削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> web.archive.org (www.geocities.jp) (Botによる編集)
アメリカ公文書館資料追加、酒匂の映像や原爆被害など追記
 
60行目:
|備考 =
}}
'''酒匂'''(さかは/さかわ)は、[[大日本帝国海軍]]の[[軽巡洋艦]]<ref name="S19達102">[[#達昭和19年4月(1)]] p.8達第百二號 佐世保海軍工廠ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十九年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 軍艦 酒匂(サカハ)</ref>。[[阿賀野型軽巡洋艦|阿賀野型]]の4番艦である。名前は静岡県および神奈川県を流れる[[酒匂川]]からとられている<ref>[[#聯合艦隊軍艦銘銘伝]]p.131。</ref>。[[太平洋戦争]]中に建造され、[[巡洋艦]]として[[大日本帝国]]で最後に竣工した[[軍]]となった。大戦末期の就役で主要な作戦に参加する機会はなく、[[舞鶴湾]]で無傷で終戦[[日本の降伏]]を迎えた<ref name="終戦と帝国艦艇79" />(詳細は後述)。終戦後は武装を撤去したのち、復員船として活動した。アメリカ軍の[[核実験|原爆実験]]([[クロスロード作戦]])の標的艦となり、[[ビキニ環礁]]で核爆弾が直上で炸裂し、翌日沈没した。
1946年7月、アメリカ軍の[[核実験|原爆実験]]([[クロスロード作戦]]、[[ビキニ環礁]])で[[標的艦]]に指定され<ref>{{cite web|url= https://www.britishpathe.com/asset/116366/ |title = UNITED STATES NAVY PREPARES EQUIPMENT FOR ATOMIC BOMB TEST (1946)| website = www.britishpathe.com | publisher = GAUMONT BRITISH NEWSREEL (REUTERS) |date= 1946 | accessdate = 2025-05-10|ref=}}(動画開始18秒~25秒、酒匂の映像)</ref>、7月1日のエイブル実験で[[原子爆弾]]の炸裂により大破<ref>{{cite web|url= https://www.britishpathe.com/asset/173771/ |title = BIKINI! FIRST ACTUAL FILMS! (1946)| website = www.britishpathe.com | publisher = BRITISH PARAMOUNT NEWSREEL (REUTERS) |date= 1946 | accessdate = 2025-05-10|ref=}}(動画開始1分10秒~1分20秒、大破した酒匂)</ref>、翌2日に沈没した。
 
== 艦歴 ==
=== 建造 ===
酒匂は1942年(昭和17年)[[11月21日]]、仮称艦名「第135号艦」として[[佐世保工廠]]で起工した<ref>[[#S1711佐鎮日誌(1)]] p.23十一月二十一日第三百七十六號艦、第三百七十七號艦及第一三五號艦起工</ref>。1944年(昭和19年)[[4月1日]]、第135号艦は酒匂と命名され<ref name="S19達102" />、同日附で軍艦籍に入った<ref>[[#内令昭和19年4月(1)]] p.1内令第五百二十二号 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年四月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「矢矧」ノ下ニ「、酒匂」ヲ加フ</ref>。[[4月9日]]に進水し、同日附で[[横須賀鎮守府]]の在籍となった<ref>[[#内令昭和19年4月(1)]] p.13内令第五百三十三号 軍艦 酒匂 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十九年四月九日 海軍大臣嶋田繁太郎</ref>。
8月28日、佐世保工廠に酒匂艤装員事務所を設置した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070496300|昭和19年8月28日(月)海軍公報第4783号 p.34}}○事務開始(略)酒匂艤装員事務所ヲ八月二十一日佐世保海軍工廠内ニ設置シ事務ヲ開始セリ</ref>。11月10日、酒匂艤装員事務所は閉鎖され<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070497900|昭和19年11月22日(水)海軍公報第4859号 p.13}}○事務所撤去 軍艦酒匂艤装員事務所ハ十一月十日之ヲ撤去セリ|第六十七號海防艦艤装員事務所ハ十一月十二日之ヲ撤去セリ|第二百二十六號驅潜艇事務所ハ十一月十四日之ヲ撤去セリ|第四十九號海防艦艤装員事務所ハ十一月十六日之ヲ撤去セリ</ref>、艤装員長の[[大原利道]]大佐が艦長となっに補職された<ref name="jirei1643">{{アジア歴史資料センター|C13072101900|昭和19年11月14日(発令11月10日付)海軍辞令公報(甲)第1643号 p.49}}</ref>。
 
=== 竣工と配属 ===
酒匂は[[11月30日]]に竣工した<ref>[[#S1906十一水戦(4)]] pp.60-61酒匂(宛略)機密第三〇一二〇〇番電 一.本日一〇〇〇引渡ヲ受ク/二.五日佐世保出撃内海西部ニ於テ羅針儀公試測定儀試験轉輪羅針儀加速度誤差試験ノ上八日呉回航ノ予定</ref>が、この時点で同型艦の [[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]と[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]が沈没しており、阿賀野型4隻が同時にそろうことはなかった。同日、連合艦隊附属となり<ref>[[#S1906十一水戦(4)]]p.61『総長|戰編着艦|十一月三十日 一.酒匂ヲGFニ附属/二.椿ヲ11sdニ編入』</ref>、佐世保から呉に回航した<ref>[[#S1906十一水戦(4)]] p.47(四)麾下艦艦船部隊ノ行動</ref><ref>[[#軽巡二十五隻]]245頁</ref><ref>[[#S1906十一水戦(5)]] p.5四.麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動</ref>。12月11日、[[第十一水雷戦隊]]旗艦となった<ref>[[#S1906十一水戦(5)]] pp.22-23一一(天候略)一三三〇将旗ヲ酒匂ニ移揚ス</ref>。1945年1月15日、第十一戦隊に編入<ref name=ochiai105>軽巡洋艦『阿賀野・能代・矢矧・酒匂』行動年表、105ページ</ref>。
 
阿賀野型軽巡洋艦は水雷戦隊の旗艦として優れた性能を備えていたが、酒匂が就役した1944年末には、軽巡洋艦と駆逐艦が主体となる艦隊同士の水雷戦の機会は事実上失われていた。一方で日本海軍は同年に潜水艦や航空機による攻撃で駆逐艦の喪失が増大し、新造艦の早期戦線投入と兵員の練成が急務となっていた。当時の第十一水雷戦隊はこうした艦艇と兵員の訓練を目的に編制されており<ref>[[#S1906十一水戦(6)]] p.3(イ)第一訓練部隊トシテ内海西部ニ在リテ新造駆逐艦及大修理艦艇ノ急速戰力練成ニ任ズル外一部艦艇海上護衛作戰ニ協力</ref>、酒匂の編入当時は[[松型駆逐艦]]や[[秋月型駆逐艦]]を主力とし、[[回天]]搭載母艦に改造された軽巡洋艦[[北上 (軽巡洋艦)|北上]]や駆逐艦[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]](第7駆逐隊)も一時的に所属した<ref>[[#S1906十一水戦(5)]] pp.53-54一四(天候略)響、第一訓練部隊編入-二五(天候略)響7dgニ編入</ref><ref>[[#内令昭和20年1月(3)]] p.46内令第六七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年一月二十五日|第七驅逐隊ノ項中「潮、」ノ下ニ「響、」ヲ加フ</ref>。
 
=== 終戦まで ===
1945年(昭和20年)3月、戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]を中心とする残存の主力([[第二隊 (日本海軍)|第二艦隊]][[旗艦]])と[[第二水雷戦隊]]で沖縄に突入する[[天一号作戦]]が発令された。酒匂は同型艦の[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]と共に作戦に加わる予定だったが、直前になって酒匂の出撃は中止となった。その後は呉や[[瀬戸内海]]の[[八島 (山口県)|八島]]で駆逐隊の訓練に従事した。4月1日、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]に編入<ref name=ochiai105/>。4月20日、連合艦隊第十一戦隊に編入<ref name=ochiai105/>。
 
[[坊ノ岬沖海戦]]で敗れた日本海軍は太平洋及びアジア上での大規模な作戦行動が不可能になり、主要な港湾部には機雷投下と空襲の危険が迫った。呉に残る行動可能な艦艇の一部は根拠地を移すことになり、5月21日、酒匂と松型駆逐艦数隻<!-- [[柿 (橘型駆逐艦)|柿]]、[[菫 (橘型駆逐艦)|菫]]、[[楠 (橘型駆逐艦)|楠]]、[[桜 (松型駆逐艦)|桜]]、[[楢 (松型駆逐艦)|楢]]、[[欅 (松型駆逐艦)|欅]] -->が呉を出港<ref name="十一水戦(7)38">[[#S1906十一水戦(7)]]p.38</ref>。酒匂は門司で桜、楢、欅駆逐艦と分かれ、舞鶴へ向かった<ref name="十一水戦(7)38" />。航海中、触底して[[スクリュー]]に軽微な損傷を受けた<ref>[[#S1906十一水戦(7)]] p.53(司令官)11S(宛略)機密第二七一三三番電 酒匂二十六日〇九〇〇北九州水道通過時觸底右舷外軸推進器翼先端部湾曲セリ戰斗航海ニ差支ヘナシ</ref>。5月27日、4隻は舞鶴に到着した<ref>[[#S1906十一水戦(7)]] p.38</ref>。
 
[[file:Sakawa July 1947 Maizuru.png|thumb|right|280px250px|舞鶴空襲時に平湾上空からアメリカ軍機に撮影された擬装状態の酒匂(右下)。右上は烏島、左上は舞鶴市長浜の現海上自衛隊舞鶴航空基地付近で、酒匂は佐波賀に接岸している]]
[[File:Crossroads Able Target Ship Map.png|thumb|right|250px|Able実験の配置図。5番がギリアム、7番が長門、9番が酒匂、32番がネバダ、35番が[[ペンサコーラ_(重巡洋艦)|ペンサコーラ]]。]]
しかしアメリカ軍は日本海側を含む主要な港湾を機雷で封鎖する作戦を開始し、5月16日には宮津湾、5月20日には舞鶴湾で[[B-29 (航空機)|B-29]]による最初の機雷投下が行われた<ref name="舞鶴空襲">[https://web.archive.org/web/20151005002105/http://www.geocities.jp/k_saito_site/maizurukusyu0.html 舞鶴空襲]</ref>。このため第十一水雷戦隊は空襲を誘発しないよう艦艇の軍港内の停留を避けた上で[[七尾湾]]への移動が検討され<ref name="#1">[[#S1906十一水戦(7)]]p.54</ref>、当面の措置として6月1日に酒匂と柿、菫、楠、駆逐艦[[雄竹 (駆逐艦)|雄竹]]が機雷未投下の小浜湾に移動した<ref name="#1"/><ref>[[#S1906十一水戦(8)]]p.5</ref>。その後の酒匂は燃料不足のため、陸上から電気を引き、ボイラーの火は消された状態となった。6月25日には小浜湾にも機雷が投下された<ref name="舞鶴空襲"/>。
 
しかしアメリカ軍は日本海側を含む主要な港湾を機雷で封鎖する作戦を開始し、5月16日には宮津湾、5月20日には舞鶴湾で[[B-29 (航空機)|B-29]]による最初の機雷投下が行われた<ref name="舞鶴空襲">[https://web.archive.org/web/20151005002105/http://www.geocities.jp/k_saito_site/maizurukusyu0.html 舞鶴空襲]</ref>。このため第十一水雷戦隊は空襲を誘発しないよう艦艇の軍港内の停留を避けた上で[[七尾湾]]への移動が検討され<ref name="#1">[[#S1906十一水戦(7)]] p.54</ref>、当面の措置として6月1日に酒匂と柿、菫、楠、駆逐艦[[雄竹 (駆逐艦)|雄竹]]が機雷未投下の小浜湾に移動した<ref name="#1"/><ref>[[#S1906十一水戦(8)]] p.5</ref>。その後の酒匂は燃料不足のため、陸上から電気を引き、ボイラーの火は消された状態となった。6月25日には小浜湾にも機雷が投下された<ref name="舞鶴空襲"/>。

燃料が窮迫して組織的な艦隊運用は困難になっており、7月15日に第十一水雷戦隊は解隊され<ref>[[#S1906十一水戦(8)]] p.34『一五|将旗ヲ徹ス』</ref><ref name="jirei1867">{{アジア歴史資料センター|C13072106400|昭和20年7月25日(発令7月15日付)海軍辞令公報(甲)第1867号 p.9}}</ref>、「酒匂」は舞鶴鎮守府部隊に編入<ref name=ochiai105/>。酒匂は特殊警備艦に指定され<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070505800|昭和20年7月25日(水)海軍公報第5079号 p.1}}横須賀鎮守府豫備艦 軍艦 酒匂 右特殊警備艦ト定ム</ref>、7月19日に再び[[舞鶴湾]]に回航されたが、空襲の標的となる港内を避けて[[舞鶴市]]佐波賀の海岸に係留固定され<ref>[[#舞廠造機部の昭和史]] 369頁麾下の艦艇とともに舞鶴へきて、平から佐波賀へ続く海岸の入り組んだところにひっそりと係留された。</ref>、対空兵装を陸揚げした上で<ref>[https://web.archive.org/web/20140710222551/http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/miyazukuusyu.html 宮津空襲]「酒匂でも対空砲火を船から取り外し、陸上部に対空砲火を移設して、船をカモフラージュし港湾の防衛 に当たっていました。私の恩師が配属されていた25mm.三連装高角機銃も舞鶴空襲時には、陸上部に移設されていました。」</ref>、甲板上に樹木を立てるなど入念な擬装を施した<ref>[[#舞廠造機部の昭和史]]370頁「酒匂」はやがてすべての砲座を下ろし、海岸に固定して網をかぶせ、木の枝葉などで擬装した。』『〕〔「酒匂」と同じように甲板上にカモフラージュの樹木を植えた。</ref><ref name="軽巡25隻246">[[#軽巡二十五隻]]246頁</ref>。擬装した藁に引火する恐れがあるため、対空射撃も禁止されたという<ref name="軽巡25隻246" />。
 
7月30日の舞鶴・宮津空襲では港湾に在留した艦船も攻撃対象となり、駆逐艦[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]が擱座、潜水母艦[[長鯨 (潜水母艦)|長鯨]]の艦橋に着弾するなどの大きな被害が出たが、酒匂は損害を受けず、擬装状態のまま無傷で終戦を迎えた。酒匂は1945年10月5日に除籍された<ref name="終戦と帝国艦艇79">[[#終戦と帝国艦艇]]79頁</ref>。
 
* 酒匂の終戦時の所在については当時、[[舞鶴海軍工廠]]富山分工場にいた[[福井静夫]]らが舞鶴港外としている<ref name="終戦と帝国艦艇79" /><ref>[[#日本巡洋艦物語]]333頁『舞鶴港外の島かげに疎開したが、幸運にもまったく無キズで終戦を迎えた。』</ref><ref>[[#写真太平洋戦争10巻]] 135頁最終的には舞鶴港外の島影に偽装繋留され、無傷で終戦を迎えた。</ref>一方で、1945年6月25日から終戦までを七尾湾とする文献もある<ref>[[#艦長たちの軍艦史]]176頁『6月25日、七尾湾に待避して終戦をむかえた。』</ref>。第十一水雷戦隊の戦時日誌によると、酒匂は6月1日から7月15日まで小浜湾内に在泊し<ref>[[#S1906十一水戦(8)]] p5,p27</ref>、七尾湾へ回航した記録はない。7月19日に小浜から舞鶴に移動後は一部兵装を降ろして擬装し、軍艦としての運用は困難になった。7月30日の舞鶴空襲時、佐波賀に係留された酒匂を米軍機が撮影している。終戦直後の8月17日に舞鶴港に入港した[[向日丸]]の乗員は、佐波賀で樹木で擬装した酒匂を目撃している{{Efn|<ref>[http://bbs2.sekkaku.net/bbs/kaneojp/mode=res&log=89 硝煙の海]</ref>〔 その際、佐波賀の岸に船形の枯れ木の小山を目撃し、双眼鏡で確認したら軍艦のようであった。われわれは命からがら帰還したのに、敵と対戦せず隠れていることに不信を抱かざる得なかった。数日後、該軍艦が舞鶴に入港してきたので「酒匂」と確認。たまたま親友に同艦乗り組みの方が居るので取材した概要を以下に記す。』『〕〔 結局「酒匂」は燃料不足で実戦に参加すること無く舞鶴へと回航され、終戦を迎えた。当時日本海側の各港湾も米軍投下機雷で薄氷の海だったが、幸い若狭湾の小浜港に着いたものの隠れる場所もなく、舞鶴向け機雷の海を17ノットで突破し、隠れ場所を佐波賀に設定した。カムファージには艦全体に網を張り、乗組員がその上に山の成木を伐採して覆った。当時、日本海側にも米艦載機の跳梁があったが、発見されずに生き残り唯一の軍艦となった。』</ref>〕}}。<!--舞鶴空襲後に対空兵装を外した酒匂が外洋を航海することも、終戦後に樹木等を満載した状態で舞鶴に回航することも不自然で、酒匂は七尾湾に移動していない可能性がある<ref group="注釈">酒匂の終戦前の動向については[[#軽巡二十五隻]]の岩松重裕氏、乗員から証言を得た阿部達氏や菊池金雄氏らの記録がある(外部サイト参照)が、七尾湾の言及はない。</ref>。(出典のない考察。独自研究では)-->
 
=== 復員輸送 ===
1945年(昭和20年)12月1日、酒匂は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]に引き渡された。[[復員輸送艦|特別輸送艦]]に指定され。釜山、南洋諸島、ニューギニア、台湾などを航海し、復員輸送に従事した。阿賀野型巡洋艦の定数乗組員約900名に対しこの時点の酒匂には約300名しか乗艦しておらず、武装を撤去し甲板に居住区やトイレが設置された<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』412-413頁「復員航海」</ref>。武装については、主砲は砲塔を残し砲身のみ撤去された{{Sfn|ビキニ艦艇id80925|pp=191-200|ps=(3分11秒-20秒砲塔正面映像)}}。その他に高角砲、魚雷発射管、機銃、各射撃指揮装置、探照燈、射出機、1322号電探、2213号電探なども撤去された<ref>[[#軽巡阿賀野型・大淀]]51頁の写真と解説、[[#JapaneseCruisers]]p.574 Photo 11.3, p.575 Photo 11.4, p.604 Photo11.10など戦後に撮られた写真による。</ref>{{Efn|艦橋に装備された21号電探は、1946年2月下旬の横須賀整備時に確認できる{{Sfn|クロスロードid80841|p=240sec|ps=(4分)酒匂艦橋の21号電探}}。}}。乗員の不足を補うため[[予科練]]出身の[[井出定治]]など軍艦で勤務したことのない者まで集められたが、秩序は維持されていた。外国海軍の将校が乗り込むこともあったが、大原艦長は敬礼を求めた豪州[[オーストラリア海軍]]の少尉に対し「こっちは大佐だ」とやり返したという<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』414頁</ref>。
 
また[[北海道]]の[[函館港]]から[[朝鮮半島]]・[[釜山港]]へ、朝鮮半島出身労働者(約1000名)を送り届けたこともあった<ref name="軽巡25隻249">[[#軽巡二十五隻]]249-250頁『第三話 朝鮮出身者送還』</ref>。当時の乗組員の手記によれば、この時、士官居住区解放を求める朝鮮半島出身労働者と酒匂の乗組員との間に対立が起こった<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』416頁</ref>。だが、酒匂が沖合いに出て猛烈な時化に襲われると彼らは[[乗り物酔い|船酔い]]に悩まされ、交渉は取りやめとなった<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417頁</ref>。この時、朝鮮系労働者が航海中甲板の至るところで嘔吐・排便排尿をしたため、彼らが下艦した後、その処理に酒匂の乗員は泣かされることになったという<ref>井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』417-418頁、「軍艦『酒匂』始末記」</ref>。また釜山港の埠頭には多数の民衆が集まって朝鮮人労務者を歓迎し、英雄として迎え入れた<ref name="軽巡25隻249" />。目撃した岩松(酒匂航海士)は繰り返される[[万歳]]に複雑な想いを抱き、強い印象を受けたと回想している<ref name="軽巡25隻249" />。
 
=== ビキニ環礁へ ===
1946年(昭和21年)[[2月11日]]、大原艦長(第二復員官)は元空母の特別輸送艦[[葛城 (空母)|葛城]]艦長に転任し補職され<ref name="jirei復員省78">{{アジア歴史資料センター|C13072158700|昭和21年3月8日付(発令2月11日)第二復員省辞令公報(甲)第78号 p.21}}</ref>、酒匂の就役から復員が終了するまで一代限りとなった酒匂艦長の職務を全うした。2月25日、酒匂は特別輸送艦の指定を解除された<ref>[[#公報昭和21年3月]] p.1内令第三二號|元驅逐艦 冬月、元第百九十六號海防艦 右特別輸送艦トシ佐世保地方復員局所管ト定ム|横須賀地方復員局所管 特別輸送艦 酒匂 右特別輸送艦ヲ解ク|昭和二十一年二月二十五日 第二復員大臣</ref>。その後、[[核実験]]([[クロスロード作戦]])の標的艦として戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]などとともに、横須賀でアメリカ海軍に引き渡された<ref name="軽巡25隻253">[[#軽巡二十五隻]] 253-254頁異郷に眠る新鋭艦への思慕』</ref>。日本海軍乗員による操縦指導が東京湾で行われたが、意思疎通不足によって主蒸気管が閉鎖されないまま巡航タービンのクラッチが切られた<ref group="注釈">アメリカと日本のタービンの操作手順の違いによって、この誤動作は起きた</ref>。無負荷となった巡航タービン2隻規定回転数横須賀港で整備超えて暴走し、その轟音を聞いた日本兵とアメリカ兵はあわててタービン室から逃げだして事おこきを得た。結果タう{{Sfn|クロスロビン1基が破損しドid80841|pp=203-600sec|ps=(3軸運転分23秒~10分)横須賀で長門なった。操縦指導は20日間渡って実施整備される酒匂}}ビキニ環礁への移動に2名の日本兵の添乗[[星条旗]]求め掲げられたが、日本兵が断ったためアメリカ海軍兵員によっのみ行われた。後にこの日本兵はビキニにつていけばよかっと後悔している<ref group{{Sfn|クロスロードid80841|p="注釈">原爆実験のことは教えられていなかった</ref>512sec|ps=(8分32秒)酒匂艦尾映像}}
 
日本海軍乗員による操縦指導が[[東京湾]]で行われたが、[[コミュニケーション|意思疎通]]不足によって主蒸気管が閉鎖されないまま巡航タービンのクラッチが切られた<ref group="注釈">アメリカと日本のタービンの操作手順の違いによって、この誤動作は起きた</ref>。無負荷となった巡航タービンは規定回転数を超えて暴走し、その轟音を聞いた日本兵とアメリカ兵はあわててタービン室から逃げだして事なきを得た。結果タービン1基が破損し3軸運転となった。操縦指導は20日間に渡って実施された。ビキニ環礁への移動に2名の日本兵の添乗が求められたが、日本兵が断ったためアメリカ海軍兵員によってのみ行われた。後にこの日本兵はビキニについていけばよかったと後悔している<ref group="注釈">原爆実験のことは教えられていなかった</ref>。
1946年7月1日 [[ビキニ環礁]]で行われた[[クロスロード作戦]]にともなう核実験(A-実験 空中爆発)では、酒匂は目標艦[[ネバダ (戦艦)|ネバダ]]の約500~600m地点に配置されていた<ref name="終戦帝国艦艇80">[[#終戦と帝国艦艇]]80頁</ref>。だが爆心地点がずれ、ほぼ上空で[[原子爆弾]]が爆発した。その強力な爆風により艦橋より後方の構造物は、前方へなぎ倒された<ref name="井川418">井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』418頁「屈辱の日」</ref><ref>[[#終戦と帝国艦艇]]84頁『(70)酒匂 原爆実験後の被害写真』</ref>。艦尾部分は24時間近く炎上し、また艦尾にも亀裂が生じて浸水がはじまった<ref name="終戦帝国艦艇80" />。酒匂は7月2日、浅瀬への曳航作業中に左舷へ傾斜し始め艦尾から沈没した<ref name="終戦帝国艦艇80" />。現在は水深60mの海底に沈んでいる<ref>[http://www.arawasi.jp/ijn/album-KD.html Kevin Denlay Collection]…長門の写真もあり</ref>。
 
1946年7月1日 [[ビキニ環礁]]到着後、アメリカ軍将兵が乗り込んで視察したが、その際の映像が残っている{{Sfn|ビキニ艦艇id80913|pp=270-300sec|ps=(4分30秒~5分、酒匂映像)}}。7月1日、同環礁で行われた[[クロスロード作戦]]にともなう核実験(A-実験 [[B-29 (航空機)|B-29]]による投下、空中爆発)では<ref>{{cite web|url= https://www.britishpathe.com/asset/173772/ |title = BIKINI! FIRST ACTUAL FILMS! (1946)| website = www.britishpathe.com | publisher = BRITISH PARAMOUNT NEWSREEL (REUTERS)|date= 1946 | accessdate = 2025-05-10|ref=}}</ref>、酒匂は目標艦[[ネバダ (戦艦)|ネバダ]]の約500~600m地点に配置されていた<ref name="終戦帝国艦艇80">[[#終戦と帝国艦艇]]80頁</ref>。だが[[爆心地]]がずれ、ほぼ攻撃型輸送船[[ギリアム_(攻撃輸送艦)|ギリアム]]の直で[[原子爆弾]]が爆発した。その強力な爆風により酒匂では艦橋より後方の構造物が{{Sfn|A実験id80995|pp=592-655sec|ps=(9分52秒~10分55秒、酒匂の左舷映像)}}、前方へなぎ倒された<ref name="井川418">井川聡『軍艦「矢矧」海戦記』418頁「屈辱の日」</ref><ref>[[#終戦と帝国艦艇]] 84頁(70)酒匂 原爆実験後の被害写真</ref>。艦尾部分は24時間近く炎上で小火災が発生し、また浸水により艦尾にも亀裂生じて浸水がはじまっ沈下、やや左舷に傾斜し<ref name{{Sfn|A実験id80995|pp="終戦帝国艦艇80" />。148-175sec|ps=(2分28秒~2分55秒、傾斜した酒匂映像)}}。7月2日、浅瀬への曳航作業中に左舷へ傾斜し始め艦尾から沈没した<ref name="終戦帝国艦艇80" />、艦尾から沈没した{{Sfn|A実験id80996|pp=371-455sec|ps=(6分11秒~7分35秒)沈没する酒匂の映像}}。現在は水深60mの海底に沈んでいる<ref>[http://www.arawasi.jp/ijn/album-KD.html Kevin Denlay Collection]…長門の写真もあり</ref>。
 
== 歴代艦長 ==
156 ⟶ 161行目:
*雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 15 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型』光人社、1997年、ISBN 4-7698-0816-X
**103-105ページ、落合康夫「軽巡洋艦『阿賀野・能代・矢矧・酒匂』行動年表」
 
* [http://www.archives.gov NARA公式サイト]{{en icon}}([[アメリカ国立公文書記録管理局]])
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/68771 |title = Project Crossroads: Bikini Island | publisher = NARA |date= 1946 | accessdate = 2025-05-10 |ref= {{SfnRef|クロスロードid68771}}}}
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/80841 |title = OPERATION, "CROSSROADS" | publisher = NARA |date= 1946 | accessdate = 2025-05-10 |ref= {{SfnRef|クロスロードid80841}}}}
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/80913 |title = BLANDY INSPECTING TARGET SHIPS BIKINI ATOLL | publisher = NARA |date= 1946 | accessdate = 2025-05-10 |ref= {{SfnRef|ビキニ艦艇id80913}}}}
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/80925 |title = BLANDY INSPECTS TARGET SHIPS: DIVING OPERATIONS BIKINI LAGOON | publisher = NARA |date= 1946 | accessdate = 2025-05-10 |ref= {{SfnRef|ビキニ艦艇id80925}}}}
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/80995 |title = OP. CROSSROADS "A" DROP DAMAGE - BIKINI | publisher = NARA |date= 1946 | accessdate = 2025-05-10 |ref= {{SfnRef|A実験id80995}}}}
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/80996 |title = OP. CROSSROADS "A" DROP DAMAGE - BIKINI | publisher = NARA |date= 1946 | accessdate = 2025-05-10 |ref= {{SfnRef|A実験id80996}}}}
 
== 外部リンク ==
*[https://web.archive.org/web/20141030202939/http://www.naniwa-navy.com/senki-1-abetatu-sakousimatuki1.html 軍艦『酒匂』始末記]:戦中、戦後に乗艦した阿部達氏の手記