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'''荒武 宗名'''(あらたけ むねもり、生年不詳 - [[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将である
藤兵衛花雲軒'''三省'''。花雲軒。[[伊東氏|日向伊東氏]]に仕えた。
 
文武両道の忠臣で知られ、[[伊東尹祐]]の宿老で、文武両道の忠臣して信頼厚かった伝わる特に和歌の造詣が深く、京から下向した[[飛鳥井雅康]](二楽軒)と詠み交わした歌残っている。
 
[[明応]]4年([[1495年]])、尹祐が[[高城町|三俣千町]]を知行して以後はすると[[都城市|勝岡城]]主となり、伊東勢の大将としてたびたび[[都城]]に押し寄せ、[[北郷忠相]]と戦った。
[[大永]]6年([[1526年]])に尹祐の命で球磨に赴き[[犬童氏]]の乱の鎮圧に尽力し、[[肥後国|肥後]][[相良氏]]と友好関係を築いたことも重要である。
 
[[大永]]6年([[1526年]])に尹祐の命で球磨に赴き[[犬童氏]]の乱の鎮圧に尽力し貢献、[[肥後国|肥後]][[相良氏]]と友好関係を築いたことも重要である
天文2年(1533年)、[[伊東祐充]]が急死すると、叔父の[[伊東祐武]]は家老職の[[福永祐炳]]一族を殺害し、さらに[[伊東義祐]]・[[伊東祐吉|祐吉]]兄弟を[[日向市|日知屋]]に追放した。事態を知った宗名は、祐武の振る舞いに反発する重臣達と奔走し、義祐を次期家督に擁立。さらに計略を用いて祐武を切腹に追い込み、内紛を収束に導いた。
 
天文2年(1533年)、[[伊東祐充]]が急死すると、叔父の[[伊東祐武]]は家老職の[[福永祐炳]]一族を殺害し、さらに[[伊東義祐]]・[[伊東祐吉|祐吉]]兄弟を[[日向市|日知屋]]に追放した。事態を知った宗名は、祐武の振る舞いに反発する重臣達と奔走、義祐を次期家督に擁立する。さらに計略を用いて祐武を切腹に追い込み、内紛を収束に導いた。
しかし、祐武の後継に擁立された[[伊東左兵衛佐]]祐清と、それに与した米良一揆の襲撃にあい、戦死した。
 
[[Category:戦国武将|あらたけむねもり]]