削除された内容 追加された内容
m 曖昧さ回避ページ小樽へのリンクを解消、リンク先を小樽市に変更(DisamAssist使用)
m編集の要約なし
10行目:
[[明治維新]]後、改革や[[戊辰戦争]]などの変動期を経て、日本近代化のために明治新政府が推し進める改革政治に対する不満や意見の相違から、日本各地で[[佐賀の乱]]([[1874年]])や[[西南戦争]]([[1877年]])などの内乱が相次ぎ、犯罪者も急増したことで「[[売国奴#国賊|国賊]]」とよばれた多くの人々が国事犯・政治犯として逮捕されていった<ref name="網走監獄5"/>{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=178}}。度重なる戦乱で国民は困窮し、犯罪を犯す者が後を絶たず、囚人数は[[1885年]](明治18年)には過去最高の8万9千人まで膨れ上がった<ref name="網走監獄1"/>。日本国内にある集治監だけでは収容人員を越えてしまうため、次々と新しい集治監をつくらなければ追い付かない状況の中<ref name="網走監獄3"/>、[[1879年]](明治12年)には既に、当時内務省の長官だった[[伊藤博文]]が囚徒流刑地として北海道への集治監設置を説いていた{{sfn|田端・桑原・船津・関口|2000|p=198}}。
 
一方、開国して間もない日本は、進んだ文化を持った[[ヨーロッパ|西欧]]の列強諸国に追いつき追い越せとばかりに[[富国強兵]]政策をとっていたため、経済発展のためには未開地の[[蝦夷地]]の開拓は必要であった。この当時、[[シベリア]]・[[樺太|サハリン]]・[[カムチャツカ]]を[[植民地]]とし、さらに[[不凍港]]を求めて[[南下政策]]をとる[[ロシア帝国]]の脅威から蝦夷地を守るため、[[1869年]](明治2年)より明治政府は軍事上の理由から蝦夷地を北海道と改名して道内に[[開拓使]]を置いていた<ref name="網走監獄1"/>。明治初期の北海道、特に[[道東]]地域は海辺から内陸に入る道路は皆無といってよい状況で、奥地に入るためには、必ず[[アイヌ]]の道案内が必要であった<ref name="浦幌町史"/><ref name="浦幌町史archive"/>。北海道開拓は至急の命題であり、そのためにはまず手始めに人員や資材の運搬路となる道路を建設することが必要であった<ref name="網走監獄3"/>。
 
[[File:Michitoshi Iwamura.jpg|thumb|125px|[[岩村通俊]]。北海道開拓道路事業の拡充には、北海道庁初代長官となった岩村の意向が強く働いていた。]]