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[[室町時代]]には、[[小野寺道業]]の子[[小野寺朝道]]は[[中務少輔]]を称していたといわれ、[[永享]]10年([[1438年]])に発生した[[永享の乱]]では、[[小山持政]]とともに[[足利持氏]]方に加勢した。また、[[宝徳]]2年の[[江ノ島合戦]]では[[扇谷上杉氏]]の[[上杉顕房]]方として参戦し、同年8月3日付の感状が伝わっている。道業の孫[[小野寺通古]]の頃、下野小野寺氏は弱体化の一途をたどり、[[佐野氏]]から養子として[[小野寺朝綱]]を迎え入れて挽回を図った。また、[[古河公方]][[足利政氏]]が佐野氏を通じて下野小野寺氏に加勢するよう促した文書もある。このことから、下野小野寺氏は[[足利高基]]方についた[[宇都宮成綱]]、[[結城政朝]]、[[小田政治]]らと足利政氏方についた[[小山成長]]、[[佐竹義舜]]らが対立した[[永正の乱|古河公方の内紛]]では政氏方についたと考えられる。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期、[[小野寺長綱]]は[[兵部丞]]・[[中務少輔]]を称していたといわれ、[[長尾氏|足利長尾氏]]や佐野氏の配下にあったらしく、[[足利城]]主[[長尾景長]]の代官として[[北条氏康]]に加勢し、感状を賜っている。嫡男の[[小野寺景綱]]は[[長尾景長]]から「景」の一字を賜り景綱を名乗った。寺岡(現在の佐野市)の代官であったといわれ、[[永禄]]3年([[1560年]])[[8月2日]]、佐野氏15代当主[[佐野昌綱]]に寺岡の百姓らの年貢諸公事の上納確保を命じられている。[[慶長]]年間には、後北条家が滅亡すると領地を没収され、浪人となり[[毛野村#歴史|川崎村]]に居住していた。また、仁木」「丸山」「中山」などの家臣らとともに帰農したともいう
 
後に[[徳川家康]]の命によって川崎村に新たな領主がやってくると、百姓らは領主に対する不満を年貢遅納、滞納・訴訟というかたちで表すようになり、代官は領民が旧領主下野小野寺氏を信望することを領主へ訴えた。領主は家康に讒言し、後に景綱と正綱、重綱は疑いをかけられ自刃してしまう。