「北川アイ子」の版間の差分
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樺太出身のウイルタ女性。WikiGapオンライン2025 #WikiGap |
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1968年に夫と5人の子どもと共に日本に渡るが<ref name="kkc165" />、その後夫が音信不通になる<ref>{{Harvnb|高島屋史料館TOKYO|2024|page=73,179}}</ref>。アイ子は畑仕事の下働きなどをして生活する<ref>{{Harvnb|高島屋史料館TOKYO|2024|page=74}}</ref><ref>{{Harvnb|瀧口|2013|page=141}}</ref>。
1975年頃、ゲンダーヌがウイルタとして活動を開始し、アイ子も活動を支える<ref name="tk147">{{Harvnb|瀧口|2013|pages=147-148}}</ref>。[[オロッコの人権と文化を守る会]](のち[[ウィルタ協会]])が結成され、1978年に網走市大曲に私設の北方少数民族資料館[[ジャッカ・ドフニ]]を開館、ゲンダーヌが初代館長となった<ref>{{Harvnb|高島屋史料館TOKYO|2024|page=36}}</ref>。ウイルタをはじめとする少数民族を紹介する収蔵品は来館者が[[ハンズオン#ハンズオン展示|手に取ることが可能]]で<ref name="hkcurators">{{Cite web |url=https://www.hk-curators.jp/archives/2671 |title=北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ【コラムリレー第27回】 |publisher=北海道博物館協会 |author=笹倉いる美 |date=2016-02-29 |accessdate=2025-03-08}}</ref>、アイ子も文様や、衣服、樹皮を使った日用品を制作、来館者に解説などを行った<ref name="tkshmy180">{{Harvnb|高島屋史料館TOKYO|2024|page=180}}</ref>。
ゲンダーヌが軍人恩給支給を訴える際には、戦地で亡くなったウイルタなどの少数民族の兵士のことを思い、元上官に敬意を表すゲンダーヌを叱咤するなどした<ref>{{Harvnb|高島屋史料館TOKYO|2024|pages=71-72,180}}</ref><ref>{{Harvnb|瀧口|2013|pages=120-121}}</ref>。1982年に[[天都山]]に少数民族戦没者慰霊碑を建立するに際し、自宅周辺を戸別訪問して寄付を募った<ref>{{Harvnb|高島屋史料館TOKYO|2024|page=181}}</ref>。
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== ウイルタ文化の伝承 ==
=== イルガ・刺繍 ===
[[アムール川]]流域の民族は、[[線対称|左右対称]]の曲線の文様を民族ごとに様式化している<ref name="tnk46">{{Harvnb|田中|1985|page=46}}</ref>。ウイルタのイルガ(ウイルタ語で「文様」)には、中心から放射状に広がるものや、長方形の
ウイルタ民族は従来下書きなしに刺繍をすることも多かったが、オタス以降型紙も使用するようになったと言われる<ref name="sskr97" />。北川の作例では正方形の薄紙を三角形に3回折り、親指のカーブに合わせて曲線に切っていた<ref name="sskr97" />。刺繍に関して、北川は網走に移住後親族に習い、その後長年にわたり市の公民館で教えた<ref>{{Harvnb|笹倉|1998|pages=94,96,102}}</ref>。公民館講座参加者有志によって結成されたウイルタ刺繍サークル「フレップ会」は、1976年以来活動し<ref>{{Harvnb|笹倉|1998|page=96}}</ref>、北川や兄<ref name="trd119">{{Harvnb|寺田|2021|page=119}}</ref>の切ったイルガを受け継いでいる<ref name="tkshmy46" />。
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=== 信仰 ===
山で山菜やキノコを採る場合や、川や海に安全を願う
ジャッカドフニの冬期休館の前後には、守り神であるセワ(木偶)に対して「プッキチュリ」という儀式を行った<ref name="tkshmy46" />。セワに巻いた木製削りかけを交換し、[[イソツツジ]]の葉を燻すもので、吊るされたセワが燻らされた際の動きで占いも行った<ref name="tkshmy46" />。
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