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== 備考 ==
*『寛政譜』には上記の比企家(比企則員の家)以外に、「比企」を名字とする旗本の家が2家掲載されているが、比企能員の一族とは無関係であるか、関係を記していない。1家は、[[館林徳川家|神田御殿]]([[館林藩]]主)時代の[[徳川綱吉]]に仕え、のちに[[勘定 (江戸幕府)|勘定]]から[[代官]]に転じた[[比企長左衛門]](はじめ儀左衛門。蔵米150俵)に始まる家であるが、氏族は不明(「未勘」)とされている<ref name="kanseifu1511_kokumin1023-1024"/>。比企長左衛門は、元禄15年(1702年)に藩主家転出後の[[烏山藩]]領を預かる<ref>{{cite web|和書 |url=https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/data/doc/1615024938_doc_3_0.pdf |title=烏山城|publisher=那須烏山市教育委員会|format=pdf|accessdate=2024-08-09}}</ref>、宝永3年(1706年)に[[元荒川]]・[[古利根川]]などの改修に関わる<ref>{{cite web|和書|url=https://adeac.jp/koshigaya-city-digital-archives/texthtml/d000010/mp000010-100010/ht002630|title=第四編>第五章>第二節 徳川幕府の河川支配>享保期以前の河川掛り|work=越谷市史 通史上|accessdate=2024-08-09}}</ref>といった事績を残しているが、子孫が処分を受けたために旗本としては絶家となった<ref name="kanseifu1511_kokumin1023-1024"/>。もう1家は、長左衛門と同様に神田御殿時代の徳川綱吉に仕え、のちに[[支配勘定]]を務めた比企勝信(佐左衛門・喜左衛門)に始まる家(蔵米150俵取り)で、源氏を称する<ref name="kanseifu1323_kokumin968-969"/>。
*[[太田亮]]によれば、「比企」は「ヘギ」(「[[日置]]」などの漢字で記される)と通用されるという{{Sfn|『姓氏家系大辞典 第5巻』|p=4964, 5326, 5330}}。姓氏研究家の[[森岡浩]]は、「比企」という名字は関東地方から新潟県にかけて多く分布し、「全国名字ランキングで5000位台。メジャーな名字ではないが、珍しいというほどでもない」としている<ref>{{cite web|和書 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4f0d4d5a225055b8ac998d4bf8e37cacec7d264a|title=「鎌倉殿の13人」頼朝の乳母・比企尼とは 粛清され歴史から消えた一族・比企氏のルーツを探る|author=森岡浩|website=Yahoo!ニュース|date=2022-01-30|accessdate=2024-08-09}}</ref>。
 
== 脚注 ==
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