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同年、[[越後国]]の[[上杉景勝]]が秀吉に臣従するため[[上洛]]した際には、三成がその取次を務めた。
 
また、同年には'''[[堺奉行]]'''にも任じられた。当時の[[堺]]は、[[中国]]、[[フィリピン]]、[[タイ王国|タイ]]、[[ポルトガル]]、[[スペイン]]などとの[[南蛮貿易]]によって栄え、戦乱の影響を受けにくい[[自治都市]]として学問や文化も隆盛を極めていた。[[今井宗久]]や[[津田宗及]]らによって[[茶の湯]]も盛んに行われており、国内でも有数の重要都市であった<ref>{{Cite book|和書 |title=読本 石田三成 |publisher=財団法人 石田三成公事蹟顕彰会 |page=15}}</ref>。ただし、奉行に任じられた三成は常に秀吉の側近にあって行動を共にしており、翌年の[[九州平定]]にも秀吉に従って西下していた。そのため、堺での実務は父・[[石田正継]]が代官として担っていたとされる<ref>{{Cite book|和書 |title=石田三成 |publisher=吉川弘文館 |pages=17-18 |author=今井林太郎}}</ref>。
 
ただし、奉行に任じられた三成は常に秀吉の側近にあって行動を共にしており、翌年の[[九州平定]]にも秀吉に従って西下していた。そのため、堺での実務は父・[[石田正継]]が代官として担っていたとされる<ref>{{Cite book|和書 |title=石田三成 |publisher=吉川弘文館 |pages=17-18 |author=今井林太郎}}</ref>。
 
さらに同年、三成は[[山城国]][[大徳寺]]([[臨済宗大徳寺派]])の高僧・[[春屋宗園|円鑑国師(春屋宗園)]]にたびたび参禅し、その教えを深く受けた。こうした信仰のあらわれとして、[[浅野幸長]]・[[森忠政]]とともに浄財を喜捨し、大徳寺境内に国師のための[[塔頭]]'''「三玄院」を建立'''したとされる。(詳細は[[#三玄院|「三玄院」]]の節を参照)<ref name=":5" />。
 
=== 九州平定と博多再興 ===
天正15年([[1587年]])、秀吉は'''[[九州平定]]'''のために大軍を動員し、比較的短期間で作戦を完遂した。勝因の一つには、[[水軍]]を活用して兵を迅速に輸送する能力が挙げられる{{sfn|安井|1996|p=19}}。こうした遠征を支えたとりわけ注目されるのが、総勢25万ともいわれる軍勢に対し、兵糧・武具や弾薬の補給が滞ることく行われた点であり、これは当時としては極めて異例の事例である<ref name=":6" />。この補給管理を担当した三成ら有能は、戦局を支える実務の中核として重要吏僚役割を果ちであっしていた(詳細は[[#九州征伐における兵糧・弾薬の補給管理|「九州征伐における兵糧・弾薬の補給管理」]]の節を参照)。
 
九州平定後、三成は'''[[博多]]奉行'''を命じられ、[[長束正家]]・[[小西行長]]らとともに町の復興にあたった。町域を十町四方に整え、碁盤目状に街路を区画する[[町割]]を行い、かつての[[問屋]]や[[座]]を廃止して自由商業を認める「自由都市」構想を推進。さらに、[[地子]]免除や税制の優遇に加え、[[徳政令]]の適用を除外することで商取引の安定性を確保し、町人主体の[[自治都市]]としての再建を図ったとされる(詳細は[[#博多の町の再興|「博多の町の再興」]]の節を参照)<ref name=":7" />
 
同年から翌年の天正16年([[1588年]])にかけては、[[薩摩国]]の[[島津義久]]が秀吉に[[謁見]]する際の取次を務め、[[上洛]]を斡旋した。義久の道中には赤間ヶ関(現・下関市)にて出迎えを行い、先に到着していた人質の娘との再会を手配。堺でも多くの船を用意して義久の一行を丁重にもてなすなど、三成はその上洛を全面的に支援した。この上京を契機として、三成と[[島津氏|島津家]]との関係は急速に深まり、以後も秀吉への謁見、在京支援、帰国調整などに関わり、島津家の信頼を得ていくこととなる(詳細は[[石田三成#島津義久・島津義弘との関係|島津義久・島津義弘との関係]]の節を参照)<ref>{{Cite book|和書 |title=石田三成 |publisher=吉川弘文館 |pages=25-27 |author=今井林太郎}}</ref>
 
天正17年([[1589年]])、[[美濃国]]を検地する。
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==== 九州征伐における兵糧・弾薬の補給管理 ====
天正15年(1587年)の[[九州平定|九州征伐]]では、[[豊臣秀吉]]の本隊約10万、[[豊臣秀長]]の別動隊約15万、総勢25万の大軍が動員されたが、[[兵糧]]や[[弾薬]]の補給が円滑に行われたことは、当時の戦史上極めて異例のことであった。この補給を担当したのが三成であり、その優れた才覚が存分に発揮されたとされる<ref name=":6">{{Cite book|和書 |title=石田三成 |publisher=吉川弘文館 |page=24 |author=今井林太郎}}</ref>。
 
==== 博多の町の再興 ====
天正15年(1587年)の[[九州平定]]ののち、かつて貿易港として栄えていた[[博多]]の町は、[[大友氏]]と[[龍造寺氏]]の戦によって兵火にかかり、荒廃していた。これを憂慮した[[豊臣秀吉]]は博多の再興を命じ(『[[太閤記|甫庵太閤記]]』)、三成をはじめ[[長束正家]]・[[小西行長]]・滝川三郎兵衛・山崎志摩守らを復興奉行に任じた。奉行たちは博多の町域を十町四方に区画し、碁盤目状に街路を整備して町割を行った。 さらに、かつて博多に存在した[[問屋]]や[[座]]などの既得権益を一切廃止し、誰もが自由に商売できる「自由都市」とする方針を打ち出した。また、[[地子]](地代)や諸役(税)を免除し、借金帳消し令([[徳政令]])の適用も除外するなど、市民に有利な特例を設けて住民の還住を促した。この「徳政令の適用除外」は、一見すると救済措置を排除するように見えるが、むしろ博多の商人にとっては安定した商取引が保証される重要な方針であった。将来的な帳消しリスクを排除することで、商人たちの経済的信頼を取り戻し、町の復興と活性化を後押ししたと考えられている。加えて、武士が町内に居住することを禁じ、商人・職人による町人中心の自治都市としての復興を目指した。これらの政策により、商人たちは徐々に博多に戻り、町は再び活気を取り戻したとされる<ref name=":7">{{Cite book|和書 |title=石田三成 |publisher=吉川弘文館 |pages=24-25 |author=今井林太郎}}</ref>。
 
==== 忍城水攻めと実際の指揮構造 ====