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{{出典の明記|date=2020年6月}}
 
'''位階'''(いかい)は、[[国家]]の制度に基づく個人の序列の標示である。'''位'''(くらい)ともいう称する。「位階」というは、基本的には[[地位]][[身分]]の序列等級といった意味など<ref name="kojien5">広辞苑 第五版 p.121「位階」</ref>である。制度としての「位階」は、元は古代中国の政治行政制度である[[律令制]]や、それを継受した国における[[官僚]]・[[官吏]]の序列の標示([[身分制度]])であを元とする<ref name="kojien5" />。のちは、位階は、長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる[[栄典]]の一となった。位階を授与することを「位階に叙する」または'''[[叙位]]'''(じょい)という称する<ref group="注釈">日本においては[[平安時代]]以後、宮中で例年[[1月5日 (旧暦)|正月5日]]頃に行われる五位以上の位階を授ける儀式のことも叙位(例の叙位)と言った。</ref>。
 
== 日本の位階制度 ==
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日本における「位階」制度は[[律令制]]に基づく政治行政制度と共に[[中国]]から継受し、独自の発展を遂げた。
 
官吏の序列を定める制度は、[[603年]]([[推古天皇]]11年)に[[冠位十二階]]の制度を定め、官人に対して[[冠]]を与えたのが初めとされる。この「冠位」制度はその後数の変遷を経て、[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)の[[大宝律令|大宝令]]および[[718年]]([[養老]]2年)の[[養老律令|養老令]]により「位階」制度として整備された。律令制における位階は親王が4階([[品位 (位階)|品位]]、ほんい)、諸王が15階、諸臣が30階ある。位階は功労に応じて昇進があり、位階に対応した官職に就くことを原則とした([[官位相当制]])。また原則として軍功に授けられた[[勲等|勲位]](勲一等から勲十二等の勲等)とも連動し、あわせて位階勲等と称した。
 
位階(品位を含む)は、性別を問わず授与される。位階を授与される年齢は[[元服]](加冠、初冠)して成人と認められた後で、時代や階層により幅がある。また、生存者のみならず、故人にも授与される。故人に対する位階の授与には、没後に生存中の日付で授与する場合と、没後に没後の日付で位階を贈る「贈位」がある。さらに、人間に留まらず[[神道]]の[[神 (神道)|神]]や[[神社]]に位階を与える「[[神階]]」の制度が定められ([[673年]]([[天武天皇]]2年)より。後には、神社に対する[[勲位]]の授与も行われた。)、朝廷に献上されたり参内した動物や皇族が飼育するペットに授与されることもあった。[[命婦の御許]](みょうぶのおとど、[[一条天皇]]の飼い猫)や[[ゴイサギ|五位鷺]](ごいさぎ)、[[広南従四位白象]]に授与した故事などはその例である。
 
位階制度は、本来は能力によって位階を位置付け、その位階と能力に見合った官職に就けることで官職の世襲を妨げることを大きな目的とした。しかし、[[蔭位]]の制を設けるなど世襲制を許す条件を当初から含んでいた。そのため、[[平安時代]]の初期には人材登用制度としての位階制は形骸化して、一部の上流貴族に世襲的な官職の独占を許すに到った。また、[[成功 (任官)|成功]](じょうごう)や[[年料給分]](年給)などの半ば制度的な[[売官]]も盛んに行われた。また、[[9世紀]]に入ると、叙位の基準が勤務評定を基準とした本来の方法(成選制)から官職ごとの年功序列(年労制)に切り替わったことや令外官の増加によって、位階よりも官職を重視する風潮を強まり、10世紀から院政期にかけては[[位署]]の方法について位階の上下関係を重視する[[公式令 (律令法)|公式令]]の原則を官職の上下関係を重視する式部式を根拠として打ち破ろうとする動きが見られ始める(公式令の原則では、四位でも就けかつ[[職事官]]ではなかった参議よりも非参議の方が署名の上位になってしまうなどの不満があった)<ref>長又高夫「院政期明法学説の形成」『中世法書と明法道の研究』(汲古書院、2020年)P302-312・340-341.(原論文:2003年)</ref>。更に、同じ9世紀に[[昇殿]]の制度ができると、朝廷の[[身分制度]]として、位階や官職だけでなく、昇殿を認められているかが重要となった。昇殿を許された[[殿上人]]([[堂上]]、10世紀以降はおおよそ五位以上)に対し、昇殿を許されていない者を「[[地下人|地下]](ぢげ)」と呼んで区別した。もっとも、位階そのものは以後もある程度の効力を持って存続し、基本的な体系も変わることなく、明治維新まで保持された。
 
[[明治]]時代の初期には新たに近代的な[[太政官 (明治時代)#明治の太政官制|太政官制]]が敷かれ、多くの制度が再編整備された。この中で位階制は[[正一位]]から[[少初位]]まで18階に簡素化された(後、のちに初位の上に[[正九位]]および[[従九位]]を設けて20階とした)ものの、律令制での官位相当制に倣い新たに作り上げられた官職制と深く結びついて存在した{{refnest|[[1869年]][[8月15日]]([[明治]]2年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]])に公布された明治2年太政官布告第620号による<ref group="注釈">「九位」の設置は同年[[9月25日]]([[8月20日 (旧暦)|8月20日]])。</ref>。}}{{refnest|group="注釈"|ただし、「九位」設置時に正一位と初位は虚位とすることが定められ、実際には叙位されないことになった<ref>鳥海靖「位階(二)」『国史大辞典 1』吉川弘文館、1979年、P430.</ref>。}}<ref group="注釈">なお[[1871年]][[1月9日]](明治3年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]])に出された明治3年太政官布告第845号により旧官人・諸大夫・侍などの位階も廃止され、近世の位階と明治の位階との間に明確な一線が引かれた。</ref>。
 
[[1871年]][[9月24日]](明治4年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]])に明治4年太政官布告第400号が施行され、従来の官位相当制は廃止されて新たに15階からなる「官等」が定められた。このことで位階制と官職制は分離したが、位階制が廃止されたわけではなく、その後も官吏をはじめとした諸人に位階は与えられ続けた。また[[1875年]](明治8年)[[4月10日]]の詔により、勲等賞牌制([[勲等]]と[[金鵄勲章#功級|功級]]からなる勲位制、[[勲章 (日本)|勲章制度]])が定められ、位階制に併せて栄典としての役割を分有することとなった。
 
明治時代の半ば[[1887年]](明治20年)[[5月4日]]に公布された[[叙位条例]](明治20年勅令第10号)は、「凡ソ位ハ華族勅奏任官及国家ニ勲功アル者又ハ表彰スヘキ勲績アル者ヲ叙ス」(1条)と定められ、位階は栄典の役割に特化した。このとき位階数はやや簡素化され、正一位から[[従八位]]までの16階とされた。位階は、この少し前の[[1884年]](明治17年)[[7月7日]]に出された華族令(明治17年宮内省達)により定められた爵位制([[華族|華族制度]])と連動するものとされた。さらに位階奉宣事務が[[宮内省]]華族局の管轄となり、位階奉宣事務取扱手続・叙位進階内規があいついで定められ明治国家の位階制は一応完成した。位階制は、「華族・勅任官・奏任官・非職の有位者・効績者のそれぞれの内部序列の基準となるとともに、すべての階層の宮廷での朝班の基準として機能し、「官位勲爵」制の官職制・勲等制・爵位制を束ねるものとして、明治国家のなかに位置付けられた」<ref>藤井讓治、[https://doi.org/10.14989/48333 「明治国家における位階について」] 『人文學報』 1990年 67号 p.126-143, {{doi|10.14989/48333}}, 京都大学人文科学研究所。</ref>とされる。叙位条例は、[[1926年]]([[大正]]15年)[[10月21日]]に公布された位階令(大正15年勅令第325号)により廃止された。
 
[[第二次世界大戦]]後、国家・社会の制度が大きく変革され従来の栄典制度や官吏制度も改革された。[[1946年]]([[昭和]]21年)[[5月3日]]の閣議決定により、生存者に対する叙位・叙勲は停止された<ref name="teishi">[https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/db/cabinet/s21_22/bib00720 「官吏任用叙級令施行に伴ふ官吏に対する叙位及び叙勲並びに貴族院及び衆議院の議長、副議長、議員又は市町村長及び市町村助役に対する叙勲の取扱に関する件」]、[[1946年]](昭和21年)[[5月3日]]閣議決定。</ref>。その後、[[1964年]](昭和39年)に生存者叙勲が再開されたときも生存者に対する叙位は再開されなかった<ref name="saikai">[https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/db/cabinet/s34_38/bib01429 「生存者叙勲の開始について」]、[[1963年]](昭和38年)[[7月12日]]閣議決定。</ref>。ただし生存者に与えられた位階は取り消されておらず、例えば[[中曽根康弘]]は終戦まで有していた従六位のまま、次に述べる故人に対する叙位制度によって、2019年死去の際に従一位追叙(進階)されている。
 
故人に対する叙位は引き続き行われ、[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された[[日本国憲法]]の下で内閣の助言と承認により天皇の国事行為として行われる栄典の一つとされ改正位階令(大正15年勅令第325号。昭和22年5月3日政令第4号により改正)をその法的根拠とした。ただし、天皇に叙位の決定権があるわけではない。[[2001年]](平成13年)の栄典制度改革においても、「我が国の歴史や文化にかかわりのある日本固有の制度として価値があるとともに、現在は、国家・公共に対して功績のある人が死亡した際に、生涯の功績を称え追悼の意を表するものとして運用されていることから、存続させることが適当である」<ref>栄典制度の在り方に関する懇談会[https://www8.cao.go.jp/intro/kunsho/kondankai/houkoku/index_ho.html 「栄典制度の在り方に関する懇談会報告書」]、2001年 10月29日。</ref>として大きな制度変更は行われなかった。同じく栄典の一つである叙勲は[[内閣府]][[賞勲局]]が所管するのに対、位階については内閣府大臣官房人事課が所管する<ref>[https://www8.cao.go.jp/hourei/seirei.html 内閣府本府所管の政令]、2022年。</ref>。
 
=== 古代の位階 ===
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|}
==== 律令制における位階 ====
位階制度は位階と官職を関連づけることにより([[官位]]制)血縁や勢力にとらわれず適材適所を配置し、職の世襲を防ぐとともに[[天皇]]が位階を授与することで全ての権威と権力を[[天皇]]に集中し[[天皇]]を頂点とした国家体制の確立を目的とした。
 
大宝令・養老令のうち[[官位]]について定めた官位令によれば、[[皇族|皇親(皇族)]]の[[親王]](女性の[[内親王]]を含む)は[[品位 (位階)|一品(いっぽん)]]から四品(しほん)までの4階、[[王 (皇族)|諸王]](女性の[[女王 (皇族)|女王]]を含む)は[[正一位]]から[[従五位|従五位下]]まで14階、諸臣(臣下。女性の[[女官#日本の女官|女官]]を含む)は[[正一位]]から[[少初位|少初位下]](しょうそいのげ)まで30階の位階がある<ref name="令義解 10巻・官位令" >{{Cite book|和書|author=清原夏野|title=令義解 10巻|publisher=吉田四郎右衛門 |___location=京都|volume=1|pages=23-41|id={{NDLDC|2562910/23|format=NDLJP}} }}</ref> <ref name="官制大観・現代語訳「養老律令」・官位令" >{{Cite web|和書|url=http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro01.html |title=官位令 全19条 |accessdate=2022-11-11 |author=MinShig |date=2000-03-26 |website=官制大観 律令官制下の官職に関わるリファレンス Ver.0.8 |work=現代語訳「養老律令」}}</ref>。
 
正位は「しょうい」、従位は「じゅい」と読む。また一般的に三位は「さんみ」、四位は「しい」、七位は「しちい」と読む<ref name="官制大観・現代語訳「養老律令」・官位令" />。
 
また、叙位や任官について定めた[[選叙令]]によれば、内外の五位以上は勅授、内八位・外七位以上は奏授、外八位及び内外の初位は皆、太政官の判授とした<ref>[{{NDLDC|2562913/3}} {{Wikiref|清原夏野-令義解10巻-4|清原夏野「令義解 10巻. [4]」}}(第3コマ目)]</ref> <ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro12a.html#02 |title=内外五位条|accessdate=2022-11-11 |author=MinShig |date=2000-03-26 |website=官制大観 律令官制下の官職に関わるリファレンス Ver.0.8 |work=現代語訳「養老律令」}}</ref>。内外文武の官に任じるとき本人の位階と官の相当位階に高低があるならば、もし職務の相当位階が低いなら[[行]]とし高いならを[[守]]とすることとした<ref>[{{NDLDC|2562913/4}} {{Wikiref|清原夏野-令義解10巻-4|清原夏野「令義解 10巻. [4]」}}(第4コマ目)]</ref> <ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro12a.html#06 |title=任内外官条|accessdate=2022-11-11 |author=MinShig |date=2000-03-26 |website=官制大観 律令官制下の官職に関わるリファレンス Ver.0.8 |work=現代語訳「養老律令」}}</ref>。
 
律令制は位階によって就くことできる[[官職]]が定まっていた([[官位相当制]])<ref name="令義解 10巻・官位令" /> <ref name="官制大観・現代語訳「養老律令」・官位令" />。また、[[礼服]]・[[朝服]]は位階に応じて色等が定められ、特定の色や素材の衣類、乗り物、所持品等は一定の位階以上にのみ許されるなど、制限が加えられた。また、五位以上の者は[[位田]]支給が規定される規定となっていた。なお、律令制における「[[貴族]]」は五位以上の者を指した。また、全ての官人が位階を有していた訳ではなく、官位相当制のない使部・伴部・舎人などの下級官人の中には[[无位]](無位)の官人も存在した<ref>[[梅村喬]]『「職」成立過程の研究』(校倉書房、2011年) ISBN 978-4-7517-4360-7 P59-76. </ref>。
 
[[朝廷 (日本)|朝廷]]及び明治新政府では、故人に対して生前の功績を称え位階または官職を追贈することがあった。贈[[正四位]]、贈[[内大臣]]など位階を贈ることを贈位、官職を贈ることを贈官といっ称し(例:贈[[正四位]]、贈[[内大臣]])
{{-}}
 
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|少初位{{Efn|name="chu"}}
|}</div>{{clear|left}}
位階制は、[[明治維新]]により律令法が廃された後も、[[太政官 (明治時代)|太政官]]においてその運用や制度に変更を加えながら続けられた。
 
[[1868年]]1月9日([[慶応3年]][[12月14日 (旧暦)|12月14日]])に[[近代日本の官制#三職|三職]]任ぜられた[[藩士]]に対する従五位下の位階へ[[叙爵#従五位下の位階への叙爵|叙爵]]を[[小松宮彰仁親王|純仁親王]]が建議しており<ref>「純仁親王書ヲ上リ朝堂上下尊卑ノ礼分ヲ正フシ新進ノ藩士宜ク爵位ヲ賜フヘキヲ建議ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070025500、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、1868年6月12日([[慶応4年]]([[明治元年]])[[閏月|閏]]4月22日)に[[政体書]]の官等制で三等官以上{{Efn|慶応4年5月15日に政体書の三等官以上は勅授官となる<ref>「始メテ勅奏判ヲ分チ宣旨押印ノ制ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070093800、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十五巻・官制・文官職制一(国立公文書館)</ref>。}}の徴士に位階を授け二等官は従四位下、三等官は従五位下とした<ref>「徴士ニ位階ヲ授ク」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070031700、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref> <ref>「小松清廉以下九名及神山郡廉以下十一名ニ二等三等ノ位ヲ授ケ其階級ニ応シ衣冠ヲ賜フ」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070028700、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>。
 
その後、政体書の官等制と[[官位]]を併用すると甚だ不体裁であることから、1868年[[12月21日]]([[明治元年]][[11月8日 (旧暦)|11月8日]])に五等官以下については在勤中は官位を返上するように命じ、名前から官名を除いて通称を用いることとし<ref>「五等官守辰ニ至ル宮人若クハ官侍等在勤中従前爵位ヲ停メ隨位ノ通称ヲ唱ヘシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070025700、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref><ref>「五等官守辰ニ至ル宮人若クハ官侍等在勤中従前爵位ヲ停メ隨位ノ通称ヲ唱ヘシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070025700、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>[[1869年]]2月15日([[明治2年]][[1月5日 (旧暦)|1月5日]])に下大夫以下{{Efn|name="中大夫・下大夫・上士"|元[[旗本]]の家格や席次を示す[[高家 (江戸時代)|高家]]・[[交代寄合]]以下の称号を廃止して中大夫・下大夫・上士の三等に再編しており、中大夫は元高家・元交代寄合、下大夫は元[[旗本寄合席|寄合]]・元両番席以下及び席々千[[石高|石]]以上、上士は元両番席以下及び席々千石以下百石までをいう<ref>「高家交代寄合ヲ中大夫寄合両番席以下及席々千石以上ヲ下大夫両番席以下席々千石以下百石ニ至ルマテ上士ト称セシメ各触頭ヲ置ク」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070061800、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第九巻・制度・種族四(国立公文書館)</ref> <ref>「高家交代寄合以下ノ旧称ヲ廃シ中大夫下大夫上士ノ三等ニ列ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070061900、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第九巻・制度・種族四(国立公文書館)</ref>。}}の官位を止め<ref>「下大夫以下ノ官位ヲ停ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070026000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、明治2年5月に医師・画工・職人等の位階及び[[令制国|国名]]の[[受領名|受領]]を止める<ref>「医師画工職人等位階及国名ノ受領ヲ止ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070026500、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>などみだりに叙位することを止める一方で、た。1869年3月16日(明治2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]] )に[[堂上家|堂上]]・[[諸侯]]について叙任規則を定め<ref>「叙任規則ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070026300、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、諸[[官人]]・[[諸大夫]]・[[坊官]]等についても初官位について定める<ref>「諸官人諸大夫坊官等十五歳以上ニ初官位ヲ請ハシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070026400、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>など位階を統制するした
 
==== 官位相当制 ====
[[1869年]]8月15日([[明治2年]][[7月8日 (旧暦)|7月8日]])に官位を改正して従来の[[百官名|百官]]並びに受領を廃止し四位から初位までの位階から上下の称を廃止するなどの簡素化をはかる<ref name="官位ヲ改正シ">「官位ヲ改正シ従来拝叙ノ位階ハ旧ニ仍リ華族ヨリ諸官人等ニ至ル迄無官ノモノハ位階ヲ以テ称セシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070026700、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>。なお、これまで拝叙の位階はそのままにして無官の者は位階を以って称することとした<ref name="官位ヲ改正シ"/>。また、[[職員令 (太政官制)|職員令]]により官等の一等官から九等官までを廃止して更に官位相当制を定めた<ref name="職員令・官位相当表">{{Wikiref|JACAR-A15070094400|JACAR:A15070094400}}(第1画像目、第11画像目から第12画像目まで)</ref> {{Efn|name="官等制と官位相当制"|内閣記録局の見解によると、明治3年10月19日大蔵省への令達文<ref>「判任官十六等中第二等以下ヲ等外ト為ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070094600、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十五巻・官制・文官職制一(国立公文書館)</ref>によれば官等の制は官位相当に更革した後に於いても尚これありとし、明治の官位相当制を官等制の一種としている<ref name="使部等内外ノ区別ヲ稟定ス・結論部分" >「使部等内外ノ区別ヲ稟定ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111473500、公文類聚・第十二編・明治二十一年・第三巻・官職二・職制章程二・官等俸給席次附(国立公文書館)(第8画像目から第9画像目まで)</ref>。}}。
 
同年8月18日([[7月11日 (旧暦)|7月11日]])に位階は従四位以上を勅授(ちょくじゅ{{Sfn|国立国会図書館|2007|p=212}})、従六位以上を奏授(そうじゅ{{Sfn|国立国会図書館|2007|p=185}})、正七位以下を判授(はんじゅ{{Sfn|国立国会図書館|2007|p=255}})とし<ref>「位階ノ勅奏判授ノ区別ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070026800、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、同年9月3日([[7月27日 (旧暦)|7月27日]])に従四位以上を[[勅任官|勅任]]、従六位以上を[[奏任官|奏任]]、正七位以下を[[判任官|判任]]とし、ただし判任について官はその長官よりこれを授け位階は太政官よりこれを賜うとした<ref>「勅奏判任ノ区別ヲ定メ判任ハ其長官之ヲ授ケ位階ハ太政官之ヲ賜フ」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070026900、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>。官に任と言い位に授と言うことになる{{Efn|任官について、勅授・奏授・判授と勅任・奏任・判任がどちらも使用されていたが、[[1875年]](明治8年)[[3月14日]]に勅授・奏授・判授の廃止を決めた<ref>「授任勅奏判ノ区別己巳七月両度達ノ内前ノ分廃止」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010404500、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第七巻・制度七・爵位(国立公文書館)</ref>。}}。同年9月17日([[8月12日 (旧暦)|8月12日]])改定の勅授奏授位記式は次の例の様に書して[[元号]]の一文字目の下に太政官印を押した<ref>「単行書・太政官沿革志四」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017226000、単行書・太政官沿革志四(国立公文書館)(第8画像目から第10画像目まで)</ref>。
* 勅授奏授位記書式(明治2年8月12日改定)の例
太政官印
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年号[[干支]]月日
 
さらに同1869年9月27日([[8月22日 (旧暦)|8月22日]])官位相当表改正<ref name="明治職官沿革表・明治2年8月20日改正表" >「単行書・明治職官沿革表・職官部・一」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07090183000、単行書・明治職官沿革表・職官部・一(国立公文書館)(第33画像目)</ref>により初位の上に九位(正九位、従九位)を設けて全20階とした上で従一位から従九位までの官位とした<ref name="soutou"/> <ref name="職員令・8月20日改正表">{{Wikiref|JACAR-A15070094400|JACAR:A15070094400}}(第12画像目から第13画像目まで)</ref> {{Efn|内閣記録局の見解によれば、下級官吏である使部は改正前の官位相当表では少初位相当であったが、改正表には掲載されなかったため等内の判任官から等外吏にその地位を降ろした<ref name="使部等内外ノ区別ヲ稟定ス・結論部分" />。使部は律令制においては[[官人#雑任|雑任]]の官人であり、中世以降は[[地下家]]の世職として江戸時代まで存続したもので、明治政府でも下級官吏の官職であった。}}。なお、正一位と大初位・少初位は官位相当のない虚位であるため官位相当表から省かれた<ref name="明治職官沿革表・明治2年8月20日改正表" /> <ref name="職員令・8月20日改正表・冒頭" >{{Wikiref|JACAR-A15070094400|JACAR:A15070094400}}(第12画像目)</ref>。任官された人物が官位相当表の位階と異なる不相当のときは、位署書に[[行]]・[[守]]の字を記して区別することになっていた<ref name="明治職官沿革表・明治2年8月20日改正表" /> <ref name="職員令・8月20日改正表・冒頭" />。[[官吏]]の報酬である官禄は官位相当表で定めた<ref name="官禄定則ヲ定ム">「官禄定則ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15071156000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百五十九巻・理財・官給一(国立公文書館)</ref> <ref name="官制改正官位相当表ニ依リ官禄ヲ賜フ">「官制改正官位相当表ニ依リ官禄ヲ賜フ」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15071156100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百五十九巻・理財・官給一(国立公文書館)</ref>。
[[官吏]]の報酬である官禄は官位相当表によって定めた<ref name="官禄定則ヲ定ム">「官禄定則ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15071156000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百五十九巻・理財・官給一(国立公文書館)</ref> <ref name="官制改正官位相当表ニ依リ官禄ヲ賜フ">「官制改正官位相当表ニ依リ官禄ヲ賜フ」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15071156100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百五十九巻・理財・官給一(国立公文書館)</ref>。
 
[[1870年]][[3月30日]]([[明治3年]][[2月29日 (旧暦)|2月29日]])に、任官のときに初めて叙位される者は本官の相当位階から2等下に叙位することにしただし勅任官については正四位以下相当の分は総て初めは従五位、三位以上相当は総て従四位にすることにして<ref>「官員ノ初任ニ在リテ位ニ叙スル総テ本官相当ニ二等ヲ下ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、とそれぞれ定めて官位相当制により官職に就く者へ新制度の位階の叙位をはかる。また、1870年9月15日(明治3年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]])に、免職なお東京に滞在の命がある者は位階返上しなくてもよくなが免除される<ref>「免職ノ後尚ホ東京滞在ノ命アルモノハ位階ヲ返上スルニ及ハス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>。1870年10月4日(明治3年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]])に[[藩知事]]の[[一門]]の者へ叙位すること止め<ref>「藩知事一門ノ輩ニ位階ヲ給フノ令ヲ除ク」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027200、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、1870年10月13日(明治3年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]])に旧官人・元諸大夫・[[侍]]並びに元中大夫等{{Efn|name="中大夫・下大夫・上士"}}の位階を総てこれを廃止しその国名あるいは旧官名を通称とすることもまたこれを停止し<ref>「旧官人元諸大夫侍并元中大夫等位階総テ之ヲ廃シ其国名或ハ旧官名ヲ以テ通称トナスモ亦之ヲ停止ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027700、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、諸社[[神職]]の位階を有する者が官省出仕中は位階をやめる<ref>「諸社神職ノ位階ヲ有スルモノ官省出仕中ハ之ヲ停ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027800、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、など旧制度の位階を止めたが、[[華族]]格の者の爵位{{Efn|この当時はまだ律令制と同様に従五位の位階を爵位という。[[叙爵]]も参照。}}は維持した<ref>「春日新神司華族格ノ者ハ爵位返上ニ及ハス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070028000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>。1870年[[11月24日]](明治3年[[閏月|閏]]10月2日)に判任の者は位階を下賜しないと定めた<ref>「官省府藩県共判任ノ者へハ位階ヲ下賜セス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027600、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>。
その一方で、1870年10月4日(明治3年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]])に[[藩知事]]の[[一門]]の者へ叙位すること止め<ref>「藩知事一門ノ輩ニ位階ヲ給フノ令ヲ除ク」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027200、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、1870年10月13日(明治3年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]])に旧官人・元諸大夫・[[侍]]並びに元中大夫等{{Efn|name="中大夫・下大夫・上士"}}の位階を総てこれを廃止しその国名あるいは旧官名を通称とすることもまたこれを停止し<ref>「旧官人元諸大夫侍并元中大夫等位階総テ之ヲ廃シ其国名或ハ旧官名ヲ以テ通称トナスモ亦之ヲ停止ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027700、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>、諸社[[神職]]の位階を有する者が官省出仕中は位階をやめる<ref>「諸社神職ノ位階ヲ有スルモノ官省出仕中ハ之ヲ停ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027800、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>など旧制度の位階を止める。ただし、[[華族]]格の者については爵位{{Efn|この当時はまだ律令制と同様に従五位の位階を爵位という。[[叙爵]]も参照。}}は維持した<ref>「春日新神司華族格ノ者ハ爵位返上ニ及ハス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070028000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>。
1870年[[11月24日]](明治3年[[閏月|閏]]10月2日)に判任の者へは位階を下賜しないことになった<ref>「官省府藩県共判任ノ者へハ位階ヲ下賜セス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070027600、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第五巻・制度・出版・爵位(国立公文書館)</ref>。
 
[[1871年]]8月29日([[明治4年]][[7月14日 (旧暦)|7月14日]])の[[廃藩置県]]<ref>「詔シテ藩ヲ廃シ県ヲ置キ政令多岐ノ憂ナカラシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070001100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第一巻・制度・詔勅・臨御親裁・禁令・布令掲示(国立公文書館)</ref>ののち、同年9月13日(明治4年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]])に諸官省に先立って太政官の官制を改正し、従前の官位相当表では従四位以上を勅任、従六位以上を奏任、正七位以下を判任としてきたが、この際に正四位以上を勅任として正二位から正四位までの5等に分かち、正六位以上を奏任として従四位から正六位までの4等に分かち、従六位以下を判任として従六位から従九位までの7等に分つ<ref> 「太政官中官制ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070099700、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十五巻・官制・文官職制一(国立公文書館)(第3画像目)</ref>。
 
==== 官位相当制廃止後 ====
1871年[[9月24日]](明治4年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]])に官位相当制を廃止して、[[官等]]を15等に定めた<ref name="明治4年8月10日官制等級改定">「官制等級改定」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010436500、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第十四巻・官制一・文官職制一(国立公文書館)(第1画像目から第2画像目まで)</ref> {{Efn|name="官等制と官位相当制"}}。官位相当制は廃止したが位階を賜う例は廃止せず、その後は任官毎にその官等に従い位階を授ける<ref>「単行書・太政官沿革志五」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017226200、単行書・太政官沿革志五(国立公文書館)(第6画像目から第7画像目まで、第10画像目、第11画像目)</ref>。官位相当制の廃止により位署書で相当・不相当の区別がなくなり行・守も用いないことになる。また、同1871年11月24日(明治4年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]])の[[s:公用文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミヲ用フ|姓尸不称令]]により公用文書に苗字実名のみを用いることになったことから、[[1872年]]1月18日(明治4年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])改定の勅奏任官任叙式では次の例の様に書して、勅授位は明治の字に重ねて天皇[[御璽]]を押し、奏授位は明治の字の下に太政官印を押した<ref name="太政官沿革志四・勅奏任官の宣旨">「単行書・太政官沿革志四」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017226000、単行書・太政官沿革志四(国立公文書館)(第14画像目から第15画像目まで)</ref><ref name="宣旨書式中改定 明治4年12月9日・太政官">{{Cite book |和書 |author=内閣官報局 |title=法令全書 |date=1888-10-20 |year=1888 |publisher=内閣官報局 |___location=東京 |volume=明治4年 |language=ja |doi=10.11501/787951 |access-date=2025-01-13 |id={{NDLDC|787951/257|format=NDLJP}} |page=441 |chapter=【太政官第637】宣旨書式中改定 明治4年12月9日  太政官 |quote= |ref=}}</ref>{{Efn|1872年1月18日(明治4年12月9日)の宣旨書式中改定の中の勅任奏任官書式では、その他は総て同年1871年5月18日(明治4年3月29日)に公布の式(判任官の宣旨書式)に同じとしている<ref name="宣旨書式中改定 明治4年12月9日・太政官"/><ref>{{Cite book |和書 |author=内閣官報局 |title=法令全書 |date=1888-10-20 |year=1888 |publisher=内閣官報局 |___location=東京 |volume=明治4年 |language=ja |doi=10.11501/787951 |access-date=2025-01-13 |id={{NDLDC|787951/90|format=NDLJP}} |pages=107-110 |chapter=【太政官第160】宣旨書式ヲ定ム 明治4年3月29日  太政官 |quote= |ref=}}</ref>。}}。
1871年、[[9月24日]](明治4年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]])に官位相当制を廃止して[[官等]]を15等に定めた<ref name="明治4年8月10日官制等級改定">「官制等級改定」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010436500、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第十四巻・官制一・文官職制一(国立公文書館)(第1画像目から第2画像目まで)</ref> {{Efn|name="官等制と官位相当制"}}。
官位相当制を廃止したけれども位階を賜う例は廃止することはなく、その後は任官毎にその官等に従い位階を授けることになる<ref>「単行書・太政官沿革志五」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017226200、単行書・太政官沿革志五(国立公文書館)(第6画像目から第7画像目まで、第10画像目、第11画像目)</ref>。
官位相当制の廃止により位署書で相当・不相当の区別がなくなり行・守も用いないことになる。また、同年11月24日(明治4年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]])の[[s:公用文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミヲ用フ|姓尸不称令]]により公用文書に苗字実名のみを用いることになったことから、[[1872年]]1月18日(明治4年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])改定の勅奏任官任叙式では次の例の様に書して、勅授位は明治の字に重ねて天皇[[御璽]]を押し、奏授位は明治の字の下に太政官印を押す<ref name="太政官沿革志四・勅奏任官の宣旨">「単行書・太政官沿革志四」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017226000、単行書・太政官沿革志四(国立公文書館)(第14画像目から第15画像目まで)</ref><ref name="宣旨書式中改定 明治4年12月9日・太政官">{{Cite book |和書 |author=内閣官報局 |title=法令全書 |date=1888-10-20 |year=1888 |publisher=内閣官報局 |___location=東京 |volume=明治4年 |language=ja |doi=10.11501/787951 |access-date=2025-01-13 |id={{NDLDC|787951/257|format=NDLJP}} |page=441 |chapter=【太政官第637】宣旨書式中改定 明治4年12月9日  太政官 |quote= |ref=}}</ref>{{Efn|1872年1月18日(明治4年12月9日)の宣旨書式中改定の中の勅任奏任官書式では、その他は総て同年1871年5月18日(明治4年3月29日)に公布の式(判任官の宣旨書式)に同じとしている<ref name="宣旨書式中改定 明治4年12月9日・太政官"/><ref>{{Cite book |和書 |author=内閣官報局 |title=法令全書 |date=1888-10-20 |year=1888 |publisher=内閣官報局 |___location=東京 |volume=明治4年 |language=ja |doi=10.11501/787951 |access-date=2025-01-13 |id={{NDLDC|787951/90|format=NDLJP}} |pages=107-110 |chapter=【太政官第160】宣旨書式ヲ定ム 明治4年3月29日  太政官 |quote= |ref=}}</ref>。}}。
* 宣旨書式(明治4年12月9日改定)勅授位奏授位書式の例([[和紙|料紙]]は総て別漉[[鳥の子紙|鳥ノ子]]堅四ツ折)
&nbsp;
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&nbsp;
 
[[1873年]](明治6年)6月19日に改定した勅授位記式で太政大臣の奉を書すことになり次の様に書して、元号の字に重ねて御璽を押した<ref name="太政官沿革志四・勅奏任官の宣旨" /><ref>{{Cite book |和書 |author=内閣官報局 |title=法令全書 |date=1889-05-15 |year=1889 |publisher=内閣官報局 |___location=東京 |volume=明治6年 |language=ja |doi=10.11501/787953 |access-date=2025-01-13 |id={{NDLDC|787953/230|format=NDLJP}} |pages=310-311 |chapter=勅任官記勅授位記出仕官記書式改定 明治6年6月29日  太政官第232号(布) |quote= |ref=}}</ref>。
* 勅授位記式(明治6年6月19日改定)の例
         位苗字名
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明治 年 月 日
 
[[親王]]の叙品については、同年3月20日に太政大臣の宣を書すことになり、明治の字の下に天皇御璽を押した<ref>「単行書・太政官沿革志四」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017226000、単行書・太政官沿革志四(国立公文書館)(第15画像目から第16画像目まで)</ref>。
* 親王叙品宣旨式(明治6年3月20日)の例
         [[内親王]] [[和宮親子内親王|親子]]
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明治六年三月 日
 
有位者の取り扱いについては、1875年(明治8年)3月14日に従四位以上は勅授、従九位以上は奏授、初位は判授と解することになるした<ref name="位階勅奏判授ノ区別及有位者取扱方" >「位階勅奏判授ノ区別及有位者取扱方」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010404400、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第七巻・制度七・爵位(国立公文書館)</ref>。ただし、非役の者については四位以上は勅任に準じ、従九位以上は奏任に準じ、初位は判任に準じて取り扱うことにした<ref name="位階勅奏判授ノ区別及有位者取扱方" />。
 
1874年(明治7年)、4)4月に、奏任官を満四年以上務めた場合は位記返上しなくてもよくなりが免除され<ref>「奏任官奉職満四年以上位記返上ニ及ハス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010404600、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第七巻・制度七・爵位(国立公文書館)</ref>、1875年(明治8年)4月に勅任官は有罪になった場合を除き勤務年月に拘らず位階を保持できることになり<ref>「勅任官有罪ノ外ハ奉職年月ニ拘ラス位階存置」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010404700、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第七巻・制度七・爵位(国立公文書館)</ref>、1876年(明治9年)4月に奏任官も通常解官は勤続年数に拘らず位記返上しなくても良くなるが免除された<ref>「奏任官通常解官ハ奉職年数ニ拘ラス位記存置」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010405000、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第七巻・制度七・爵位(国立公文書館)</ref>。
 
1875年(明治8年)5月18日に[[女官]]も官相当より2等下の位階に叙位することした<ref>「女官モ官相当ヨリ二等下リ叙位」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A24010405200、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第七巻・制度七・爵位(国立公文書館)</ref>。
 
1879年(明治12年)に位階制度の改正を検討しており、同年2月16日に位階制度の改正が決定するまでは旧制により順次宣下することにした<ref>「諸官員位階改正法決定マテ旧制ニ依リ順次宣下」国立公文書館、請求番号:太00606100、件名番号:004、太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年・第二巻・制度・爵位</ref>。
 
=== 叙位条例 ===
1887年(明治20年)5月4日に位階制度再編が行われ、「叙位条例」(明治20年[[勅令]]第10号)が制定された。これにより位階は[[正一位]]から[[従六位#従八位|従八位]]までの16階とされ、対象者は「凡ソ位ハ華族勅奏任官及国家ニ勲功アル者又ハ表彰スヘキ効績アル者ヲ叙ス」とされた(叙位条例1条)。
 
従四位以上は勅授(宮内大臣から伝達)、[[正五位]]以下は奏授(宮内大臣が天皇に奏して叙位)。[[従四位]]以上は[[華族]]制度に基づき、[[従一位]]は[[公爵]]、[[正二位]]は[[侯爵]]、[[従二位]]は伯爵、[[正三位|正]][[従三位]]は[[子爵]]、[[正四位|正]]従四位は[[男爵]]に準じる礼遇を受けた。所管は[[宮内省]]宗秩寮。
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{{Wikisource|宗秩寮審議会規則(明治43年宮内省令第11号)|宗秩寮審議会規則(1910年)}}
{{Wikisource|宗秩寮審議会官制(大正10年皇室令第17号|宗秩寮審議会官制(1921年)}}
[[大日本帝国憲法]]の制定前に、[[フランシス・テイラー・ピゴット]]らにより官吏の[[懲戒制度]]の設置も検討されたが、実現したことはうかがえかった
 
[[皇族]]・[[華族]]・[[爵位]]者については[[1910年]](明治43年)、[[宮内省]]の[[宗秩寮]]審議会が[[懲戒]]することができるとされたが、議事は秘密とされていた。
 
=== 位階令 ===
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{{Wikisource|位階令|位階令(1926年)}}
{{Wikisource|位階令施行細則(大正15年閣令第6号)}}
[[1926年]](大正15年)[[10月21日]]に「[[位階令]]」(大正15年勅令第325号)が制定された。位階令は従来の叙位条例から叙位対象の順序が変更され、「国家ニ勲功アリ又ハ表彰スヘキ功績アル者」、「有爵者及爵ヲ襲クコトヲ得ヘキ相続人」、「在官者及在職者」とされ、栄典制度としての側面より強調することとなった。
 
位階制度は[[栄典]]制度の一つとして[[勲章 (日本)|勲章]]・[[褒章]]とともに維持されたものの、臣民にのみ与えられ、[[皇族]]は叙位されることはなかったが、[[臣籍降下|皇籍を離脱]]した者は叙位の対象となるした。叙勲と異なり、日本国籍を失ったときは位も失い、外国人叙位されることもなかった。これも所管位階は[[宮内省]]宗秩寮であるが所管した
 
位階令によると[[正二位]]以下の授与形態に変更はなかったが、正従一位は特に親授(親授式で[[天皇]]から位記を授与される親授とされた。
 
==== 位階令等の改正(1947年) ====
{{See also|勲章 (日本)}}
[[第二次世界大戦]]終了後の[[1946年]](昭和21年)、生存者に対する叙勲と叙位は一時停止された<ref name="teishi"/>。
 
[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に位階令と位階令施行細則は、[[帝国議会]]最後の[[吉田茂内閣]]の[[内閣官制の廃止等に関する政令]]などにより、「軍法会議」「犯罪即決官庁」「即決の言渡」などの条項削除、「宮内大臣」と「宗秩寮総裁」を「内閣総理大臣」に改める、などと改正された。宮内省と宗秩寮は廃止され、して華族制度の廃止とともに有爵者相続人の叙位も廃止するした
 
死亡者に対する叙位はその後も行われ、内閣の助言と承認により行われる天皇の[[国事行為]]である「栄典」の一つとされ、[[日本国憲法]]の下で従来の位階令を法的根拠とする。死亡者のみを対象とするために故人の功績を称え追悼する意味合いが強く、[[官報]]で公示される。
 
授与の選考基準は功績種別により異なるが、対象者は[[議員]]・[[公務員]]・[[消防団員]]・[[教員]]など長く公的な職にあった者や在職中に死亡した公務員が多い。[[皇族]]、[[王公族|王族および公族]]は適用されない。叙勲の所管は[[内閣府]][[賞勲局]]、叙位の所管は[[内閣府]][[大臣官房]]人事課<ref group="注釈">[[中央省庁再編]]前は、叙勲は[[総理府]]賞勲局、叙位は[[内閣官房]]人事課が所管した。[[内閣人事局]]とは異なる。</ref>であ、それぞれが所管する。
 
[[1952年]](昭和27年)第15回国会に位階の規定のある栄典法案が提出され、叙勲にこの法令を併用して「表彰の方途に潤いを持たせたく考える」(緒方竹虎内閣官房長官)としていたが、同法案は廃案となった。
 
生存者に対する叙勲は1964年(昭和39年)に再開された。
 
==== 現行位階令の諸規定 ====
*位階は、正一位から従八位までの16階(令1条1項)。
*一位は親授、二位以下四位以上は勅授、五位以下は奏授(令1条2項)。具体的には、位記の授与式と記載内容(下記)が異なる。
*叙位の対象者は「国家ニ勲功アリ又ハ表彰スヘキ効績アル者」および「在官者及在職者」(令2条)。戦後、生存者叙位停止され、して故人のみを叙位対象者は故人のみするして運用が行われいるためおり、次の第3条が叙位の原則規定となる<ref name="teishi"/>。なお、生存者叙位停止後であっても、停止前に叙位された者(戦前、職業軍人や官吏であった者など停止前に叙位された者は、生存者叙位停止後もそのまま位階を保有している。
*前条に定める「国家ニ勲功アリ又ハ表彰スヘキ効績アル者」および「在官者及在職者」が死亡した場合には、特旨を以て、その死亡の日に遡って位を追賜することができる(令3条)。現在、叙位は故人のみを対象とし、対象者の死亡時に位を追賜する方法のみが運用されているため、本条が原則規定である。
*「故人ニシテ勲績顕著ナル者」には、特旨を以て、位を贈ることができる(令4条)。本条は、死亡時に位の追賜が行われなかった者に贈位する事例、または、存命中もしくは死亡時に叙された位を進階する事例を想定している。現在は、前条に基づいて、死亡の日の日付で位を追賜する方法のみが運用されており、その後の進階や贈位は行われていない。
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*有位者が、[[死刑]]、[[懲役]]または無期もしくは3年以上の禁錮に処せられたときは、位を失う(令8条1項)。
*有位者が、[[執行猶予|刑の執行を猶予]]されたとき、3年未満の禁錮に処せられたとき、懲戒の裁判または処分により免官または[[免職]]されたときは、情状により、その位を失う(令8条2項)。
*有位者が[[日本国籍]]を喪失したときは、その位を失う(令9条)。なお、叙勲と異なり、叙位の対象者は日本国民のみである。
*有位者が、その品位を保つことができないときは、位の返上を請願することができる(令12条)。
**叙位の対象者は故人のみとする運用が行われているため、令5条から令12条の規定は停止前に叙位された者を除き適用事例は皆無である。
*位階令は、[[皇族]]、[[王公族|王族および公族]]には適用されない(令13条)。これも叙勲と異なる、現行の位階制の特徴である。
;その他の位階に関する規定
*位階令施行細則では、各市町村長は[[国籍]]喪失の届出をした者が有位者であることを知ったときは[[内閣総理大臣]]に報告しなければならない。[[裁判所]]は刑事事件の当事者が有位者であることを知ったとき、内閣総理大臣に報告しなければならないことがある<ref>{{Egov law|215M10000001006|位階令施行細則(大正15年10月21日閣令第六号)}}</ref>(位階令施行細則)
*[[軽犯罪法]]では、位階を詐称した者は、[[拘留]]又は[[科料]]に処すると定める(1条15号)。
;現行の位記
叙位された場合、それを証する位記が交付される。位記のサイズは、従四位以上は縦22.5横30.4[[センチメートル]]で、正五位以下は縦21.3横29.7センチメートルである<ref>{{Cite web|和書|title=叙位・叙勲の説明 |url=https://jokun.com/home2/joi/joijokun/joi_jokun/ |accessdate=2022-03-10 |language=ja}}</ref>。正二位以下は御璽・内閣之印の上に元号年月日が記されるが、従一位以上では御名御璽の横に元号年月日が記される。位記には縦書きで次のような記載がなされる。
* 従一位以上
&#x2003;(位階)氏名