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'''ウニオーネ・カルチョ・サンプドリア'''({{lang-it-short|'''Unione Calcio Sampdoria S.p.A.'''}})は、[[イタリア]]・[[リグーリア州]][[ジェノヴァ]]をホームタウンとするプロサッカークラブ。愛称「'''サンプブルチェルキアーティ'''(La(I Samp)Blucerchiati、青い円)「'''ドリアサンプ'''(Il(La Doria)Samp)」、または「'''ブルチェルキドリーティ'''(I(Il Blucerchiati、青に囲まれしもの)Doria)。1990-91シーズン、セリエA優勝の古豪
 
== 歴史 ==
[[1946年]]にサンピエルダレネーゼとアンドレア・ドリアが合併して誕生。
 
1980年代には[[パオロ・マントヴァーニ]]会長による積極経営の下で、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]を代表するチームに成長し、名将[[ヴヤディン・ボシュコヴ]]の下で、1982年に移籍してきた[[ロベルト・マンチーニ]]と、1984年加入の[[ジャンルカ・ヴィアリ]]のツートップ、1986年より加入の[[トニーニョ・セレーゾ]]などを擁してクラブの黄金期を迎える。1989-90シーズン、初のヨーロッパの舞台でのタイトルとなる、[[UEFAカップウィナーズカップ 1989-90|UEFAカップウィナーズカップ]]優勝。1990-91シーズンには初の[[セリエA (サッカー) 1990-1991|セリエA]]優勝を果たし、1991-92シーズンには[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92 決勝|UEFAチャンピオンズカップ決勝]]に進出、[[FCバルセロナ]]と互角に戦ったが延長戦の末に敗れた
 
1992-93シーズン開幕前ににヴィアリがユベントスへ移籍、[[スヴェン=ゴラン・エリクソン]]が新監督に就任した。1993-94シーズンには[[ルート・フリット]]や[[デビッ・プラット]]、[[アルベリゴ・エヴァーニ ]]ら新戦力が活躍、旧戦力との融合で一時首位に立つなどセリエA優勝争いを演じたが、3位に終わった。一方の[[コッパ・イタリア]]では優勝を果たした。1994-95シーズン終了後に長年チームを支えた[[ピエトロ・ヴィエルコウッド]]が移籍した。
1990-91シーズンには初のセリエA優勝を果たし、1991-92シーズンにはチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)決勝に進出、決勝では、FCバルセロナと互角に戦うが、エースのヴィアリが決定的チャンスを決め切れず、延長の末クーマンに直接FKを決められ敗れた。
 
1992-93シーズン開幕前ににヴィアリがユベントスへ移籍、[[スヴェン=ゴラン・エリクソン]]が新監督に就任した。1993-94シーズンには[[ルート・フリット]]やデビット・プラット、[[アルベリゴ・エヴァーニ ]]ら新戦力が活躍、旧戦力との融合で一時首位に立つなどセリエA優勝争いを演じたが、3位に終わった。一方の[[コッパ・イタリア]]では優勝を果たした。1994-95シーズン終了後に長年チームを支えた[[ピエトロ・ヴィエルコウッド]]が移籍した。
 
1996-97シーズン、新加入の[[ヴィンチェンツォ・モンテッラ]]と[[フアン・セバスティアン・ベロン]]、マンチーニらの活躍もあって一時は優勝争いを演じるが、UEFAカップ出場権に終わった。シーズン終了後には15年間プレーしたクラブの顔とも言えるマンチーニが移籍、エリクソンも退任した。1998-99シーズン、[[アリエル・オルテガ]]が加入したが、 [[セリエB (サッカー)|セリエB]]に降格。
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2003-04シーズンにはセリエAに復帰し、安定した経営により中堅クラブとして地位を確立していたが、2010-11シーズンは[[リカルド・ガッローネ]]会長が[[アントニオ・カッサーノ]]と喧嘩となり、冬の移籍でカッサーノがミランに移籍し、[[ジャンパオロ・パッツィーニ]]もインテルに移籍したこともあり、決定力不足が顕著に表れて18位となり8シーズンぶりにセリエBへの降格となった<ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/05/17/kiji/K20110517000837870.html 内部分裂で降格のサンプドリア 会長息子 チーム運営の失敗認める(2011年5月17日スポーツニッポンより)]&nbsp;2011年5月22日閲覧</ref>。2011-12シーズンは6位になり、プレーオフで[[ヴァレーゼ・カルチョSSD|ASヴァレーゼ1910]]に勝利してセリエA復帰を決めた。
 
2021年12月6日、クラブの会長である[[マッシモ・フェレーロ]]会長が経営面で関わっていた企業の詐欺破産、企業犯罪が[[カラブリア州]]のパオラ地検の捜査により、明らかにされ、同日に身柄を拘束された。事件発覚後、フェレーロ会長は辞任を表明し、クラブの首脳陣はクラブ経営権の譲渡を決めた<ref>{{Cite web|和書|title=サンプドリア、会長が詐欺などで逮捕。混乱の中で前進できるのか|url=https://www.footballista.jp/news/126288|date=2021-12-11|accessdate=2021-12-13|publisher=footbalista}}</ref>。
 
2023年、賃金未払いなどの問題も表面化したうえに、シーズンを通して降格圏から抜け出せず4試合を残した状態で2010-11シーズン以来の12年ぶりとなるセリエB降格となった<ref>{{cite web|url=https://www.sampdoria.it/news/team/2023/05/08/la-samp-perde-a-udine-la-retrocessione-e-matematica/|title=La Samp perde a Udine, la retrocessione è matematica|website=U.C. Sampdoria|date=2023-05-08|accessdate=2023-05-10|language=it}}</ref>。
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== 歴代会長 ==
*'''[[パオロ・マントヴァーニ]]'''(1930-1993)
ローマ出身。サンプドリア黄金期を創出した会長。サンプドリアにおけるこの会長の功績は絶大であり、2021年現在でもパオロの誕生日には肖像画弾幕がホームのマラッシに掲げられる。1979年に自身が所有する船舶の一部を売却し、セリエBに低迷していたサンプドリアを買収。1982年にセリエA昇格を成し遂げ、ボローニャより40億リラで[[ロベルト・マンチーニ]]を獲得。1984年には当時代表でもコンビを組んでいた[[ジャンルカ・ヴィアッリ]]を30億リラでクレモネーゼより獲得。その後も積極的にクラブへ投資し、[[トニーニョ・セレーゾ]]、[[ジャンルカ・パリュウカ]]、[[アッティリオ・ロンバルド]]など優秀な選手を集める事に成功。特にマンチーニとヴィアッリはじめとする攻撃陣はセリエA随一といわれ、1980年度後半から1990年は数々のタイトルを奪取した。そして1990-91のスクデットを頂点とする「'''サンプ・ドーロ'''」と呼ばれる黄金期を創出した。1993年、持病の心臓病が悪化し逝去。葬儀の際にパオロの棺をマンチーニをはじめとするサンプの選手達が運んだ映像はジェノヴァ市民のみならず多くの人の涙を誘った。
ローマ出身。サンプドリア黄金期を創出した会長。
 
*'''[[エンリコ・マントヴァーニ]]'''(1993-2002)
サンプドリアにおけるこの会長の功績は絶大であり、2021年現在でもパオロの誕生日には肖像画弾幕がホームのマラッシに掲げられる。
パオロ・マントヴァーニの息子。パオロの死後、会長に就任。在任中は[[シニシャ・ミハイロヴィチ]]、[[クラレンス・セードルフ]]、[[クリスティアン・カランブー]]、[[フアン・セバスティアン・ベロン]]など、優秀な選手を集めたもののクラブの財政状況の悪化から長く引き留めることはできなかった。父パオロとは異なりクラブの財政悪化により財政優先のクラブ経営を優先させたため、優秀な選手は集めるもののチーム強化には至らなかった。更にチームの象徴であるマンチーニとのマントヴァーニ一族との確執も表面化。96-97シーズンを最後にマンチーニは、監督であった[[スヴェン=ゴラン・エリクソン]]とともにラツィオへ去った。翌シーズン後も[[アリエル・オルテガ]]や[[ヴィンチェンツォ・モンテッラ]]など優秀な選手を要したものの、チームとしてはうまく機能しなかった。更に監督の解任・再任騒動などフロントの対応の不手際も露呈し、最終節を待たずにセリエBに陥落した。そして3年後の2002年にクラブは深刻な経営危機に陥り、マントヴァーニ一族はクラブの経営から手を引いた。
1979年に自身が所有する船舶の一部を売却し、セリエBに低迷していたサンプドリアを買収。
1982年にセリエA昇格を成し遂げ、ボローニャより40億リラで[[ロベルト・マンチーニ]]を獲得。
1984年には当時代表でもコンビを組んでいた[[ジャンルカ・ヴィアリ]]を30億リラでクレモネーゼより獲得。
その後も積極的にクラブへ投資し、[[トニーニョ・セレーゾ]]、[[ジャンルカ・パリュウカ]]、[[アッティリオ・ロンバルド]]など優秀な選手を集める事に成功。
 
特に[[ロベルト・マンチーニ]]と[[ジャンルカ・ヴィアリ]]はじめとする攻撃陣はセリエA随一といわれ、1980年度後半から1990年は数々のタイトルを奪取した。
 
そして1990-91のスクデットを頂点とする「'''サンプ・ドーロ'''」と呼ばれる黄金期を創出した。
1993年、持病の心臓病が悪化し逝去。
葬儀の際にパオロの棺をマンチーニをはじめとするサンプの選手達が運んだ映像はジェノバ市民のみならず多くの人の涙を誘った。
 
*'''[[エンリコ・マントバーニ]]'''(1993-2002)
[[パオロ・マントバーニ]]の息子。パオロの死後、会長に就任。
 
在任中は[[シニシャ・ミハイロヴィチ]]、[[クラレンス・セードルフ]]、[[クリスティアン・カランブー]]、[[フアン・セバスティアン・ベロン]]など、
 
優秀な選手を集めたもののクラブの財政状況の悪化から長く引き留めることはできなかった。
父パオロとは異なりクラブの財政悪化により財政優先のクラブ経営を優先させたため、優秀な選手は集めるもののチーム強化には至らなかった。
更にチームの象徴であるマンチーニとのマントバーニ一族との確執も表面化。
96-97シーズンを最後にマンチーニは、監督であった[[スヴェン=ゴラン・エリクソン]]とともに[[SSラツィオ|ラツィオ]]へ去った。
翌シーズン後も[[アリエル・オルテガ]]や[[ヴィンチェンツォ・モンテッラ]]など優秀な選手を要したものの、チームとしてはうまく機能しなかった。
更に監督の解任-再任騒動などフロントの対応の不手際も露呈し、最終節を待たずに[[セリエB (サッカー)|セリエB]]に陥落した。
 
そして3年後の2002年にクラブは深刻な経営危機に陥り、マントバーニ一族はクラブの経営から手を引いた。
 
*'''[[リカルド・ガッローネ]]'''(2002-2013)
ガッローネは石油精製業を経営するイタリア有数の大富豪であり、2002年財政破綻寸前のサンプドリアをマントヴァーニ一族より買収した。チームをセリエC1降格の危機より救い、[[ジュゼッペ・マロッタ]]をGM(ジェネラル・マネージャー)GMに招聘、小規模予算ながら堅実かつ強力なチームづくりに成功した。2002-03シーズンには[[ワルテル・ノヴェッリーノ]]監督の下でセリエA昇格を果たした。2009-10シーズンは[[ルイジ・デルネーリ]]監督の下、[[ジャンパオロ・パッツィーニ]]、前任者[[ワルテル・マッツァーリ]]監督の下で再生を果たした[[アントニオ・カッサーノ]]の2トップが機能し、4位という大躍進を遂げ、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11]]のプレーオフからの出場権を獲得した。2010-11シーズンにはセリエB降格を経験し、2011-12シーズンは苦しみながらも途中就任した[[ジュゼッペ・イアキーニ]]監督の下でプレーオフを経て、セリエA昇格を果たした。しかし晩年は、デルネーリ退任以降は相次ぐ監督解任と2012-13シーズンには昇格の功労者イアキーニを切り、インテルを率いた経験を持つ[[ラファエル・ベニテス]]招聘を検討するなど、一貫性のないチーム作りが露呈しまう結果となった。2013年1月21日、癌により76歳で死去
 
2009-10シーズンは[[ルイジ・デルネーリ]]監督の下、[[ジャンパオロ・パッツィーニ]]、前任者[[ワルテル・マッツァーリ]]監督の下で再生を果たした[[アントニオ・カッサーノ]]の2トップが機能し、4位という大躍進を遂げ、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11]]のプレーオフからの出場権を獲得した。
 
2010-11シーズンにはセリエB降格を経験し、2011-12シーズンは苦しみながらも途中就任した[[ジュゼッペ・イアキーニ]]監督の下でプレーオフを経て、セリエA昇格を果たした。しかし晩年は、デルネーリ退任以降は相次ぐ監督解任と2012-13シーズンには昇格の功労者イアキーニを切り、[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]を率いた経験を持つ[[ラファエル・ベニテス]]招聘を検討するなど、一貫性のないチーム作りが露呈しまう結果となった。
 
2013年1月21日、癌により76歳で死去。
 
*'''[[マッシモ・フェッレー]]''' (2014-2021)
 
*'''[[マルコ・ランナ]]''' (2021-現在)
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*{{Flagicon|ITA}} [[ファウスト・パーリ]] (1983-1992)
*{{Flagicon|SCO}} [[グレアム・スーネス]] (1984-86)
* {{Flagicon|ITA}} [[ジャンフランコ・マッテオーリ]] (1985-86)
*{{Flagicon|BRA}} [[トニーニョ・セレーゾ]] (1986-92)
*{{Flagicon|ESP}} [[ビクトル・ムニョス]] (1988-90)
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*{{Flagicon|ITA}} [[レナート・ブーゾ]] (1991-93)
*{{Flagicon|BRA}} [[パウロ・シーラス・ド・プラド・ペレイラ|シーラス]] (1991-92)
*{{Flagicon|ITA}} {{仮リンク|[[ジョヴァンニ・インヴェルニッツィ|en|Giovanni Invernizzi (footballer, born 1963年生のサッカー選手)}}|ジョヴァンニ・インヴェルニッツィ]] (1989-97)
*{{Flagicon|SER}} [[ヴラディミル・ユーゴヴィッチ]] (1992-95)
*{{Flagicon|ITA}} [[アルベリゴ・エヴァーニ]] (1993-97)