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1919年(大正8年)、三庄村尋常小学校1年生のとき母親を[[過労死|過労]]で亡くし、一人だけ叔父の河内和四郎([[カネボウ (1887-2008)|鐘紡]]専属の荷役現場監督)に引き取られて[[神戸市]][[兵庫区]]浜山通6丁目に転居。貰い子として叔母から冷遇され、酒飲みの叔父からは暴力を受けて育つ。
 
1925年(大正14年)浜山小学校を卒業兵庫尋常小学校高等科へと進学した。[[1927年]](昭和2年)卒業後、地元の[[川崎造船所]]に[[旋盤]]見習工として入社するが2年後の[[1929年]](昭和4年)、現場主任の横暴な注意の仕方に腹を立て箒で殴打してしまい会社退した。
 
会社を無断で辞めたことで叔父の家にも帰りづらくなり、そのうち歓楽街をブラつく徘徊するなどしていたが、兵庫尋常高等小学校高等科時代の同級生だった山口組二代目組長[[山口登 (暴力団)|山口登]]の末弟・秀雄と偶然にも街で再会する。秀雄は沈んだ表情の田岡の身の上話を聞くにつれ人の良い秀雄は、お金のかからない二代目山口組のゴンゾウ部屋(港湾人夫達の合同宿舎)を世話する。そして劇場などの夜警の仕事に従事しつつ、17歳になった彼はクスボリ(うだつのあがらない不良の意)グループに加わっていたりつつ<ref group="注釈">これに対して、硬派の不良学生は「バラケツ」と呼ばれた。「わたしが若いころバラケツ団に入団していたと書いている本があるが、そういう事実はない。わたしはクスボリであった」と、田岡は『山口組三代目 田岡一雄自伝』p.47(徳間書店、2006年)で書いている。</ref>、劇場などの夜警の仕事に従事した。街では不良を見つけては喧嘩を吹っ掛け体を押さえつけ目から血が流れるまで指を強引にネジ込む手口を行といた苛烈な暴行を加えていた為、街では「クマ」の異名で呼ばれるようになり、田岡の姿を見ると不良少年達らは一目散に逃げるほど怖れられるようになる。1930年(昭和5年)、山口組が用心棒を務める芝居小屋の木戸で小屋主の「チンピラ」呼ばわりした見下げた言動に激高し、上演中の舞台の花道に土足で乱入し舞台で暴れる回る騒動を引き起こす(湊座事件)。これがきっかけで畏敬の念を抱いていた二代目山口組山口登親分と初めて対面することになる。街で有名なクマの異名を聞くに及んでいた山口登親分は、正座して反省し帰る家もない彼を舎弟・古川松太郎(登の妹婿)の家に預けて三下修業を積ませることにした。6年後の1936年(昭和11年)1月20日に二代目山口組の正式な[[若中|若衆]]となる。この間、1932年(昭和7年)に、幕内力士の[[寶川政治|寶川]]が山口登の舎弟の[[玉錦三右エ門|大関玉錦]]を侮辱したとして寶川を短刀で襲撃し、右手の指2本を切断した上、額を割る事件を起こす
 
1930年(昭和5年)、山口組が用心棒を務める芝居小屋の木戸で小屋主が田岡らを「チンピラ」呼ばわりする見下げた言動をしたため激昂し、上演中の舞台の花道に土足で乱入して舞台で暴れ回る騒動を引き起こす(湊座事件)。これがきっかけで畏敬の念を抱いていた二代目山口組山口登親分と初めて対面することになる。街で有名なクマの異名を聞くに及んでいた山口登親分は、正座して反省し帰る家もない彼を舎弟・古川松太郎(登の妹婿)の家に預けて三下修業を積ませることにした。1932年(昭和7年)には、幕内力士の[[寶川政治|寶川]]が山口登の舎弟の[[玉錦三右エ門|大関玉錦]]を侮辱したとして寶川を短刀で襲撃し、右手の指2本を切断した上、額を割る事件を起こす。
1934年(昭和9年)、大正運輸争議が起きた。当時、大正運輸の従業員は日本港湾従業員組合(港従)に加盟していたが、会社側が4月10日、同社従業員二十名の解雇をしたことで神戸の同社艀船の一斉罷業に発展。これに対して会社が切り崩しを行った結果、罷業続行が不可能になり、立て直しを図る港従は日本海員組合の支援を受け、[[陰山寿]]らが交渉にあたっていた。ここに山口登が調停を申し出たが海員組合長である[[浜田国太郎]]は拒絶。5月7日、浜田邸を訪れた山口組の代表者と会員組合側で乱闘となり、山口組の3名のうち西田幸一が死亡、他2名も負傷した。山口登は斡旋を継続し5月8日、妥協がなったが解雇は撤回出来ず海員組合内部で争議指導の失敗が紛争になった。一方、田岡は独断で海員組合本部に乗り込み組合長を斬りつけたが、山口組と海員組合が決定的に対立するのを避けるために追い打ちはせずに[[九州]]に逃亡。のち神戸相生橋署に出頭し、傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所で服役している。
 
1934年(昭和9年)、大正運輸争議が起きた。当時、大正運輸の従業員は日本港湾従業員組合(港従)に加盟していたが、会社側が4月10日、同社従業員二十名の解雇をしたことで神戸の同社艀船の一斉[[罷業]]に発展。これに対して会社が切り崩しを行った結果罷業続行が不可能になり、立て直しを図る港従は日本海員組合の支援を受け、[[陰山寿]]らが交渉にあたっていた。ここに山口登が調停を申し出たが海員組合長である[[浜田国太郎]]拒絶。5月7日、浜田邸を訪れた山口組の代表者と会員組合側で乱闘となり、山口組の3名のうち西田幸一が死亡、他2名も負傷した。山口登は斡旋を継続し5月8日妥協がなっ成立したが解雇は撤回出来ず海員組合内部で争議指導の失敗が紛争なった。一方、田岡は独断で海員組合本部に乗り込み組合長を斬りつけたが、山口組と海員組合が決定的に対立するのを避けるために追い打ちはせずに[[九州]]に逃亡。のち神戸相生橋署に出頭し、傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所で服役している。
1937年(昭和12年)2月25日、[[山口春吉]]の舎弟に金を無心し断られると乱暴を働いた大長政吉を[[福原 (神戸市)|福原遊廓]]で襲撃、沸騰した鉄瓶で殴打し政吉の頭を割り大火傷など重傷を負わせる。その瀕死な兄の姿を見て激昂した大長八郎(政吉の弟)は刀をたずさえて、切戸町の山口組本家に殴り込みをかけるが田岡と対峙し決闘するも[[日本刀]]で斬殺。このため殺人罪で逮捕起訴され、[[神戸地裁]]で[[懲役]]8年の実刑判決を受け、[[神戸刑務所]]、[[大阪刑務所]]、[[膳所刑務所]]、[[京都刑務所]]、[[高知刑務所]]で服役する。獄中では、みずから崇拝する[[頭山満]]や[[玄洋社]]に関する本を読んでいた<ref group="注釈">デイビッド・E・カプラン、アレック・デュブロ『ヤクザが消滅しない理由。』p.53(不空社、2003年)。後には頭山の名を取って、長男に[[田岡満|満]]と命名するに至る。</ref>。[[神武天皇即位紀元#皇紀2600年|皇紀2600年]]の恩赦で1943年(昭和18年)7月13日に出所した。二代目組長の登は前年の1942年(昭和17年)既に死亡していて、二代目山口組登親分の舎弟達がかろうて山口組を維持している現状だったが、田岡は終戦後、[[湊川駅|湊川]]の下沢通1丁目に自らの名を冠した[[田岡組]]を結成し立ち上げることになる。
 
1936年(昭和11年)1月20日に二代目山口組の正式な[[若中|若衆]]となる。
終戦直後の混乱した社会情勢で[[警察]]力が弱体化し、治安も極度に悪化した神戸の町と庶民の生活の場となっていた[[闇市]]を、[[愚連隊]]化し我が物顔で街を制圧する[[三国人]]から守るため、田岡を慕って集まった人間達と[[自警団]]を組み頭角を現し<ref name="bookbang">{{Cite news |date= |author=山川光彦 |url=https://www.bookbang.jp/article/770978/2 |title=松本人志も憧れた「島田紳助」が引退に追い込まれた理由とは? タブーになった暴力団と芸能人の繋がり |newspaper=Book Bang |publisher=[[新潮社]] |accessdate=2024年2月24日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240223231050/https://www.bookbang.jp/article/770978/2 |archivedate=2024年2月23日 }}</ref>、登の死後長らく空位であった三代目組長へ推す声が高まった<ref group="注釈">自警団時代に、[[菅谷政雄]]と知り合い、後に親子の杯を交わした。</ref>。
 
1937年(昭和12年)2月25日、田岡は[[山口春吉]]の舎弟に金を無心し断られると乱暴を働いた大長政吉を[[福原 (神戸市)|福原遊廓]]で襲撃、沸騰した鉄瓶で殴打し政吉の頭を割り大火傷など重傷を負わせる。その瀕死兄の姿を見て激昂した大長八郎(政吉の弟)はをたずさえで武装し切戸町の山口組本家に殴り込みをかけるがた大長八郎(政吉の弟)と田岡と対峙し決闘するも、田岡は逆に[[日本刀]]で八郎を斬殺した。このため殺人罪で逮捕起訴され、[[神戸地裁]]で[[懲役]]8年の実刑判決を受け、[[神戸刑務所]]、[[大阪刑務所]]、[[膳所刑務所]]、[[京都刑務所]]、[[高知刑務所]]で服役する。獄中では、みずから崇拝する[[頭山満]]や[[玄洋社]]に関する本を読んでいた<ref group="注釈">デイビッド・E・カプラン、アレック・デュブロ『ヤクザが消滅しない理由。』p.53(不空社、2003年)。後には頭山の名を取って、長男に[[田岡満|満]]と命名するに至る。</ref>。[[神武天皇即位紀元#皇紀2600年|皇紀2600年]]の恩赦で1943年(昭和18年)7月13日に出所した。二代目組長の登は前年の1942年(昭和17年)既に死亡していて、二代目山口組登親分の舎弟達がかろて山口組を維持している現状だったがであり、田岡は終戦後、[[湊川駅|湊川]]の下沢通1丁目に自らの名を冠した[[田岡組]]を結成し立ち上げることになる。
 
[[第二次世界大戦]]終戦直後の混乱した社会情勢が混乱し[[警察]]力が弱体化すると治安も極度に悪化した神戸の町庶民の生活の場となっていた[[闇市]]では治安が極度に悪化し、[[愚連隊]]化し我が物顔で街を制圧する[[三国人]]から守るの支配力が強くなっめ、田岡は彼を慕って集まった人間達と[[自警団]]を組んで[[三国人]]グループに対抗することで頭角を現し<ref name="bookbang">{{Cite news |date= |author=山川光彦 |url=https://www.bookbang.jp/article/770978/2 |title=松本人志も憧れた「島田紳助」が引退に追い込まれた理由とは? タブーになった暴力団と芸能人の繋がり |newspaper=Book Bang |publisher=[[新潮社]] |accessdate=2024年2月24日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240223231050/https://www.bookbang.jp/article/770978/2 |archivedate=2024年2月23日 }}</ref>、登の死後長らく空位であった三代目組長へ推す声が高まった<ref group="注釈">自警団時代に、[[菅谷政雄]]と知り合い、後に親子の杯を交わした。</ref>。
 
1946年(昭和21年)10月、組の長老たちの推薦により、山口組三代目組長を襲名した<ref name="伊藤">[[#伊藤]]、第十二章 山口組の戦後史…、197-213ページ。</ref>。
 
=== 三代目組長襲名後 ===
三代目襲名時の山口組の組員は三十数人に過ぎなかったが、これを全国規模の組織に育て拡大し、[[警察庁]]から[[暴力団#指定暴力団|広域暴力団]]<ref group="注釈">現在は指定暴力団として各都道府県の公安委員会が指定出来る。</ref>の指定を受けるまでに育て上げた。
三代目襲名時の組員は三十数人だった。
 
田岡は[[賭博]]と[[麻薬]]を禁止し、各組員に職業を持たせ、[[賭場]]を収入源としないヤクザ組織を作ろうとした<ref name="伊藤"/>。賭博のテラ銭は、[[競輪]]、[[競馬]] 及び[[競艇]]の[[公営競技]]の隆盛によって主要な収入源ではなくなり、ったため別のしのぎを模索することになり、戦前からある[[浪曲]]興行からその他の演芸興行全般に手を広げ、平行して[[神戸港]]の港湾[[荷役]]にも進出した。
 
1953年(昭和28年)1月17日、全国港湾荷役振興協議会(全港振)設立の際には会長の[[藤木幸太郎]]を助け、自らも副会長に就任した。
港湾荷役と神戸芸能社は組の二大収入源となり、山口組のその後の全国的な活動を支えた。
 
1953年(昭和28年)1月17日、全国港湾荷役振興協議会(全港振)設立には会長の[[藤木幸太郎]]を助け、自らも副会長に就任した。
 
[[芸能事務所|芸能プロダクション]][[神戸芸能社]]は、[[美空ひばり]]、[[田端義夫]]などトップ・スターの興行を手がけた<ref name="bookbang"/>。[[File:Taoka and enoken.JPG|thumb|250x250px|酒席で田岡の顔に接吻する[[榎本健一]]<br/>[[1951年]]([[昭和]]26年)]]
 
1953年(昭和28年)<ref group="注釈">『田岡一雄自伝』巻末年表では1951年としている。理由は不明。</ref>、[[山本健一 (ヤクザ)|山本健一]]らによる[[鶴田浩二襲撃事件]]で鶴田襲撃を命じた張本人とされて全国指名手配を受け、同年4月20日、天王寺署に出頭、逮捕される。同年5月4日、処分保留で釈放され、不起訴処分となる。
 
1957年(昭和32年)、[[芸能事務所|芸能プロダクション]][[神戸芸能社]]を設立した。神戸芸能社[[美空ひばり]]、[[田端義夫]]などトップ・スターの興行を手がけた<ref name="bookbang"/>。[[File:Taoka and enoken.JPG|thumb|250x250px|酒席で田岡の顔に接吻する[[榎本健一]]<br/>[[1951年]]([[昭和]]26年)]]
[[青田昇]]によれば、戦後の混乱期においてはプロ野球の試合は、地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ開催できずに嫌がらせを受けていたが、プロ野球ファンであった田岡は、野球は国民的娯楽だからと[[山口組]]の全国進出以後はそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという<ref>青田昇『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝」』P316-317</ref>。
 
港湾荷役と神戸芸能社は組の二大収入源となり、山口組のその後の全国的な活動を支えた。
[[安保闘争#60年安保|60年安保]]後、[[児玉誉士夫]]が[[反共主義|反共]]の防波堤としてヤクザを組織しようとした東亜同友会に田岡は参加せず<ref name="伊藤"/>。[[1960年代|60年代]]半ばになり、それまで田岡の後ろ盾になっていた[[大野伴睦]]や[[河野一郎]]ら「[[党人派]]」の[[政治家]]が死去し、[[池田勇人]]や[[佐藤栄作]]ら「[[官僚派]]」が主流となり<ref name="伊藤"/>、[[警察]]もヤクザの力を借りる必要がないほど[[治安]]力を増強させたことから、[[官僚]]と警察は山口組を市民社会から閉め出しにかかる<ref name="伊藤"/>。田岡は経済派の[[岡精義]]に経営関係を任せ、武闘派の[[地道行雄]]に抗争の指揮を委ね、「事業と抗争」「経済と暴力」の二本立てで山口組を運営していく<ref name="伊藤"/>。
 
自伝(昭和49年発行初版)にうにヤクザとして活動す一方で公的機関である「神戸港船内荷役調整協議会」の委員いう公職にも就いており1959年には[[神戸市消防局#消防署|神戸水上消防署]]の[[一日署長]]を務め経験を持つ<ref group="注釈">昭和35年9月23日付神戸新聞に「消防」との記事がある。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20150301_301916.html?DETAIL |title=『ヤクザが台湾人襲撃から警察署守り山口組組長が一日消防署長に』 |website=NEWSポストセブン |publisher=小学館 |date=2015-03-01 |accessdate=2021-07-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/108103?page=3 |title=『ヤクザと共生する街、神戸市民の意外な「山口組観」』(3ページ目) |website=ダイヤモンドオンライン |publisher=ダイヤモンド社 |date=2016-11-16 |accessdate=2021-07-01}}</ref>。
田岡が各組の利権獲得のための[[抗争事件|抗争]]を黙認したため<ref name="伊藤"/>、全国各地で流血事件が相次ぎ、一般市民は山口組への恐怖と嫌悪を募らせた<ref name="伊藤"/>。それは1964年(昭和39年)に始まる「[[第一次頂上作戦#山口組に対する第1次頂上作戦|第一次頂上作戦]]」に口実を与え、これが1966年(昭和41年)に本格化する「山口組撲滅計画」に繋がっていった<ref name="伊藤"/>。
 
[[安保闘争#60年安保|60年安保]]後、[[児玉誉士夫]]が日本国内の[[共産主義]]勢力へ対抗するためヤクザを[[反共主義|反共]]の防波堤勢力としてヤクザを組織しようとしたする東亜同友会構想を計画したが、田岡は他組織との対立により参加せず構想は頓挫した<ref name="伊藤"/>。[[1960年代|60年代]]半ばになり、それまで田岡の後ろ盾になっていた[[大野伴睦]]や[[河野一郎]]ら「[[党人派]]」の[[政治家]]が死去し、[[池田勇人]]や[[佐藤栄作]]ら「[[官僚派]]」が主流となり<ref name="伊藤"/>、[[警察]]もヤクザの力を借りる必要がないほど[[治安]]力を増強させたことから、[[官僚]]と警察は山口組を市民社会から閉め出しにかかる<ref name="伊藤"/>。田岡は経済派の[[岡精義]]に経営関係を任せ、武闘派の[[地道行雄]]に抗争の指揮を委ね、「事業と抗争」「経済と暴力」の二本立てで山口組を運営していく<ref name="伊藤"/>。
1968年(昭和43年)1月11日に[[吉本興業]]の[[林正之助]]社長と共に、「[[吉本興業レコード会社乗っ取り事件|レコード会社乗っ取り容疑]]」で兵庫県警に逮捕されている(不起訴)。
 
[[1950年代]]から[[1960年代|60年代]]にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で[[抗争事件]]を引き起こした。田岡各組の利権獲得のための[[抗争事件|抗争]]を黙認したため<ref name="伊藤"/>、全国各地で流血事件が相次ぎ、一般市民は山口組への恐怖と嫌悪を募らせた<ref name="伊藤"/>。それは1964年(昭和39年)に始まる「[[第一次頂上作戦#山口組に対する第1次頂上作戦|第一次頂上作戦]]」に口実を与え、これが1966年(昭和41年)に本格化する「山口組撲滅計画」に繋がっていった<ref name="伊藤"/>。
組員に対しては合法的な収入源を持つように勧めた。それまでのヤクザ組織には無かった合法事業を持つ[[企業舎弟|舎弟]]と[[若衆]]には、非合法な事業を扱わせずに、組織の分業化を進め、結果として組の運営を合法事業と非合法事業に分けることにより、安定した資金源と、非合法な力を持つことになった。本人も「これからのやくざは経済新聞を読まなきゃあかん」「株の動向に注意するぐらいでないとあかんぞ」「正業へつけ正業へ」というのが口癖であったという。
 
[[1950年代]]から[[1960年代|60年代]]にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で[[抗争事件]]を引き起こした。
 
1963年(昭和38年)に[[田中清玄]]や[[菅原通済]]と連携した[[麻薬]]追放国土浄化同盟を結成し、[[市川房枝]]らとともに麻薬撲滅運動を展開しているが、[[横浜市|横浜]]に支部([[益田組]])を出した時には地元勢力とトラブルとなった<ref group="注釈">この関東とのトラブルで、山口組は力で“[[多摩川]]を越えない”という約束が、[[児玉誉士夫]]の調停により[[関根賢]]([[松葉会]])・阿部重作([[住吉一家]])・並木量次郎(並木一家)・[[稲川聖城|稲川角二]]([[錦政会]])との間で交わされた。</ref>。
 
=== 第一次頂上作戦以降 ===
山口組を全国規模の組織に育て、[[警察庁]]から[[暴力団#指定暴力団|広域暴力団]]<ref group="注釈">現在は指定暴力団として各都道府県の公安委員会が指定出来る。</ref>の指定を受けた。
1964年(昭和39年)の山口組を壊滅する為の「[[第一次頂上作戦]]」においてはが始まると、資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが入り、傘下の[[甲陽運輸]]が業務監査を受け、山口組は港湾業務から撤退した。
 
[[若頭]]・[[地道行雄]](地道組組長)が山口組解散へと動くが、田岡は「わし一人になっても山口組続ける」と発言した<ref>{{Cite web|url=https://ch.nicovideo.jp/tsushinjihou/blomaga/ar65165|title=【サンプル記事】通信時報 《山口組検証》田岡一雄三代目と司忍六代目「徹底比較」:通信時報 : 通信時報チャンネル (通信時報編集部)|website=ニコニコチャンネル:社会・言論|publisher=|date=2013-01-27|accessdate=2025-02-21}}</ref>幹部会で[[山本健一 (ヤクザ)|山本健一]]([[山健組]]組長)、[[菅谷政雄]]([[菅谷組]]組長)、[[梶原清晴]](梶原組組長)、[[山本広]](山広組組長)ら若頭補佐が解散に反対。この結果、地道は失脚し、山本健一の力が増した。1965年(昭和40年)に入ると、田岡が[[心筋梗塞]]で病床にあっ伏せていた事もあり、集団指導体制へ移行した。
=== 第一次頂上作戦以降 ===
1964年(昭和39年)の山口組を壊滅する為の「[[第一次頂上作戦]]」においては、資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが入り、傘下の[[甲陽運輸]]が業務監査を受け、山口組は港湾業務から撤退した。
 
1966年(昭和41年)12月28日、自らが経営する甲陽運輸の[[脱税]]容疑で神戸地検に起訴される。
 
1968年(昭和43年)1月11日に[[吉本興業]]の[[林正之助]]社長と共に、「[[吉本興業レコード会社乗っ取り事件|レコード会社乗っ取り容疑]]」で兵庫県警に逮捕されている(不起訴)。
 
1968年(昭和43年)12月、[[職業安定法]]違反で神戸地検に起訴される。
 
1969年(昭和44年)4月25日、[[恐喝罪|恐喝]]と[[威力業務妨害]]で神戸地検に起訴される。
 
[[若頭]]・[[地道行雄]](地道組組長)が山口組解散へと動くが、田岡は「わし、一人になっても山口組続ける」と発言した。<ref>{{Cite web|url=https://ch.nicovideo.jp/tsushinjihou/blomaga/ar65165|title=【サンプル記事】通信時報 《山口組検証》田岡一雄三代目と司忍六代目「徹底比較」:通信時報 : 通信時報チャンネル (通信時報編集部)|website=ニコニコチャンネル:社会・言論|publisher=|date=2013-01-27|accessdate=2025-02-21}}</ref>、幹部会で[[山本健一 (ヤクザ)|山本健一]]([[山健組]]組長)、[[菅谷政雄]]([[菅谷組]]組長)、[[梶原清晴]](梶原組組長)、[[山本広]](山広組組長)ら若頭補佐が反対。この結果、地道は失脚し、山本健一の力が増した。1965年(昭和40年)には、田岡が[[心筋梗塞]]で病床にあった事もあり、集団指導体制へ移行した。
 
自伝(昭和49年発行の初版)によると、[[神戸市消防局#消防署|神戸水上消防署]]の[[一日署長]]をした経験を持つ<ref group="注釈">昭和35年9月23日付神戸新聞に「消防」との記事がある。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20150301_301916.html?DETAIL |title=『ヤクザが台湾人襲撃から警察署守り山口組組長が一日消防署長に』 |website=NEWSポストセブン |publisher=小学館 |date=2015-03-01 |accessdate=2021-07-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/108103?page=3 |title=『ヤクザと共生する街、神戸市民の意外な「山口組観」』(3ページ目) |website=ダイヤモンドオンライン |publisher=ダイヤモンド社 |date=2016-11-16 |accessdate=2021-07-01}}</ref>。
 
「第一次頂上作戦」後も勢力の拡張を続けるが、1978年(昭和53年) [[7月11日]]に京都のクラブ「[[ベラミ (ナイトクラブ)|ベラミ]]」で7月23日傘下の[[佐々木組 (一和会)|佐々木組]]と対立していた二代目松田組系大日本正義団の組員・[[鳴海清]]に後ろから撃たれ負傷する。
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[[1981年]](昭和56年)[[7月23日]]、急性[[心不全]]により68歳で死去。[[戒名]]は永照院仁徳一道義範大居士。若頭の山本健一が跡目に決まっていたが、翌1982年(昭和57年)病死。跡目相続は長い年月と争いが起こることになった([[山口組四代目跡目問題]])。また、四代目の跡目争いには妻で未亡人であった文子の意向が強く働いている。
 
山口組は[[ハロウィン]]で近隣の子供たちにお菓子を配っているが、これは田岡が始めたものである。1970年代は、日本ではハロウィンはまだ知られていなかったが、山口組総本部は高級住宅街に近く、外国の領事館員や駐在員の住民の子供たちが、そうと知らずに山口組にもハロウィンで訪ねて来た。最初は小遣いをやって帰らせていたが、田岡がハロウィンについて調べさせ、以降はお菓子を用意するようになったという<ref>[https://nikkan-spa.jp/1236769 六代目山口組が2年ぶりにハロウィンを復活。その裏事情とは?] - 日刊SPA!</ref>。
 
2013年(平成25年)7月23日、神戸市灘区の自宅において三十三回忌法要が弔い上げとして執り行われる。施主は長女[[田岡由伎]]、司会は[[長沢純]]。
 
== 芸能プロモーターとして ==
1957年4月に[[芸能事務所|芸能プロダクション]][[神戸芸能社]]の看板を掲げ<ref name="bookbang"/>、芸能プロモーターとしても活動<ref name="bookbang"/>。特に国民的歌手である[[美空ひばり]]の[[後見人]]となり、[[ひばりプロダクション]]副社長になって美空ひばりの興行権を握ったことで、若くして京都以西では「田岡なしでは興行ができない」とまで言われる実力者に若くして台頭した<ref name="bookbang"/>。美空ひばりが東映と映画出演の専属契約を結んだ関係から、後に映画界のドンと謳われた[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]とは、阿吽の呼吸で知られ<ref name="bookbang"/><ref>
{{Cite news |author=伊藤徳裕 |date=2016-05-07 |title=山口組分裂 東映「仁義なき戦い」シリーズなどを手がけた大物プロデューサーが激白 「ドンパチがないと映画にはならん!」 |url=https://www.sankei.com/article/20160507-Y2N6SMAEH5MQFKXWE4HB36EPCE/2/ |newspaper=[[産経新聞]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |accessdate=2024年2月24日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211101062135/https://www.sankei.com/article/20160507-Y2N6SMAEH5MQFKXWE4HB36EPCE/2/ |archivedate=2021年11月1日 }}</ref><ref name="dailyshincho20191230">{{Cite web |author=高堀冬彦 |authorlink=高堀冬彦 |date=2019-12-30 |title=梅宮、高倉、菅原・・・ 東映「ヤクザ映画」スター秘話 本物のヤクザと親しくなる理由 |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2019/12301101/?all=1&page=2 |website=[[週刊新潮|デイリー新潮]] |publisher=[[新潮社]] |accessdate=2024年2月24日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201025104239/https://www.dailyshincho.jp/article/2019/12301101/?all=1&page=2 |archivedate=2020年10月日 }}</ref>、岡田の指揮する「[[ヤクザ映画#東映任侠路線|東映任侠映画]]」や「[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]」に協力し、[[高倉健]]や[[菅原文太]]、[[勝新太郎]]など数多くの俳優とも親交を持った<ref name="bookbang"/><ref name="dailyshincho20191230"/>。
 
[[青田昇]]によれば、戦後の混乱期においてはプロ野球の試合は、地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ開催できずに嫌がらせを受けていたが、プロ野球ファンであった田岡は、野球は国民的娯楽だからと[[山口組]]の全国進出以後はそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという<ref>青田昇『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝」』P316-317</ref>。
 
== 人物 ==
* 田岡は「東洋の[[アル・カポネ]]」と称される。アル・カポネはアメリカギャングの親玉だが、犯罪組織を近代化したことで知られる。田岡が創立した港湾荷役会社の甲陽運輸では、前科持ちや住民票のない者が多かった港湾労働者を団結させ、組合を結成させた<ref>{{Cite book|和書|title=唐牛伝|year=2016|publisher=小学館|page=156}}</ref>。
* 組員に対しては合法的な収入源を持つように勧めた。それまでのヤクザ組織には無かった合法事業を持つ[[企業舎弟|舎弟]]と[[若衆]]には、非合法な事業を扱わせずに、組織の分業化を進め、結果として組の運営を合法事業と非合法事業に分けることにより、安定した資金源と、非合法な力を持つことになった。本人も「これからのやくざは経済新聞を読まなきゃあかん」「株の動向に注意するぐらいでないとあかんぞ」「正業へつけ正業へ」というのが口癖であったという。
* 当時大きな問題にならなかったが、[[大鵬幸喜|大鵬]]の後援者としても有名であった<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=06Wz_q2KmM4 【熱海富士 困惑】伊勢ヶ濱部屋に反社との関係疑惑!?永谷園に怪電話が!?] YouTube『貴闘力部屋』2024/06/29 (2024年7月27日閲覧)</ref>。
* 山口組は[[ハロウィン]]近隣の子供たちにお菓子を配っている習慣があるが、これは田岡が始めたものである。1970年代、日本ではハロウィンはまだ知られていなかったが、山口組総本部は高級住宅街に近く、外国の領事館員や駐在員の住民の子供たちが、そうと知らずに山口組にもハロウィンで訪ねて来た。最初は小遣いをやって帰らせていたが、田岡がハロウィンについて調べさせ、以降はお菓子を用意するようになったという<ref>[https://nikkan-spa.jp/1236769 六代目山口組が2年ぶりにハロウィンを復活。その裏事情とは?] - 日刊SPA!</ref>。
** 田岡一雄と高倉健は親しく<ref>{{Cite book |和書 |author=山平重樹 |authorlink=山平重樹 |others=取材・写真協力 [[田岡満]] |title=実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界 |origdate=2009-11-22 |edition=第1刷 |publisher=[[双葉社]] |language=日本語 |isbn=4575301728 |pages=259-325 |chapter=第五章 落日の「栄光」 |ref=田岡 }}</ref>、田岡はこれら山口組を題材とした高倉主演の作品の撮影現場を訪ねており、高倉を激励していた<ref>[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、323ページ。</ref>。田岡は高倉と[[江利チエミ]]の結婚披露宴にも招待され、[[清川虹子]]の自宅で[[美空ひばり]]・[[小林旭]]夫妻と共に高倉・江利夫妻と一時を過ごした<ref name="高倉">[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、262-263ページ。</ref>。酔っていた小林が高倉に自分の腕時計をプレゼントしようとし、恐縮したが、高倉は丁重に断ったものの、当時の小林は映画スターとして高倉より格上だったこともあり小林は高倉に受け取れと強引に迫られ、った。困り果てていた高倉その場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と助け舟を出し、険悪になりかかった雰囲気を丸く収めた<ref name="高倉"/>。田岡一雄1965年(昭和40年)に[[心筋梗塞]]で[[危篤]]に陥り面会謝絶になったが、高倉健は江利チエミを伴い見舞いに訪れた<ref>[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、298ページ。</ref>。
* 当時大きな問題にならなかったが、[[大鵬幸喜|大鵬]]の後援者としても有名であった<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=06Wz_q2KmM4 【熱海富士 困惑】伊勢ヶ濱部屋に反社との関係疑惑!?永谷園に怪電話が!?] YouTube『貴闘力部屋』2024/06/29 (2024年7月27日閲覧)</ref>。
 
== 田岡を支えた主な山口組最高幹部 ==
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* 映画『[[山口組三代目 (映画)|山口組三代目]]』(1973年、東映) - 演:[[高倉健]]
* 映画『[[三代目襲名]]』(1974年、東映) - 演:高倉健
** 田岡一雄と高倉健とは親しく<ref>{{Cite book |和書 |author=山平重樹 |authorlink=山平重樹 |others=取材・写真協力 [[田岡満]] |title=実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界 |origdate=2009-11-22 |edition=第1刷 |publisher=[[双葉社]] |language=日本語 |isbn=4575301728 |pages=259-325 |chapter=第五章 落日の「栄光」 |ref=田岡 }}</ref>、田岡はこれら作品の撮影現場を訪ねており、高倉を激励していた<ref>[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、323ページ。</ref>。田岡は高倉と[[江利チエミ]]の結婚披露宴にも招待され、[[清川虹子]]の自宅で[[美空ひばり]]・[[小林旭]]夫妻と共に高倉・江利夫妻と一時を過ごした<ref name="高倉">[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、262-263ページ。</ref>。酔っていた小林旭が高倉健に自分の腕時計をプレゼントしようとしたが、高倉は丁重に断るものの、当時の小林は映画スターとして高倉より格上だったこともあり、受け取れと強引に迫られ、困り果てていた高倉をその場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と助け舟を出し、険悪になりかかった雰囲気を丸く収めた<ref name="高倉"/>。田岡一雄が1965年(昭和40年)に[[心筋梗塞]]で[[危篤]]に陥り面会謝絶だったが、高倉健は江利チエミを伴い見舞いに訪れた<ref>[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、298ページ。</ref>。
* 映画『[[仁義なき戦い 代理戦争]]』(1973年、東映) - 演:[[丹波哲郎]]
* 映画『[[実録外伝 大阪電撃作戦]]』(1976年、東映) - 演:丹波哲郎