「後三条天皇」の版間の差分
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頼通や教通は後冷泉天皇の[[後宮]]に娘を入内させ、その子を次代の天皇にすることを考えていた。このため東宮となってからも、尊仁親王に対する冷遇は続いた。『栄花物語』では親王と頼通が「お仲あしう(仲が悪い)」と直接的に表現されている{{sfn|中村成里|2006|p=24}}。[[大江匡房]]の談話集『[[江談抄]]』には、歴代の[[東宮]]が伝領する「[[壺切御剣]]」を頼通が「藤原氏(特に[[摂家|摂関家]])腹の東宮の宝物」との理由で、23年もの間、[[親王]]が[[即位]]するまで献上しなかった事が記されている。ただしこの記述については誤伝説もある{{Efn|[[源師房]]の『土右記』永承元年11月22日条には「壺切御剣」を所持していたことを示す記述があること、『江談抄』自体が匡房の懐古談を[[藤原実兼 (蔵人)|藤原実兼]]が筆記したものであるために齟齬が生じる可能性があり、元々は三条天皇の皇子であった敦明親王の故事が聞き間違えられた可能性があるとする指摘がある<ref>松浦辰男「壷切御剣之事」『史学会雑誌』19号、1891年6月。</ref>。}})。
ただし、尊仁親王の祖母はともに道長の子であるなど摂関家の「ミウチ」であること、親王が即位しても摂関家以外に外戚の要件を満たす家は存在しないこと、頼通が尊仁親王の妃として[[後一条天皇]]の皇女である[[馨子内親王]]を入内させていること(馨子に皇子が誕生して[[皇位継承|皇位を継承]]しても、頼通と皇子の血縁関係は大伯父と姪孫の関係しか構築できないのは尊仁親王と全く同じである。ただし、実際には皇子は生まれなかった)など、尊仁親王(後三条天皇)と藤原氏(摂関家)の血縁関係を「疎遠」の一言では片付けられない側面も有している。このため、河内祥輔のように頼通らは後朱雀天皇の嫡男である後冷泉天皇の系統に皇位を一本化し、[[両統迭立]]を回避する意図があったとする考えもある{{sfn|長田圭介|2010|p=50}}。
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