「浅井昭衛」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
編集の要約なし |
||
1行目:
{{Infobox
|
|画像
|画像
▲|画像説明 =
|宗派=
|出生名 =▼
|寺院=
|生年月日 = {{生年月日|1931|11|30}}▼
|別名=
|生誕地 = {{JPN}} [[東京都]]▼
|戒名=
|法名=
|筆名=
|諡号=
|親 = [[浅井甚兵衛]]▼
|出身校 = [[早稲田大学]]▼
▲|職業 = [[冨士大石寺顕正会]]会長
|没年月日=
|死没地=
|墓所=
|墓所座標=
|配偶者=
|子供= 長男:浅井克衛<br />次男:[[浅井城衛]]
|本拠地=
|任期=
|就任日=
|先代=
|次代=
|退任理由=
|階級=
|師=
|転生=
|弟子=
|著作=
|出家=
|入門=
|地位=
|署名=
}}
'''浅井 昭𫟘'''(あさい しょうえい、[[1931年]]〈[[昭和]]6年〉[[11月30日]] - [[2023年]]〈[[令和]]5年〉[[10月16日]])は、[[日本]]の[[宗教家]]
==
[[浅井甚兵衛]]の長男として東京都に生まれる。戦後の[[1947年]]、16歳の時に[[立正安国論]]を読んで本格的に[[日蓮正宗]]の信仰に目覚めた。当時の彼の指導教師であった中島日彰・品川[[妙光寺 (品川区)|妙光寺]]住職(能化、元・管長代行。円妙院日彰)から、[[大石寺]]26世[[日寛]]の六巻抄の個人講義を受け、大石寺教学の基礎を学んだ。▼
▲戦後の[[1947年]]、16歳の時に[[立正安国論]]を読んで本格的に[[日蓮正宗]]の信仰に目覚めた。当時の彼の指導教師であった中島日彰・品川[[妙光寺 (品川区)|妙光寺]]住職(能化、元・管長代行。円妙院日彰)から、[[大石寺]]26世[[日寛]]の六巻抄の個人講義を受け、大石寺教学の基礎を学んだ。
その後、[[早稲田大学政治経済学部]]に進学するも中退。[[法道院]][[法華講]]の青年部長、[[妙信講]]青年部長、同本部長を歴任し、顕正会会長となる。全国法華講連合会の統制に抵抗し、[[日蓮]]の遺命について、[[創価学会]]および大石寺と全面的に対立するに至った。
[[2023年]](令和5年)10月25日、顕正会の機関誌である『[[顕正新聞]]』において、[[10月16日]]未明に死去したことが公表された<ref name="kensho20231025">{{Cite journal|和書|title=顕正会会長・浅井昭衛先生御逝去:日蓮大聖人の御遺命を奉じて命尽くまで大忠誠を貫かれる|journal=顕正新聞|publisher=顕正新聞社|date=2023-10-25|issue=1630|accessdate=2023-11-19}}</ref>。91歳没。同紙に掲載された次男・[[浅井城衛]](顕正会理事長)のコメントによると、数年前から体力の衰えは窺われながら会長としての指揮を続けていたが、同年9月に開催された同会総幹部会での講演を終えた翌々日に体調を崩し、治療・療養していた中での臨終であったという<ref name="kensho20231025" />。
== 代表的な著作 ==
42 ⟶ 61行目:
* 日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ(冨士大石寺顕正会 (浅井昭衛))(2016年8月発行)
* 日蓮大聖人の仏法-基礎教学書-(冨士大石寺顕正会)(2015年10月発行)
== 関連項目 ==▼
* [[顕正新聞]]▼
== 脚注 ==
47 ⟶ 69行目:
{{Reflist}}
{{先代次代|[[冨士大石寺顕正会]]<br/>初代会長|[[1978年]] - [[2023年]]|[[浅井甚兵衛]]|[[浅井城衛]]}}
▲== 関連項目 ==
▲* [[顕正新聞]]
{{Normdaten}}
|