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1980年代後半、光一郎はかねてより強く望んでいたノーザンダンサー産駒の繁殖牝馬を買い求めはじめる<ref name="yushun9403" />。1989年、イギリス・ニューマーケットで行われたセリ市で[[パシフィカス]]を購買。父ノーザンダンサー、母系近親にも一流馬が多数という血統背景ながら、無名の種牡馬[[シャルード]]の子を受胎していることが敬遠され、3万1000ギニーの安価であった<ref name="yushun9403" />。しかし日本への輸送後にパシフィカスが産んだ[[ビワハヤヒデ]]は1993年の菊花賞に優勝。また3歳王者戦・[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]では、これも早田が導入した種牡馬[[ブライアンズタイム]]とパシフィカスの仔・[[ナリタブライアン]]が制し、同年の生産者ランキングにおいて早田牧場は前年の17位から躍進し、日本最大の[[社台ファーム]]に次ぐ第2位の成績を挙げた<ref>『優駿』1994年2月号、p.123</ref>。翌1994年にはナリタブライアンが[[皐月賞]]、[[東京優駿]]、[[菊花賞]]のクラシック三冠と[[有馬記念]]を制したほか、ビワハヤヒデが[[天皇賞(春)]]と[[宝塚記念]]、アメリカからの持込による生産馬[[マーベラスクラウン]]が[[ジャパンカップ]]を制して生産馬でGI競走7勝を挙げ、ランキングは前年に続き社台ファームに次ぐ2位となる<ref name="yushun9502">『優駿』1995年2月号、p.116</ref>。重賞計14勝は、生産規模で大きく上回る社台に1勝差まで迫るものだった<ref name="yushun9502" />。
 
早田は優れた相馬眼を持つことに定評があったが、当初、牧場の育成部門は稚拙なものであったという。そこを補ったのが、かつて公営・[[笠松競馬場]]で調教師を務め、1991年より育成の責任者として招かれた宮下了であった。宮下は設備から人員までを一新し、新たな環境で育成された馬たちが上記のような活躍を示したことで早田牧場の育成部門への預託希望者が急増。欠点だった育成部門は預託料として牧場に多額の資金をもたらしはじめ、これを元手に新たな馬が続々と買われていった<ref name="number" />。1995年には[[ビワハイジ]]が[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳牝馬ステークス]]、1997年には[[マーベラスサンデー]]が[[宝塚記念]]、[[シルクジャスティス]]が[[有馬記念]]、2000年には[[シルクプリマドンナ]]が[[優駿牝馬|優駿牝馬]](オークス)]]を制した。1996年、1997年にはランキングで3、4度目の2位を記録している<ref>『優駿』1998年2月号、p.159</ref>。
 
=== 倒産 ===