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品川区、高輪、栃木県、埼玉県、菖蒲町の内部リンクを設定。
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==年譜<ref>明治大学教養論集 通巻398号, ⅰ~ⅹⅲ頁, 2005年9月, (年譜:1934年~2005年部分の出典)</ref>==
{{出典の明記|section=1|date=2017年3月}}
* 1934年(昭和9年)3月15日、[[東京市]][[芝区]]白金台町に、父憲雄、母喜美の長男として生まれた。のちに弟三人、妹一人をもつ。憲雄は月性(げっしょう)家の四男から安藤家に入った。[[大倉高等商業学校]]を卒業後、昭和生命保険相互会社(のち[[第一生命]]に併合)に勤務、生涯を経理担当の会社員として過ごした。安藤家は明治の頃まで「稲毛屋」という質屋を営み、盛業だった時期もあるらしいが、次第に家運が傾き、祖母の代には店を畳んで白金台町に僅かな家作を守るだけとなっていた。喜美は[[品川区]]大崎広小路で大きな綿糸店「木屋」(戦災で焼失、廃業)を営んでいた鈴木家の長女。
* 1939年(昭和14年、5歳) [[高輪]]の高野山幼稚園に入園。体が弱く、病気がちだった。家では蓄音器でレコードを聴くのを好み、たまに外へ出ても不器用で近所の子供たちとは対等に遊べなかった。
* 1940年(昭和15年、6歳)東京市白金尋常小学校(現・[[港区立白金小学校]])に入学。欠席が多く成績不振。国語、図画、理科などは好きだったが、体育や剣道は苦手だった。母方の叔父がくれた興文社版の「小学生全集」を耽読。父に連れられてプラネタリウムを見、天文学に憧れた。4年生の夏、親戚の者に連れられて[[富士山]]に登頂、この経験を長い作文に書いた。文章らしいものを書いた初体験。
* 1944年(昭和19年、10歳)9月、5年生で学童疎開に送られ、[[栃木県]]の温泉で1年あまりの合宿生活を送る。食糧が乏しくなり、栄養失調と寄生虫から体中がただれ、慢性的な下痢状態となった。
* 1945年(昭和20年、11歳)8月に敗戦。12月、貨車に乗せられて帰京する。生家は被災を免れたが、焼け出された知り合いが一間ずつ住み着いていた。闇の食糧を郊外の農家へ買い出しに行った父を一日中待った。白金小学校も無事だったが、進学のため焼け野原の東京を一人で歩いて中学の規則書を集めた。どの中学も焼け落ちていた。
* 1946年(昭和21年、12歳)旧制東京都立第一中学校(現・[[東京都立日比谷高等学校]])に入学、都電で通学した。翌年から新制高校となったため、併設中学校として持ち上がり、そのまま改称後の都立日比谷高校に学んだ。友人も多くでき、それぞれの影響を受けた。[[夏目漱石]]や[[宮沢賢治]]を読み、友人たちと回覧雑誌を作ったり、ガリ版刷りの学校新聞を出したりする。このころ自宅に近い[[日本基督教団高輪教会]]に通い、受洗。教会で、のちに夭折する作曲家・吉田照男を知り、ともに[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]や[[ジュール・ルナール|ルナール]]などを読み、また音楽など芸術鑑賞の手ほどきを受ける。
* 1951年(昭和26年、17歳)高校三年生の春、右肺門部浸潤と診断され、1年間休学。人工気胸を受け、パスなどを服用するほかは、親元で無為の生活を送った。何となく落伍者になったと感じ、教会にも行かず、[[堀辰雄]]、[[立原道造]]、[[中原中也]]、[[萩原朔太郎]]などを乱読する。休学中に1年後輩の細谷岩男が来訪、校友会雑誌「星陵」復刊の計画を聞かされ、相談に乗る。
* 1952年(昭和27年、18歳)「星陵」復刊第一号に立原道造論「『鮎の歌』など」を発表。3年生に復学。細谷とも同級になったが、彼はまもなく自殺した。遺稿の短歌を集めた小冊子『細谷岩男遺稿集』を、追悼のため経費を募って刊行。病みあがりなので体育の時間は校庭の片隅で「見学」するだけだったが、同じ境遇の生徒が何人もいて、もっぱら文学談義で時間をつぶした。このころ童話作家太田博也を知り、[[埼玉県]][[菖蒲町]]に住む太田を何度か尋ねた。英語に自信がなく、大学をフランス語で受験しようと思い立ち、アテネ・フランセに通う。
* 1953年(昭和28年、19歳) 「星陵」の第三号に小説「歩道」を発表。友人から名刺印刷用の小型印刷機を借り、掌編小説三篇を収めた手作りの小型本『風』を1ページずつ組版印刷して制作。日比谷高校を卒業、東京大学教養学部に入学。事情を知らずにフランス語既修クラスに入ったため、いきなり[[ミシェル・ド・モンテーニュ|モンテーニュ]]や[[ルネ・デカルト|デカルト]]などの古典を読まされて四苦八苦する。同級に[[降旗康男]]、外川継男、松村準平らがいた。「駒場詩人サークル」に入会し、[[入沢康夫]]、[[岩成達也]]らを知る。このサークルの雑誌「詩のつどい」五号に、初めて散文詩「初秋」など数篇の詩を発表、同時に[[ギヨーム・アポリネール|アポリネール]]の翻訳も載せた。夏を信濃追分の農家の2階で過ごし、堀辰雄の旧宅で故人の蔵書の閲覧を許される。
* 1954年(昭和29年、20歳)5月、高校時代の同級生だった慶大生江頭淳夫([[江藤淳]])とはかり、千葉大生[[多田富雄]]、すでに詩人として名をなしていた手塚久子らとともに、同人雑誌「pureté」を創刊。創刊号に短篇小説「挿話」を載せた。白金台町の自宅を発行所とし、新宿の喫茶店風月堂で合評会を開く。12月までに三号を刊行。