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なお、桑山一直も一時閉門を命じられているが(伊東家の親族らが、孫次郎と桑山が共謀して伊東を殺害したと誤った訴えをしたため{{Sfn|『東武実録 巻1-3』|loc=55/125コマ}})、罪がないとして程なく赦された{{Sfn|『断家譜 巻十六』|loc=14/53コマ}}<ref name="jikki_genna021212"/>。
 
== 備考 ==
*江戸時代中期に[[湯浅常山]]が編纂した逸話集『[[常山紀談]]』は、徳川家康が死を前に松倉・市橋・堀・桑山および別所孫次郎の5人を呼んだ際のエピソードとして以下を載せる<ref name="jozankidan"/>。家康は、5人は忠義者で、とくに大坂の陣において大和口で武功があった、秀忠によく仕えるようにと遺言したが(秀忠もこの席に同席していたとする)。とくに孫次郎を取り上げ、禄は少ないながらも「今後も取わけ忠義あるべき者」である、大和口では「やさしき言」(殊勝な言葉)を言ったのだ、と褒めたので、孫次郎は感激のあまり泣き沈んだ<ref name="jozankidan"/>。大和口での戦いで、撤退する大坂方に徳川方が追撃をかけなかったとき、孫次郎が諸将の前に馬を乗り回し「かつて[[九州平定|筑紫の戦い]]で、撤退する島津方を追撃しなかった[[尾藤知宣]]に豊臣秀吉が激怒したことがあった。追撃するべきところを外すのは無念である。私は馬一匹のみなので歯噛みするばかりである。あなた方は腰が抜けたのか」と大声で呼ばわったことを、家康が聞き及んでいたのである<ref name="jozankidan"/>。
 
== 脚注 ==
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<ref name="jikki_genna021212">『台徳院殿御実紀』巻四十四・元和二年十二月十二日条、[https://dl.ndl.go.jp/pid/772965/1/430 経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』p.845]。</ref>
<ref name="jozankidan">『常山紀談』巻之二十三「東照宮松倉市橋堀桑山別所五人へ御遺言の事」、[https://dl.ndl.go.jp/pid/1078984/1/354 有朋堂文庫版『常山紀談』p.662]。</ref>
 
<ref name="nihonjinmei_1107297">{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E5%88%A5%E6%89%80%E5%90%89%E6%B2%BB-1107297|title=別所吉治 |work=デジタル版 日本人名大辞典+Plus |accessdate=2025-05-16}}</ref>