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この2つもリンク切れにつきアーカイブに差替。ゆりあげ港朝市のセルフ炉端焼きについてはコーナーが供用中止状態になっている点を加筆。
転記審議に異論がなかったため、一部を天江富弥に転記するとともに内容を見直し、無出典で炉端焼きとの関係の薄い当時の仙台における外食事情を書いた箇所は除去。
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{{一部転記|天江富弥|date=2025年2月}}
[[File:Robatayaki.jpg|300px|thumb|炉端焼き]]
[[File:PM Abe and the Trumps having dinner (1).jpg|300px|thumb|炉端焼きを嗜む[[安倍晋三]]と[[ドナルド・トランプ]]]]
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[[魚介類]]の炭火焼きは、仙台に限らず世界で古くから行われていたと考えられるが、[[連合国軍占領下の日本|戦後占領期]]([[1945年]] - [[1952年]])にあたる[[1950年]]([[昭和]]25年)に、[[東北地方]]の[[民俗学]]に精通した[[天江富弥]]([[1899年]] - [[1984年]]、[[仙台市]]出身)が[[宮城県]]仙台市に開いた[[飲食店]]「炉ばた」により、この呼称が生まれたとされる。
 
このような事情を踏まえ、「炉ばた」では「'''[[囲炉裏]]端に店主(料理人)が陣取り、炭火で旬の野菜や魚介類を焼き、会話中の店主(料理人)が中座しなくても良いよう、出来上がったそれらを『掘返べら』という長い[[しゃもじ]]で離れた客に渡す'''」というスタイルが定着した。当時、料理のほか、天江のトークを売り物にしていた「炉ばた」には様々な富裕層や知識人が集まり、一種の'''[[サロン]]'''となった。このスタイルは、サロンを開けるほどの話術や知識を持たない店主(料理人)でも模倣できたため、「炉ばた」のような特性を持たない(サロンではない)[[ステレオタイプ]]で日本各地に伝播した。現在ではそれがさらに簡略化され、店舗や料理人の有無に関係なく、客自らが炭火で調理する「[[和風]]の[[バーベキュー]]」(主に魚介類の網焼き)をも「炉端焼き」、あるいは、「炉端」と呼ぶ例も多い。
[[仙台空襲]]に遭った同市では、経済的に余裕のある層をおもな顧客とした市内の[[花街]]に同店は開業した。なお、一般の庶民が飲食をする場合は横丁の店、あるいは[[仙台駅]]周辺の屋台を利用するのが一般的であった。
 
戦後占領期の仙台には[[GI (軍隊)|GI]]が多数おり、彼らは仙台駅北側のX橋([[宮城野橋]])周辺や、[[仙石線]]・[[苦竹駅]]([[仙台駐屯地|進駐軍・苦竹キャンプ]])に隣接する[[苦竹小路]]などのGI向け飲食店を利用しており、当時は[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]が圧倒的に強かったこともあり、[[日本人]]とGIは住み分けていた。
 
また、[[1960年代]]以前の日本の[[農業]]では[[糞|人糞]]を使っていた<ref group="注">[[化学肥料]]が戦前と同等の生産量にまで回復したのは[[1950年]]頃。</ref> ため[[寄生虫]]の問題があり、生野菜を食べることはなく<ref>[http://www.life-bio.or.jp/topics/topics524.html 「食の安全を考える〜浅漬けによる食中毒問題の教訓」](NPO法人くらしとバイオプラザ21)</ref>、[[冷蔵庫]]も普及前であったため、[[野菜]]は加熱するか[[塩漬け]]するなどして[[食中毒]]を回避していた。それに加えて、当時は[[エネルギー革命]]前で[[都市ガス]]が普及しておらず<ref group="注">当時の仙台では、調理用のエネルギーとして[[亜炭]]・[[木炭]]・[[薪]]等を使用していた。戦後の都市ガスは石炭不足のため供給が不安定になり、仙台市ガス部(現・[[仙台市ガス局]])が24時間供給可能にまで回復したのは[[1950年]](昭和25年)[[12月30日]]。</ref>、食材の加熱には炭火([[直火焼き]])が用いられた。[[肉食]]は[[明治]]以来すでに普及していたが、戦後の[[ハイパーインフレーション]]の中で[[食肉|畜肉]]は高級品であり、[[魚介類]]が当時の食の中心だった。
 
このような事情を踏まえ、「炉ばた」では「'''[[囲炉裏]]端に店主(料理人)が陣取り、炭火で旬の野菜や魚介類を焼き、会話中の店主(料理人)が中座しなくても良いよう、出来上がったそれらを『掘返べら』という長い[[しゃもじ]]で離れた客に渡す'''」というスタイルが定着した。当時、料理のほか、天江のトークを売り物にしていた「炉ばた」には様々な富裕層や知識人が集まり、一種の'''[[サロン]]'''となった。このスタイルは、サロンを開けるほどの話術や知識を持たない店主(料理人)でも模倣できたため、「炉ばた」のような特性を持たない(サロンではない)[[ステレオタイプ]]で日本各地に伝播した。現在ではそれがさらに簡略化され、店舗や料理人の有無に関係なく、客自らが炭火で調理する「[[和風]]の[[バーベキュー]]」(主に魚介類の網焼き)をも「炉端焼き」、あるいは、「炉端」と呼ぶ例も多い。
 
現在、仙台の飲食店「炉ばた」は、移転・代替わりして続いている。また、他にも「炉端焼き」を名物とする都市として、[[釧路港]]を擁する[[北海道]][[釧路市]]があり、同市は「炉端焼きの発祥地」としてシティセールスも行っている<ref>{{Wayback|url=http://www.city.kushiro.lg.jp/common/000109424.pdf |title=歴史とあゆみ|date=20211130101344}} - 釧路市</ref>。他方、仙台市の南東に隣接する[[名取市]]の閖上港で1980年頃から始まった「[[ゆりあげ港朝市]]」では、セルフ炉端焼きが名物になっていた<ref>{{Wayback|url=http://yuriageasaichi.com/info/1486 |title=炉端焼きのご案内!|date=20190525053635}} - ゆりあげ港朝市協同組合(旧サイト)</ref>(ただし、2024年末をもっていったん炉端焼きスペースの供用を中止し、利用ルール決定後に再開するとしている<ref>[https://www.yuriageasaichi.jp/post/robatayaki-use-discontinued202412 有料炉端焼き 予約受付中止のご案内] - - ゆりあげ港朝市協同組合(2024年11月30日)2025年2月14日閲覧。</ref>)。
 
因みに、炉端焼き発祥年とされる1950年(昭和25年)の仙台では、正肉ではない[[牛タン]]から[[佐野啓四郎]]([[山形県]]出身)が「[[牛タン#料理|牛タン定食]]」という名物メニューを自身の店舗「太助」にて生み出すが、天江の炉端焼きと同様、当時のエネルギー事情、食料事情、食中毒対策等がその成立の背景となっている(天江・佐野の両人は、それらを生み出す前に地元を出て[[東京圏]]在住経験がある)。なお、1950年(昭和25年)当時、「炉ばた」および「太助」が、法的に[[1941年]](昭和16年)から[[1969年]](昭和44年)まで存在した外食券が必要な[[外食券食堂]]であったか、必要としない[[雑炊食堂]]であったかどうかは不明である。
 
== 歴史 ==
{{座標一覧}}
[[連合国軍占領下の日本|戦後占領期]]の[[1950年]][[7月2日]]<ref name="Muntsun">{{Cite book|和書|author=島内義行|title=随筆集 ~ むんつん閑語| chapter=心の一駒|publisher=黒潮社|date=1993-11|url=https://web.archive.org/web/20170113052303/http://home.att.ne.jp/banana/kuroshio-sha/kuroshio_pages/muntsun_sample04.html}}</ref>、天江富弥が実家である[[日本酒]]の蔵元「天賞酒造」の販路拡大を企図して、仙台市の[[花街|花柳界]]の中心地・本櫓丁<ref>『忘れかけの街・仙台 ~昭和40年頃、そして今~』河北新報出版センター、2005年4月25日、pp.36 - 37 ISBN 4-87341-189-0</ref><ref>『写真帖 追憶の仙台』無明舎出版、2014年6月10日、pp.44 - 45 ISBN 978-4-89544-579-5</ref>(現在の[[歓楽街]]「[[国分町 (仙台市)|国分町]]」の一部、{{ウィキ座標|38|15|46.9|N|140|52|7.1|E|region:JP|地図|name=郷土酒亭「炉ばた」のおおよその位置}}<ref name="Muntsun"/>)に開いた郷土酒亭「'''炉ばた'''」が「炉端焼き」の発祥の店とされる<ref name="OX20150624">{{Wayback|url=http://www.ox-tv.co.jp/shoku/st_05/ |title=VOL.5 ゆったりと流れる時間に乾杯!|date=20170112174009}} - 「とうほく食文化応援団」([[仙台放送]])2015年6月24日放送</ref><ref name="HirosegawaNet02">西大立目祥子「{{Wayback|url=http://www.hirosegawa-net.com/kioku/02_1.html |title=広瀬川の記憶 vol.2 「河童祭り」を戦後に伝えた天江富弥」|date=20170301051551}} - 仙台市建設局『河水千年の夢』2004年9月6日</ref>。店名の「炉ばた」は[[林香院]]<ref group="注">[[若林区]]新寺にある[[曹洞宗]]寺院。[[奥州仙臺七福神]]の1つ。</ref> の住職が命名した<ref name="Muntsun"/>。「炉ばた」のマッチラベルは、売れる前の[[棟方志功]]が描いた。
[[宮城県]][[仙台市]]は[[第二次世界大戦]]における[[仙台空襲]]([[1945年]][[7月10日]])で、[[仙台市都心部]]が焼野原になった。
 
「炉ばた」では「[[囲炉裏]]端に店主(料理人)が陣取り、炭火で旬の野菜や魚介類を焼き、会話中の店主(料理人)が中座しなくてもよいよう、でき上がった料理を『掘返べら』という長い[[しゃもじ]]で離れた客に渡す」というスタイルが定着した。その背景として
[[連合国軍占領下の日本|戦後占領期]]の[[1950年]][[7月2日]]<ref name="Muntsun">{{Cite book|和書|author=島内義行|title=随筆集 ~ むんつん閑語| chapter=心の一駒|publisher=黒潮社|date=1993-11|url=https://web.archive.org/web/20170113052303/http://home.att.ne.jp/banana/kuroshio-sha/kuroshio_pages/muntsun_sample04.html}}</ref><ref group="注">当時の仙台では、公道の一部に陣取り営業する[[屋台]]が全盛だった。「[[仙台市都心部#横丁・屋台]]」参照。</ref>、[[大崎八幡宮]]の[[神酒|御神酒]]酒屋・[[まるや天賞|天賞酒造]](当時の仙台市八幡町)<ref group="注">[[1804年]]に[[仙台城]]下の八幡町(現・[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]八幡)に創業した日本酒醸造会社で、[[仙台裸参り]]([[どんと祭]])では伝統の裸参りを実施していた。敷地内に「山上清水」(仙台三清水の1つ)と呼ばれた涌き水があった。主要銘柄は仙台を訪問した皇太子(のちの[[大正天皇]])が同社の酒を飲んだことで生まれた「天賞」、そして[[仙台藩]]初代藩主・[[伊達政宗]]に由来する「獨眼龍政宗」など。[[2004年]]、経営不振から創業地を売却し(敷地の多くは複合商業施設「レキシントンプラザ八幡」として再開発され、庭園「天賞苑」は仙台市が買い取って「中島丁公園」として再整備)、翌年に仙台市に隣接する[[柴田郡]][[川崎町 (宮城県)|川崎町]]に本社・工場を移転。社名も「まるや天賞」に改称。[[2011年]][[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])で被災したことで会社は存続させるものの、醸造業務は断念し、「天賞」「獨眼龍政宗」の[[商標権]]を中勇酒造店([[加美町]]、主要銘柄:「天上夢幻」)に売却、同年6月に酒造免許の取り消し申請をした。川崎町の土地と建物などは、被災した新沢醸造店([[大崎市]]、主要銘柄:「伯楽星」)の部分移転先となった。</ref><ref>{{cite news |url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/07/20110716t12008.htm |title=まるや天賞醸造断念 震災で設備損傷 中勇に商標権譲渡 |publisher=[[河北新報]] |date=2011-7-16 |accessdate=2015-9-14 |archivedate=2011-7-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110719201936/http://www.kahoku.co.jp/news/2011/07/20110716t12008.htm }}</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.sakemiyagi.com/tenshou/index.html |title=天賞酒造株式会社|date=20160404185947}} - 地酒を楽しむ会宮城</ref> の三男<ref name="HirosegawaNet02">西大立目祥子「{{Wayback|url=http://www.hirosegawa-net.com/kioku/02_1.html |title=広瀬川の記憶 vol.2 「河童祭り」を戦後に伝えた天江富弥」|date=20170301051551}} - 仙台市建設局『河水千年の夢』2004年9月6日</ref>・[[天江富弥]]<ref group="注">本名は天江富蔵(生年:[[1899年]]、没年:[[1984年]])。仙台市出身。[[1920年]][[明治大学]]専門部商業科卒。[[1921年]]に[[おてんとさん社]]を結成した。同社より童謡誌「おてんとさん」を創刊するなど、児童文化活動の指導者として活躍。[[竹久夢二]]とも交流があり、「おてんとさん」にも夢二の作品が載っている。また、1924年には仙台市の[[文化横丁]]に郷玩店「小芥子洞」を開業し、[[1928年]]にこけしを体系的に扱った日本初の文献「こけし這子の話」を上梓して、[[ブリキ#ブリキの玩具|ブリキのおもちゃ]]に圧されて衰微していた東北限定の玩具・こけしを、全国的に著名な[[民芸品]]に押し上げ、大人の収集家を全国に多数生んだ。</ref><ref name="DiscoverTaihaku196">{{Wayback|url=http://www.taihakumachikyo.org/taihk/taihk0196/index.html |title=196 天江富弥(あまえとみや)の童謡詩碑|date=20230925142046}} - [[太白区]]区民部まちづくり推進課内・太白区まちづくり推進協議会「ディスカバーたいはく5号」</ref><ref name="sendai-lit">[http://www.sendai-lit.jp/1092 竹久夢二・詩と絵の世界―愛と、ロマンと、漂泊と] - [[仙台市文学館]](2015年9月)</ref><ref name="KokeshiKahoku">高橋五郎『癒やしの微笑み 東北こけしの話』河北新報出版センター、2014年9月、p.2
#[[1960年代]]以前の日本の[[農業]]では[[糞|人糞]]を使っていた<ref group="注">[[化学肥料]]が戦前と同等の生産量にまで回復したのは[[1950年]]頃。</ref> ため[[寄生虫]]の問題があり、生野菜を食べることはなく<ref>[http://www.life-bio.or.jp/topics/topics524.html 「食の安全を考える〜浅漬けによる食中毒問題の教訓」](NPO法人くらしとバイオプラザ21)</ref>、[[冷蔵庫]]も普及前であったため、[[野菜]]は加熱するか[[塩漬け]]するなどして[[食中毒]]を回避していた。
ISBN 978-4-87341-327-3 </ref><ref>「{{PDFlink|[https://lib-www.smt.city.sendai.jp/wysiwyg/file/download/1/587. こけしの語源と素材]}}」『要説 宮城の郷土誌』[[仙台市民図書館]]、1980年、p.137</ref><ref name="collectors">[https://bokujinshi.info/kokesyu.htm こけし蒐集家という人達] - 木人子室(こけし蒐集家・桜井正明のウェブサイト)</ref> が、同社の[[日本酒]]の販路拡大を企図して、仙台[[花街|花柳界]]の中心地・本櫓丁<ref>『忘れかけの街・仙台 ~昭和40年頃、そして今~』河北新報出版センター、2005年4月25日、pp.36 - 37 ISBN 4-87341-189-0</ref><ref>『写真帖 追憶の仙台』無明舎出版、2014年6月10日、pp.44 - 45 ISBN 978-4-89544-579-5</ref><ref group="注">本櫓丁({{googleマップ経路図2|1=38.2633313,140.8696337|2=38.2625834,140.86552|3=@38.2635494,140.867606,17z|data=!4m2!4m1!3e0}})は、西端が本材木町(現・木町通)と十字路を形成して[[元柳町 (仙台市)|元柳町]]に続き、東端が国分町(現・[[国分町通]])と十字路を形成して虎屋横丁に続く東西道。元柳町より西に行くと[[仲の瀬橋]]を渡って[[大日本帝国陸軍]][[第2師団 (日本軍)|第2師団]]([[江戸時代]] : [[仙台城]]二の丸ほか、占領期 : キャンプ・センダイ、現・[[東北大学]]川内キャンパス)に繋がり、虎屋横丁より東に行くと[[仙台駅]]北側(占領期 : 進駐軍のRTO〔鉄道司令部〕あり)でX橋([[宮城野橋]])を越え、仙台駅の東側にある大日本帝国陸軍[[歩兵第4連隊]](占領期 : キャンプ・ファウラー、現・[[榴岡公園]])や東京第一[[陸軍造兵廠]]仙台製造所(占領期 : キャンプ・シンメルフェニヒ、現・[[仙台駐屯地]])に繋がる。本櫓丁は[[江戸時代]]には武家屋敷が並んでいたが、[[明治維新]]後に[[料亭]]や[[芸者置屋]]が建ち並ぶようになって、仙台の[[花街|花柳界]]の中心地となった([[高度経済成長]]の終焉後に衰退)。[[1947年]]には細横丁(現・[[晩翠通]])との角に、東北一の[[70mmフィルム|70ミリ映画]]館・[[東北劇場]]([[映画|洋画]]専門の[[映画館#日本|二番館]])も開館した([[1979年]]に火災で閉館)。</ref>(現在の[[歓楽街]]「[[国分町 (仙台市)|国分町]]」の一部、{{ウィキ座標|38|15|46.9|N|140|52|7.1|E|region:JP|地図|name=郷土酒亭「炉ばた」のおおよその位置}}<ref name="Muntsun"/>)に開いた郷土酒亭「'''炉ばた'''」<ref name="HirosegawaNet02"/> が「炉端焼き」の発祥の店とされる<ref name="OX20150624">{{Wayback|url=http://www.ox-tv.co.jp/shoku/st_05/ |title=VOL.5 ゆったりと流れる時間に乾杯!|date=20170112174009}} - 「とうほく食文化応援団」([[仙台放送]])2015年6月24日放送</ref>。店名の「炉ばた」は[[林香院]]<ref group="注">[[若林区]]新寺にある[[曹洞宗]]寺院。[[奥州仙臺七福神]]の1つ。</ref> の住職が命名した<ref name="Muntsun"/>。
また、[[1960年代]]以前の日本の[[農業]]では[[糞|人糞]]を使っていた<ref group="注">[[化学肥料]]が戦前と同等の生産量にまで回復したのは[[1950年]]頃。</ref> ため[[寄生虫]]の問題があり、生野菜を食べることはなく<ref>[http://www.life-bio.or.jp/topics/topics524.html 「食の安全を考える〜浅漬けによる食中毒問題の教訓」](NPO法人くらしとバイオプラザ21)</ref>、[[冷蔵庫]]も普及前であったため、[[野菜]]は加熱するか[[塩漬け]]するなどして[[食中毒]]を回避していた。それに加えて、#当時は[[エネルギー革命]]前で[[都市ガス]]が普及しておらず<ref group="注">当時の仙台では、調理用のエネルギーとして[[亜炭]]・[[木炭]]・[[薪]]等を使用していた。戦後の都市ガスは石炭不足のため供給が不安定になり、仙台市ガス部(現・[[仙台市ガス局]])が24時間供給可能にまで回復したのは[[1950年]](昭和25年)[[12月30日]]。</ref>、食材の加熱には炭火([[直火焼き]])が用いられた。[[肉食]]は[[明治]]以来すでに普及していたが、戦後の[[ハイパーインフレーション]]の中で[[食肉|畜肉]]は高級品であり、[[魚介類]]が当時の食の中心だった。
といった事情がある。
 
富弥は[[大正]]期より児童文化活動家として知られ当時[[昭和]]初期に発生した「第1次[[こけし]]ブーム」料理火付け役<ref name="KokeshiKahoku"/><ref name="collectors"/> の[[郷土史家]]でもありほか後に宮城県[[日本民芸協会|民藝協会]]の初代副会長も務めた<ref>[https://mingeimiyagi.jugem.jp/?eid=47 小正月にちなみ 餅花の思い出] - 民芸みやぎ(宮城県民藝協会、2012年1月14日)</ref>。また、[[野口雨情]]や[[山村暮鳥]]<ref>{{Wayback|url=https://www.khb-tv.co.jp/suzukiheki/ |title=才童謡詩人 スズキヘキ 仙台で日本初童謡専門誌を創った男|date=20140825103957}} - 「ほっとネッとうほく」([[東日本放送]]、2006年1月28日放送番組の案内)</ref>、[[竹久夢二]]<ref name="sendai-lit"/>、三大閨秀歌人といわれた[[柳原白蓮]]・[[九条武子]]・[[原阿佐緒]]<ref name="Muntsun"/>、さらには[[石川善助]]<ref>[https://www.sendai-lit.jp/6918 開館25周年記念特別展「詩人・石川善助ークたずねて~北方への道の」] - 仙台文学館(2024年4月)2025年2月13日閲覧。</ref>、[[永六輔]]<ref>永六輔『奇人変人御老人』[[文芸春秋]]、1974年、{{要ページ番号|date=2025-02}}</ref> など幅広い交友関係を持っ物にしていた<ref name="DiscoverTaihaku196"/><ref>[[日本児童文学学会]](編)『[https://alc.chiba-u.jp/cl/pdf/a.pdf#page=21 児童文学事典]』[[東京書籍]]、1988年、p.21(リンク先は[[千葉大学]]アカデミック・リンク・センターによる電子版)</ref>。「炉ばた」のマッチラベル、売れる前の[[棟方志功]]富裕層や知識人描いた。すなわち集まり客が仙台一種文化人・趣味人でもある富弥と、[[囲炉裏]]を囲んで会話を楽しむ[[サロン]]店が「炉ばた」であったようである{{要出典|date=2025-02}}。[[1960年]]頃には[[ジェイムズ・カーカップ]]も来店した<ref name="Muntsun"/>。一方で富弥は、[[1924年]]にこけし等の[[民芸品]]を扱う「小芥子洞」を開店しており、「炉ばた」にも様々な[[骨董品]]が飾られたようだが、ある時、店主の知人が店に飾るための開店祝いとして、大きな木べらをプレゼントした。しかし、これは飾られることなく、客に酒や料理を差し出す柄付きの盆のように使用された。これが後に全国に広まる炉端焼きの特徴の1つになった。市内に本店と支店が同時に存在した時期もあり繁盛した<ref name="Muntsun"/>。その後店は何度か移転し、主人も代替わりしたがつつ、現在も同市の歓楽街「国分町」([[稲荷小路]]沿い)に「元祖 炉ばた」({{Coord|38|15|51.6|N|140|52|11.4|E|region:JP|name=「元祖 炉ばた」}})の店名で存続している<ref name="OX20150624"/>。[[コロナ禍]]に見舞われた[[2020年]]6月限りでいったん閉店したが<ref>{{Cite news|url=https://kahoku.news/articles/20200531kho000000026000c.html|title=仙台・天江富弥創業「炉ばた」70年の歴史6月で幕 コロナ禍で客足戻らず|newspaper=河北新報|date=2020-05-31|accessdate=2025-02-14}}</ref>、東京の飲食業者「絶好調」が運営を引き継ぐ形で、同年8月から再開した<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASN7S7563N7RUNHB01D.html|title=文化人が愛した仙台の「元祖炉ばた」 閉店から復活へ|newspaper=朝日新聞|date=2020-07-25|accessdate=2025-02-14}}</ref>。
 
[[ファイル: 炉端焼き.JPG|thumb|[[北海道]][[釧路市]]の炉端焼き(2013年7月)]]