「炉端焼き」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
この2つもリンク切れにつきアーカイブに差替。ゆりあげ港朝市のセルフ炉端焼きについてはコーナーが供用中止状態になっている点を加筆。 |
転記審議に異論がなかったため、一部を天江富弥に転記するとともに内容を見直し、無出典で炉端焼きとの関係の薄い当時の仙台における外食事情を書いた箇所は除去。 タグ: サイズの大幅な増減 |
||
1行目:
[[File:Robatayaki.jpg|300px|thumb|炉端焼き]]
[[File:PM Abe and the Trumps having dinner (1).jpg|300px|thumb|炉端焼きを嗜む[[安倍晋三]]と[[ドナルド・トランプ]]]]
9 ⟶ 8行目:
[[魚介類]]の炭火焼きは、仙台に限らず世界で古くから行われていたと考えられるが、[[連合国軍占領下の日本|戦後占領期]]([[1945年]] - [[1952年]])にあたる[[1950年]]([[昭和]]25年)に、[[東北地方]]の[[民俗学]]に精通した[[天江富弥]]([[1899年]] - [[1984年]]、[[仙台市]]出身)が[[宮城県]]仙台市に開いた[[飲食店]]「炉ばた」により、この呼称が生まれたとされる。
また、[[1960年代]]以前の日本の[[農業]]では[[糞|人糞]]を使っていた<ref group="注">[[化学肥料]]が戦前と同等の生産量にまで回復したのは[[1950年]]頃。</ref> ため[[寄生虫]]の問題があり、生野菜を食べることはなく<ref>[http://www.life-bio.or.jp/topics/topics524.html 「食の安全を考える〜浅漬けによる食中毒問題の教訓」](NPO法人くらしとバイオプラザ21)</ref>、[[冷蔵庫]]も普及前であったため、[[野菜]]は加熱するか[[塩漬け]]するなどして[[食中毒]]を回避していた。それに加えて、当時は[[エネルギー革命]]前で[[都市ガス]]が普及しておらず<ref group="注">当時の仙台では、調理用のエネルギーとして[[亜炭]]・[[木炭]]・[[薪]]等を使用していた。戦後の都市ガスは石炭不足のため供給が不安定になり、仙台市ガス部(現・[[仙台市ガス局]])が24時間供給可能にまで回復したのは[[1950年]](昭和25年)[[12月30日]]。</ref>、食材の加熱には炭火([[直火焼き]])が用いられた。[[肉食]]は[[明治]]以来すでに普及していたが、戦後の[[ハイパーインフレーション]]の中で[[食肉|畜肉]]は高級品であり、[[魚介類]]が当時の食の中心だった。▼
▲このような事情を踏まえ、「炉ばた」では「'''[[囲炉裏]]端に店主(料理人)が陣取り、炭火で旬の野菜や魚介類を焼き、会話中の店主(料理人)が中座しなくても良いよう、出来上がったそれらを『掘返べら』という長い[[しゃもじ]]で離れた客に渡す'''」というスタイルが定着した。当時、料理のほか、天江のトークを売り物にしていた「炉ばた」には様々な富裕層や知識人が集まり、一種の'''[[サロン]]'''となった。このスタイルは、サロンを開けるほどの話術や知識を持たない店主(料理人)でも模倣できたため、「炉ばた」のような特性を持たない(サロンではない)[[ステレオタイプ]]で日本各地に伝播した。現在ではそれがさらに簡略化され、店舗や料理人の有無に関係なく、客自らが炭火で調理する「[[和風]]の[[バーベキュー]]」(主に魚介類の網焼き)をも「炉端焼き」、あるいは、「炉端」と呼ぶ例も多い。
現在、仙台の飲食店「炉ばた」は、移転・代替わりして続いている。また、他にも「炉端焼き」を名物とする都市として、[[釧路港]]を擁する[[北海道]][[釧路市]]があり、同市は「炉端焼きの発祥地」としてシティセールスも行っている<ref>{{Wayback|url=http://www.city.kushiro.lg.jp/common/000109424.pdf |title=歴史とあゆみ|date=20211130101344}} - 釧路市</ref>。他方、仙台市の南東に隣接する[[名取市]]の閖上港で1980年頃から始まった「[[ゆりあげ港朝市]]」では、セルフ炉端焼きが名物になっていた<ref>{{Wayback|url=http://yuriageasaichi.com/info/1486 |title=炉端焼きのご案内!|date=20190525053635}} - ゆりあげ港朝市協同組合(旧サイト)</ref>(ただし、2024年末をもっていったん炉端焼きスペースの供用を中止し、利用ルール決定後に再開するとしている<ref>[https://www.yuriageasaichi.jp/post/robatayaki-use-discontinued202412 有料炉端焼き 予約受付中止のご案内] - - ゆりあげ港朝市協同組合(2024年11月30日)2025年2月14日閲覧。</ref>)。
== 歴史 ==
{{座標一覧}}
[[連合国軍占領下の日本|戦後占領期]]の[[1950年]][[7月2日]]<ref name="Muntsun">{{Cite book|和書|author=島内義行|title=随筆集 ~ むんつん閑語| chapter=心の一駒|publisher=黒潮社|date=1993-11|url=https://web.archive.org/web/20170113052303/http://home.att.ne.jp/banana/kuroshio-sha/kuroshio_pages/muntsun_sample04.html}}</ref>、天江富弥が実家である[[日本酒]]の蔵元「天賞酒造」の販路拡大を企図して、仙台市の[[花街|花柳界]]の中心地・本櫓丁<ref>『忘れかけの街・仙台 ~昭和40年頃、そして今~』河北新報出版センター、2005年4月25日、pp.36 - 37 ISBN 4-87341-189-0</ref><ref>『写真帖 追憶の仙台』無明舎出版、2014年6月10日、pp.44 - 45 ISBN 978-4-89544-579-5</ref>(現在の[[歓楽街]]「[[国分町 (仙台市)|国分町]]」の一部、{{ウィキ座標|38|15|46.9|N|140|52|7.1|E|region:JP|地図|name=郷土酒亭「炉ばた」のおおよその位置}}<ref name="Muntsun"/>)に開いた郷土酒亭「'''炉ばた'''」が「炉端焼き」の発祥の店とされる<ref name="OX20150624">{{Wayback|url=http://www.ox-tv.co.jp/shoku/st_05/ |title=VOL.5 ゆったりと流れる時間に乾杯!|date=20170112174009}} - 「とうほく食文化応援団」([[仙台放送]])2015年6月24日放送</ref><ref name="HirosegawaNet02">西大立目祥子「{{Wayback|url=http://www.hirosegawa-net.com/kioku/02_1.html |title=広瀬川の記憶 vol.2 「河童祭り」を戦後に伝えた天江富弥」|date=20170301051551}} - 仙台市建設局『河水千年の夢』2004年9月6日</ref>。店名の「炉ばた」は[[林香院]]<ref group="注">[[若林区]]新寺にある[[曹洞宗]]寺院。[[奥州仙臺七福神]]の1つ。</ref> の住職が命名した<ref name="Muntsun"/>。「炉ばた」のマッチラベルは、売れる前の[[棟方志功]]が描いた。
「炉ばた」では「[[囲炉裏]]端に店主(料理人)が陣取り、炭火で旬の野菜や魚介類を焼き、会話中の店主(料理人)が中座しなくてもよいよう、でき上がった料理を『掘返べら』という長い[[しゃもじ]]で離れた客に渡す」というスタイルが定着した。その背景として
#[[1960年代]]以前の日本の[[農業]]では[[糞|人糞]]を使っていた<ref group="注">[[化学肥料]]が戦前と同等の生産量にまで回復したのは[[1950年]]頃。</ref> ため[[寄生虫]]の問題があり、生野菜を食べることはなく<ref>[http://www.life-bio.or.jp/topics/topics524.html 「食の安全を考える〜浅漬けによる食中毒問題の教訓」](NPO法人くらしとバイオプラザ21)</ref>、[[冷蔵庫]]も普及前であったため、[[野菜]]は加熱するか[[塩漬け]]するなどして[[食中毒]]を回避していた。
▲
といった事情がある。
[[ファイル: 炉端焼き.JPG|thumb|[[北海道]][[釧路市]]の炉端焼き(2013年7月)]]
|