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同年(1183年[[5月14日]])、小野寺の[[住林寺]]にて、野木宮合戦の後に殺害された[[足利俊綱]]と[[源義朝]]に従い討ち死にした俊通に対して、夫婦で仏像を建立して追善し、足利家綱、父・義寛も結縁をおこなった。(ここでは藤原道綱と記載されている)<ref>{{Cite book|和書 |title=住林寺本尊胎内銘 |publisher=}}</ref>。また、同年8月には本堂を建立している。頼朝側につき、俊綱死亡に加担している道綱が足利家綱と行動を共にしているのには謎が残る。
 
[[寿永]]3年([[1184年]])、道綱は頼朝の命により、[[源範頼]]に従い[[源義仲]]と平家討伐のために京に上った。月日は正確に記録されていないが、[[粟津の戦い]]が1月20日なので、1月上旬のことと思われる。その京に滞在中に、法然上人の元を訪ね、「武家に生まれ、仏の教えのことは何もわからないが、殺しの罪の重さに耐えられない。極楽浄土に行く術を教えてくれないだろうか」と願い出、十念を教わったという(住林<ref>栃木県立文書館所蔵「小野伝承)家文書」</ref>。この出来事から1年前に野木宮合戦そして住林寺での追善を考えると、母方の祖父を死に追いやり、ずっと行動を共にしていた足利忠綱を裏切り、義広から恨みを買った野木宮合戦での出来事に後ろめたさを感じている節が見受けられる。
 
その後も道綱は御家人として名を連ねる。文治5年(1189年)奥州征伐、[[建久]]6年(1190年)頼朝の入洛に先陣随兵。他、富士野鷹狩りや東大寺落慶供養などで名前が登場し、小野寺氏の活躍がうかがえる。