「ノーフォーク (重巡洋艦)」の版間の差分

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1940年3月のスカパ爆撃と部隊について出典補足
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なお「ビスマルク」では「ノーフォーク」への主砲発砲で前部レーダーが故障したので{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=28}}、リュッチェンス提督は「ビスマルク」と「プリンツ・オイゲン」の配置を入れ替える{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=170-174}}。「プリンツ・オイゲン」~「ビスマルク」~追尾部隊(ノーフォーク、サフォーク)という航海が始まった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=107-109}}。ドイツ戦艦からは、追尾するウォーカー部隊が視認できたという{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=170-174}}。
 
[[5月24日]]朝の[[デンマーク海峡海戦]]で、巡洋戦艦「[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Hood}}'') -->と戦艦「[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」<!-- (''{{lang|en|HMS Prince of Wales}}'') -->を指揮していた{{仮リンク|ランスロット・ホランド|en|Lancelot Holland}}中将は、ウォーカー部隊(ノーフォーク、サフォーク)にドイツ重巡を、直率の大型艦2隻に「ビスマルク」を狙わせる決意であった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=121-123}}。だが無線封止をしていたのでウォーカー戦隊に意図が伝わらず、敵味方双方の航路がずれたこともあり{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=121-122}}、「フッド」と「ウェールズ」のみでビスマルク部隊を相手にすることになった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=126-130}}。ウォーカー部隊を戦闘に加入させ、「ビスマルク」の後部火力(3番砲塔、4番砲塔、38センチ砲合計4門)を分散させる戦術もあったが{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=142-143}}{{Efn|ドイツ戦艦側も、視認距離を航行している英重巡2隻から魚雷攻撃されることを警戒し、後方への警戒を怠らなかった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=181-183}}。}}、その命令を出すまえに「フッド」は轟沈してホランド中将は戦死してしまった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=194|ps=アイスランド沖海戦}}。「プリンス・オブ・ウェールズ」も被弾と故障で戦闘継続が困難となり{{Sfn|ミドルブック、戦艦|1979|pp=75-76}}、艦長{{仮リンク|ジョン・リーチ (軍人)|label=ジョン・リーチ|en|John Leach (Royal Navy officer)|label=リーチ}}大佐はビスマルク部隊を距離をとった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=150-156}}。
 
「ノーフォーク」のフィリップス艦長は、かつて「フッド」の砲術長をつとめていた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=157}}。ウォーカー少将は「フッド轟沈ス」の電報を全世界に発し{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=157}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=420}}、生存者の捜索を駆逐隊にまかせる{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=159-162}}。つづいて合流した「プリンス・オブ・ウェールズ」を指揮下に入れ{{Sfn|ミドルブック、戦艦|1979|pp=75-76}}、引き続きビスマルク部隊を追跡した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=124-125|ps=(デンマーク海峡海戦航跡図)}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=176-180}}。24日午後、[[海軍本部_(イギリス)|海軍本部]]の[[ダドリー・パウンド|パウンド]]海軍大将の介入により{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=182-188}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=408-109}}、ウォーカー戦隊3隻は「ビスマルク」と砲撃戦をおこなったが<ref name="gnd19410528p5" />、敵味方双方とも特筆すべき戦果も被害もなかった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=220-221}}{{Efn|サフォークの艦橋の窓ガラスが割れ、吹きさらしとなった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=193-195}}。