状回復の薬として朝鮮人参が贈られたため)」などの[[川柳]]も相次いだ。事件直後の市中の状況をよみ上げた[[ちょぼくれ]]や[[あほだら経]]も採集されている([[あほだら経]]の項を参照)。<br />
また庶民の中には「徳川斉昭の肉の怨みを藩士が討ち晴らした」と受け取り、 この事件を「すき焼き討ち入り」「御牛騒動」などと呼ぶ者たちもいた<ref>日刊ゲンダイ2023年6月13日号12面</ref>。毎年、井伊家より贈呈され、肉好きの斉昭が楽しみにしていた近江牛の味噌漬けが、直弼の家督相続以来、送られてこなくなったからである。
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