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9月4日付のイタリア駐在武官からの電報は、イタリアに送付された設計図と実包を用いて作成した見本小銃を試射したところ、薬莢の起縁部近くで膨張が生じた旨が報告され、これに関するイタリア側からの問合せについて指示を乞うものだった。この電報によれば、未発の薬莢で当該部分は11.40mmである一方、薬室内径は図面上11.73mm+0.01から0.05とされていた。しかし、これに対して陸軍次官からは「薬莢は誤りなし、また危険なし」との解答が行われた。この時点までに、陸軍ではさらに10万丁の調達を計画していたと言われている{{sfn|杉浦|2023|pp=78-81}}。
 
明確に理由を述べた記録は残されていないものの、1939年のうちに発注の大部分が取り消された。1939年12月20日付の電報では、試験用としてイタリアに送られた実包85万発のうち、39万5880発を返納するとしている。1丁あたり6発の試射を行うと想定した場合、39万5880発は65,980丁分に相当する。当初予定された発注数13万丁からこれを引いた6万4千丁ほどが実際に製造された数と推定される。また、予備に送られた7万発分も加えた場合、さらに1万2千丁が製造された可能性もある。後年、アメリカに現存する銃を対象としたシリアルナンバー調査では、製造数は6万丁程度と推定された{{sfn|杉浦|2023|pp=78-81}}。
 
発注の取り消しの後、イタリア側からはブナ製の銃床の買取が打診されたものの、日本側はこれを拒否している。1939年末までに製造は終了し、また支払いおよび日本への輸送が完了した{{sfn|杉浦|2023|pp=78-81}}。