「山王神社 (長崎市)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
境内: しめ縄の話がなかったので加筆
アメリカ国立公文書館資料、長崎原爆資料館資料追加、被爆クスノキなど出典補足
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|地図 = Japan Nagasaki city
}}
'''山王神社'''(さんのうじんじゃ、{{lang|en|SANNO Shrine}})は{{Sfn|NARA、id23794|p=564sec|ps=(動画開始9分24秒)}}、[[長崎県]][[長崎市]]坂本に鎮座する[[神社]]。[[村社]]であった山王神社(日吉神社)と[[県社]]の'''皇大神宮'''(こうたいじんぐう)と合併(皇大神宮側に[[合祀]])して創祀された神社で、'''浦上皇大神宮'''<ref>{{Efn|「浦上皇太神宮」とも表記<!--「太」字は平凡社『長崎県の地名』などに記載-->。</ref>}}(うらかみこうたいじんぐう)とも称され、また'''山王日吉神社'''(さんのうひよしじんじゃ)とも呼ばれる。
 
[[長崎市への原子爆弾投下]]において鎮座地が[[原子爆弾]]の[[爆心地#ナガサキ|爆心地]]([[松山町 (長崎市)|松山町]]){{Sfn|NARA、id23793|p=335sec|ps=(動画開始5分35秒)}}から約800[[メートル]]{{Sfn|被爆建造物記録|p=125}}の地点に位置したために[[被爆]]した<ref>{{cite web|url= https://hibakuikou-map.jp/story/story04/ |title = <small>ストーリー</small> 山王神社二の鳥居のストーリー | website = hibakuikou-map.jp | publisher = 長崎原爆資料館-被爆遺構マップ |date= 2023 |accessdate = 2025-06-02}}</ref>。その跡を残す'''一本柱[[鳥居]]'''や<ref>{{cite web|url= https://hibakuikou-map.jp/bombed-remains/ikou03/ |title = <small>長崎の被爆遺構</small> 山王神社二の鳥居 | website = hibakuikou-map.jp | publisher = 長崎原爆資料館-被爆遺構マップ |date= 2023 |accessdate = 2025-06-02}}</ref>、熱線により裸同然となりながらも豊かな緑を取り戻した[[楠]]で有名<ref>{{cite web|url= https://hibakuikou-map.jp/bombed-remains/ikou11/ |title = <small>長崎の被爆遺構</small> 山王神社大クス | website = hibakuikou-map.jp | publisher = 長崎原爆資料館-被爆遺構マップ |date= 2023 |accessdate = 2025-06-02}}</ref>
 
== 祭神 ==
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[[1638年]]([[寛永]]15年)、[[島原の乱]]の鎮圧のため長崎に赴いた[[松平信綱]]が、浦上街道([[長崎街道]]の脇道)沿いの地を通りかかった際、その景色が[[近江国|近江]]の[[比叡山]]に似ており、地名も比叡山の[[鎮守]]である山王権現(現[[日吉大社]])の鎮座地坂本(現[[大津市|滋賀県大津市]]坂本)と共通することから山王権現の[[勧請]]を思い立ち、[[長崎代官]]の[[末次政直|末次平蔵]]と計って「山王神社」として創祀されたと伝わる。当初の鎮座地は現社地の近くであったと思われるが不明で、一説に北北西に1[[キロメートル|キロ]]程隔たった岡町付近であったともいう<ref>[http://www.sannou-jinjya.jp/02.html 山王神社「由緒・歴史」](平成23年8月9日閲覧)。</ref>。
 
その後[[1648年]]([[慶安]]元年)に長崎寺町の[[延命寺 (長崎市)|延命寺]]の[[開山 (仏教)#開基|開基]]である龍宣により山王権現を[[本尊]]とする'''白巌山観音院円福寺'''(えんぷくじ)と号する[[新義真言宗]]の[[寺院]]となるとともに延命寺の[[末寺]]とされ{{Efn|延命寺自体は[[京都]][[仁和寺]]を[[本寺]]としていた。}}、[[1652年]]([[承応]]元年)に鎮座地が[[墳墓]]に近いという理由で延命寺2代目住職の卒覚が現社地に遷座、以降[[江戸時代]]を通じて寺院としての歴史を歩む。
 
[[1868年]](明治元年)[[神仏判然令]]を受け、円福寺を廃して神社となり「日吉神社」と改称、その後[[村社]]に列した。
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浦上村([[浦上川]]流域の諸村の総称。現長崎市中部)の[[キリシタン]]へ改宗を促す宗教対策の一環として<ref>詳しくは「[[浦上四番崩れ]]」参照。</ref>、1868年に長崎裁判所総督の[[澤宣嘉]]の建議により翌2年3月に現[[長崎市立山里小学校|山里小学校]]の地に[[伊勢神宮]]([[三重県]])を勧請して「皇大神宮」として創祀され、同年7月に県社に列した。当初春秋の祭礼や修築等は官費で行われることとされていたが、[[1872年]](明治5年)に官費の支弁が停止され、[[氏子]]とされたキリシタン達も棄教や改宗を拒否して関与しなかったために神社の維持経営は困難になり、同年8月に[[台風]]で大被害を受けると再建もままならず衰退を余儀なくされた。[[1881年]](明治14年)6月、長崎[[県令]][[内海忠勝]]が永続の見込み無しと他神社との合併を命じたため、村社日吉神社の氏子と協議の末、同年1月8日に日吉神社の地に遷座して日吉神社を[[合祀]]し、「皇大神宮」の社号で再出発することとなった。
 
[[1945年]](昭和20年)[[8月9日]]に[[アメリカ軍]]の[[長崎市への原子爆弾投下|原子爆弾(原爆)投下]]により社殿は元より由来書や宝物等も焼失している。
 
== 祭祀 ==
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;一本柱鳥居
[[File:山王神社04.jpg|right|thumb|170px|二の鳥居(一本柱鳥居)]]
神社の二の鳥居は原爆「[[ファットマン]]」の爆風により片方の柱が吹き飛んだ状態で立っており{{Sfn|NARA、id23794|pp=577-583sec|ps=(動画開始9分37-43秒)}}(倒壊部分も参道脇に現存)、現存する原爆の[[被爆建造物]]となっている。原爆投下により周辺は焼け野原になり、4基あった鳥居も一の鳥居と二の鳥居を残して倒壊したが、一の鳥居は無傷で、二の鳥居は爆心から遠い片方の柱と爆風によりねじれて角度がわずかに変わった[[笠石]]の半分を残して立っていた{{Sfn|NARA、id23794|pp=571-576sec|ps=(動画開始9分31-36秒)}}。その後の調査等により、両鳥居は爆風の向きと平行して建っていたために全壊を免れたといわれている{{Sfn|被爆建造物記録|p=170}}が、[[1962年]](昭和37年)に一の鳥居も[[交通事故]]により倒壊{{Sfn|被爆建造物記録|p=170}}、跡地に案内板が設置されるのみとなった。また、三の鳥居は倒壊した柱の一部が地元自治会により「坂本町民原子爆弾殉難之碑」として残されている。1993年(平成5年)に被爆者団体が一の鳥居の復元を長崎市に陳情{{Sfn|被爆建造物記録|p=170}}したものの実現していない。
 
このため、二の鳥居は神社に立った状態で現存する唯一の鳥居である。「片足鳥居」とも呼ばれる。
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また、山王神社では先述の通り原爆により三の鳥居が倒壊して失われたため、鳥居の代わりにこの2本の楠へと[[しめ縄]]をかけて神域と外を隔てている<ref>{{Cite web |url=https://nagasaki.kusunoki-project.jp/page/tree/detail_02.html |title=02・03山王神社大クス |publisher =長崎クスノキプロジェクト |accessdate=2025-02-05}}</ref>。
 
巨樹としてのほか原爆生き残りの樹木としての意義も深いと1969年(昭和44年)に「山王神社の大クス」として長崎市の[[天然記念物]]に指定され<ref>[http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/bunkazai/bunkazai/bunkazai/156.html 長崎市「山王神社の大クス」](平成23年8月9日閲覧)。</ref>、境内を通る風で起こるその葉音も[[1996年]](平成8年)に「山王神社被爆の楠の木」として[[環境省]]の「[[日本の音風景100選]]」に選ばれている{{Sfn|被爆建造物記録|p=125}}。また、長崎原爆資料館や[[クラブ活動|学生サークル]]、市民団体、地元小学校等がその種子から育てた「被爆クスノキ二世」を[[平和]]の[[象徴]]として国内外に贈る活動を行っている
 
1995年(平成7年)の調査で、大クスが原爆炸裂により生じた高線量の放射線で突然変異を起こしていたことが明らかになった{{Sfn|被爆建造物記録|p=125}}。
 
[[2006年]](平成18年)の[[平成18年台風第13号|台風13号]]により枝が折れたために[[樹木医]]による治療を受けたが、その際に幹の中に新たな空洞が見つかり、洞内から被爆当時のものと見られる表面が焼けた石や瓦礫などが見つかった。現在も、長崎原爆資料館や[[クラブ活動|学生サークル]]、市民団体、地元小学校等がその種子から育てた「被爆クスノキ二世」を[[平和]]の[[象徴]]として国内外に贈る活動を行っている
 
[[2014年]](平成26年)、[[シンガーソングライター]]の[[福山雅治]]が被爆楠を題材にした『クスノキ』を発表した<ref>{{cite web|url= https://www.nhk.jp/p/minna/ts/K1G34KV1L8/blog/bl/pKoanVwzQJ/bp/p2La5OLZyl/ |title = 福山雅治「クスノキ-500年の風に吹かれて-」6月放送決定! | website = NHKみんなのうた | publisher = NHK |date= 2025-05-31 |accessdate = 2025-06-02}}</ref>。2020年(令和2年)、長崎市が今も原爆投下時の痕跡を残す「被爆樹木」を平和発信に活用する「長崎クスノキプロジェクト」を立ち上げ<ref>{{cite web|url= https://nagasaki.kusunoki-project.jp/page/ |title = NAGASAKI クスノキ PROJECT | website = nagasaki.kusunoki-project | publisher = 長崎市 |date= 2020 |accessdate = 2025-06-02}}</ref>、福山が本プロジェクトの総合プロデューサーに就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN8V5RH5N8VTOLB00M.html?iref=pc_ss_date_article/ |title=福山雅治さん、長崎から平和発信へ 「被爆樹木」通じて |work=[[朝日新聞]] |date=2020-08-26 |accessdate=2025-06-02}}</ref>。2025年(令和7年)6月には、福山が2014年公開の『クスノキ』を新たに編曲して公開予定である<ref>{{cite web|url= https://www.sankei.com/article/20250602-WINXWDRDJ5KNPIT2F4HELSCXCQ/ |title = 福山雅治、被爆樹木を題材にした「クスノキ」を新たに編曲 NHK『みんなのうた』にて放送 | website = www.sankei.com | publisher = 産経新聞社 |date= 2025-06-02 |accessdate = 2025-06-02}}</ref>。
 
巨樹としてのほか原爆生き残りの樹木としての意義も深いと1969年(昭和44年)に「山王神社の大クス」として長崎市の[[天然記念物]]に指定され<ref>[http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/bunkazai/bunkazai/bunkazai/156.html 長崎市「山王神社の大クス」](平成23年8月9日閲覧)。</ref>、境内を通る風で起こるその葉音も[[1996年]](平成8年)に「山王神社被爆の楠の木」として[[環境省]]の「[[日本の音風景100選]]」に選ばれている{{Sfn|被爆建造物記録|p=125}}。また、長崎原爆資料館や[[クラブ活動|学生サークル]]、市民団体、地元小学校等がその種子から育てた「被爆クスノキ二世」を[[平和]]の[[象徴]]として国内外に贈る活動を行っている。
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File:Sanno and trees.jpg|被爆直後(1945年当時)の姿
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
*『角川日本地名大辞典42 長崎県』角川書店、昭和62年ISBN 4-04-001420-0
*{{Cite book |和書 |last= |first= |author=森永育男 |authorlink= |coauthors= |year=1996 |title=長崎被爆50周年事業 被爆建造物等の記録|publisher=長崎市 |page= |id= |isbn= |quote= |ref = {{Harvid|被爆建造物記録}} }}
*『長崎県の地名』(日本歴史地名大系第43巻)平凡社、2001年ISBN 4-582-49043-3
 
* [http://www.archives.gov NARA公式サイト]{{en icon}}([[アメリカ国立公文書記録管理局]])
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/23793 |title = JAPANESE FILM ON ATOMIC BOMB DAMAGE ON NAGASAKI, JAPAN | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 |accessdate = 2025-06-02|ref={{SfnRef|NARA、id23793}}}}(長崎への原爆投下と被爆後の市街地を撮影した短編映画、8分41秒)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/23794 |title = JAPANESE FILM ON ATOMIC BOMB DAMAGE ON NAGASAKI, JAPAN | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 |accessdate = 2025-06-02|ref={{SfnRef|NARA、id23794}}}}(上記映像の続き、10分16秒)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/23795 |title = JAPANESE FILM ON ATOMIC BOMB DAMAGE ON NAGASAKI, JAPAN | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 |accessdate = 2025-06-02|ref={{SfnRef|NARA、id23795}}}}(上記映像の続き、10分32秒)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/23798 |title = JAPANESE FILM OF ATOM BOMB DAMAGE ON "BLAST" | website = www.archives.gov | publisher = NARA |date= 1945 | accessdate = 2025-06-02|ref={{SfnRef|NARA、id23798}}}}(“Effect of Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki”の映像を使用、10分18秒)
**{{cite web|url= https://catalog.archives.gov/id/65518 |title = Effect of Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki |chapter=(邦題)広島・長崎における原子爆弾の影響 | website = www.archives.gov | publisher = アメリカ国立公文書資料館 |date= 1946 | accessdate = 2025-06-02|ref={{SfnRef|NARA、id65518}}}}(長編ドキュメンタリー映画、約170分)
 
== 外部リンク ==