「尾上多見蔵 (2代目)」の版間の差分
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芝居の[[床山]]亀右衛門の子として京に生まれる。[[瀬川菊之丞 (3代目)|三代目瀬川菊之丞]]の門人となり瀬川和市と名乗り、[[文化 (元号)|文化]]のころ大坂で子供芝居の舞台に出た。文政3年(1820年)、[[中村歌右衛門 (3代目)|三代目中村歌右衛門]]の門人となり中村和市と称す。さらに[[尾上菊五郎 (3代目)|三代目尾上菊五郎]]とともに江戸に下り、11月江戸[[河原崎座]]で菊五郎門人として二代目[[尾上多見蔵]]を襲名。文政6年大坂に帰り、翌[[天保]]2年(1831年)には大坂中の芝居での五変化の所作事が評判になる。師の菊五郎が[[大川橋蔵]]を名乗った時には大川八蔵を名乗ったこともあったが、二年ほどで尾上多見蔵の名に戻った。菊五郎の没後は大坂の舞台で活躍する。
江戸末期には上方の最長老となり明治4年に同年代の[[市川團蔵 (6代目)|六代目市川團蔵]]や[[坂東彦三郎 (4代目)|初代坂東亀蔵]]が死去して以降は東西歌舞伎の最長老として尊敬を集め、明治12年(1879年
小柄な体格で中年期から肥満するなど容姿にも恵まれず、長く格の低い浜芝居に出演していたので、観客受けをねらうあざとさが目立ち、品格は低いといわれたが、立役、敵役、女形を兼ね、師匠譲りの怪談物や早替わりなどの[[ケレン]]に優れ、その研究熱心さもあって人気者であった。天保9年には師の菊五郎の伝授と称して、身体に胴金という金具をつけ首筋で留めて空中回転を演じ大評判となった他、最晩年の明治15年(1882年)に至っても地方巡業にて楼門五三桐の石川五右衛門で太鼓抜けの宙乗りを披露していた。<ref>{{Cite web |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1846405/1/372 |title=明治演劇史 |access-date=2025-03-18 |publisher=国立国会図書館 |page=720}}</ref><!--ケレンは[[市川小團次 (4代目)|四代目市川小團次]]・[[市川右團次 (初代)|初代市川右團次]]父子に大きな影響を与えている。また信心深い人柄で、毎月一度は生家近くの地蔵を礼拝して感謝の言葉を述べることを忘れず、弟子をとるときは、まず相手の芸を見極めた上、「上手な奴よりも大根(技量が悪い役者の意)の方が上手くなる。」とのポリシーから、必ず下手な者を取っていた。長寿をたもったのにあやかろうと多見蔵の舞台には赤ん坊を抱いた母親が詰め掛けた。-->実子に[[市川市蔵 (3代目)|三代目市川市蔵]]と[[尾上松鶴 (初代)|初代尾上松鶴]](元二代目[[尾上和市]])、門人に[[尾上多見蔵 (3代目)|三代目尾上多見蔵]]がいる。<!--のちわが国最初の映画俳優となる[[尾上松之助]]も一時、門人となった。-->
== 参考文献 ==
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