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開会式の演出は[[内海重典]](宝塚歌劇団演出家){{Sfn|日本万国博覧会公式記録 第2巻(1972年)|p=27|loc=式典と貴賓の来訪 - 開会式・閉会式}}<ref>{{Cite news|和書|title=宝塚歌劇や大阪万博開会式を演出 宝塚で内海重典さん企画展|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?url=news/odekake-plus/news/pickup/201905/12367429|work=神戸新聞NEXT|date=2019-05-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231127052217/https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?url=news/odekake-plus/news/pickup/201905/12367429|archivedate=2023-11-27|url-status=live}}</ref>、閉会式演出は内海と同じく宝塚歌劇団の[[高木史朗]]が担当した{{Sfn|日本万国博覧会公式記録 第2巻(1972年)|p=35|loc=式典と貴賓の来訪 - 開会式・閉会式}}。
 
[[SF作家]]の[[小松左京]]は自発的にプロジェクトに参画し、[[1965年]]7月に[[文化人類学|文化人類学者]]の[[梅棹忠夫]]、[[社会学|社会学者]]の[[加藤秀俊]]らと「万国博を考える会」を発足。同年10月に第1回総会を開催、その後BIE([[パリ]]の[[博覧会国際事務局]])に提出するテーマと基本理念づくりのため草案を練り、テーマが「人類の進歩と調和」に決まった<ref name=mm20191005>2019年10月5日付[[毎日新聞]]大阪版夕刊</ref><ref name=毎日新聞20191005>[https://mainichi.jp/articles/20191005/ddf/012/040/010000c 70年大阪万博と小松左京 平和な未来へ、巨大な物語 文化人ら巻き込み民間の力で / 毎日新聞「デジタル毎日」会員限定有料記事 2019年10月5日]</ref>。小松はその後、テーマ展示プロデューサーに就任した岡本太郎との個人契約という形で、テーマ展示サブプロデューサーとして太陽の塔の地下展示を作り上げた<ref name=mm20191005 /><ref name=毎日新聞20191005 />。テーマについて、「進歩」は分かりやすいものの、「調和」は抽象的で分かりにくいという戸惑いが参加関係国にも多かったとも伝えられる。テーマ「調和」の背景には、急速な科学進歩の負の側面として公害が問題になっていたことがあったとも、ベトナム戦争などの世界対立があったともみられている
 
万博会場の総合設計を行ったのは建築家の[[丹下健三]]であった{{efn|鈴木と丹下のつながりは新[[東京都庁舎]]建設にも続いた。}}。建築家の上田篤は「調和」というテーマに戸惑い、彼自身の解釈として先進国による「進歩」だけでなく、途上国もその独自性や意義を主張できる文化ととらえ、太陽の塔の向かいに「お祭り広場」を設け、各国に民族舞踊や伝統音楽のイベントを行うことを働きかけたため、会期中、様々な国によって催し事が開かれた<ref>{{Cite web |url=https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2025041609173?cid=jp-VR22V15XWL |title=歴史探偵 万博と日本 - NHKプラス |access-date=2025-4-23 |publisher=NHK}}</ref>
 
ベンチや案内表示、照明、ゴミ箱などの{{仮リンク|ストリート・ファニチャー|en|Street furniture}}の基本設計は、[[榮久庵憲司]]をディレクターとして[[GKインダストリアルデザイン研究所]]、[[剣持勇|剣持勇デザイン研究所]]、トータルデザインアソシエーツが共同で担当した<ref>{{Cite journal|和書|title=EXPO'70のストリート・ファニチュア|journal=工芸ニュース|volume=37|issue=3|publisher=[[工業技術院産業工芸試験所|工業技術院製品科学研究所]] 編|date=1970-01|page=13-41|id={{NDLJP|2351286/12}}}}</ref>。このようなストリート・ファニチャーをはじめとした[[環境デザイン]]の考え方は全国の駅や都市計画へと普及していった。