「広島市への原子爆弾投下」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
アメリカ国立公文書館資料、NHKアーカイブス、ブリティッシュパテ資料追加、爆心地や映像について出典追記 タグ: サイズの大幅な増減 |
アジア歴史資料センター資料追加、日本の原爆調査、船舶練習隊について出典補足 |
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[[ファイル:20100722 Hiroshima Genbaku Dome 4461.jpg|thumb|爆心地近くの[[原爆ドーム]](2010年)]]
[[ファイル:Hypocenter-Hiroshima-4.jpg|thumb|広島原爆爆心地の[[島病院]]跡<br>原爆ドームの東側にあった本病院の上空約600メートルで原爆が炸裂した。|代替文=し]]
{{読み仮名|'''広島市への原子爆弾投下'''|ひろしましへのげんしばくだんとうか}}は、[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])末期の1945年(昭和20年)[[8月6日]]<ref name="日本ニュース257">{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300385_00000&chapter=001 |title = 日本ニュース 第257号 |chapter= 原子爆弾 広島市の惨害 |work = NHKアーカイブス | date=1945-09-22| accessdate = 2025-06-08}}(NHKアーカイブスポータル)</ref>、日本時間午前8時15分{{Sfn|S20.8.6広島爆撃資料|p=3}}、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の[[アメリカ合衆国]]が、[[枢軸国]]の[[大日本帝国|日本]]の[[広島市]]に対して[[原子爆弾]]「[[リトルボーイ]]」を実戦で使用した出来事である<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/b88be865d4237949fc937673e362687d2c7d188f 「原爆の日まとめ」核戦争の悲劇を二度と繰り返さないために8月6日広島で平和記念式典が行われ、岸田文雄首相ほかが出席]</ref><ref name="nhk広島原爆">{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001530001_00000|title = 広島原爆の映像 |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2025-06-08}}([[NHKアーカイブスポータル]])</ref>。
[[B-29 (航空機)|B-29]][[戦略爆撃機]]「[[エノラ・ゲイ]]」より投下された「リトルボーイ」は<ref>{{cite web|url= https://www.britishpathe.com/asset/164165/ |title = USA & JAPAN: FIRST PICTURES OF HIROSHIMA AND NAGASAKI ATOMIC BOMBS. (1960) | website = www.britishpathe.com | publisher = REUTERS - SOURCE TO BE VERIFIED |date= 1960 | accessdate = 2025-06-08}}</ref>、実戦で初めて使用された原子爆弾である<ref>{{cite web|url= https://www.britishpathe.com/asset/70843/ |title = NAGASAKI AND HIROSHIMA (1945) | website = www.britishpathe.com | publisher = UNISSUED / UNUSED |date= 1945 | accessdate = 2025-06-08}}</ref>{{Efn2|世界で最初に爆発した原爆は、アメリカ合衆国が1945年7月16日に実施した[[トリニティ実験]]による([[核実験]])。}}。都市に対する[[核攻撃]]としても、史上初である。[[爆心地#ヒロシマ|爆心地]]は、[[島病院]]上空{{Sfn|NARA、id23791|p=263sec|ps=(動画開始4分23-32秒)}}{{Efn2|1945年9月下旬に日本ニュースで「爆心地は[[相生橋]](上空550メートルで炸裂)」と報道されたが<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009181274_00000 |title = 日本ニュース 第257号 |chapter= 原子爆弾 広島市の惨害 |work = NHKアーカイブス | date=1945-09| accessdate = 2025-06-08}}(NHKアーカイブスポータル)</ref>、相生橋は投下目標であった。}}。原爆による放射線、高熱、爆風により、広島市は壊滅した<ref name="nhk、原爆投下後広島">{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001530009_00000 |title = 原爆が投下されたあとの広島市 |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2025-06-08}}(NHKアーカイブスポータル)</ref><ref>{{cite web|url= https://www.britishpathe.com/asset/69263/ |title = ATOM BOMB AFTERMATH (1945 - 1946) | website = www.britishpathe.com | publisher = UNISSUED / UNUSED |date= 1946 | accessdate = 2025-06-08}}</ref>。
当時の人口は推定 原爆投下後の入市被爆者も含め、約56万人が被爆したとされる<ref>『[[中国新聞]]』朝刊2017年8月4日30面</ref>。また、わずか3日後の1945年[[8月9日]]には、[[長崎市]]へも原子爆弾が投下された<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001530002_00000 |title = 長崎原爆の映像 |work = NHKアーカイブス| accessdate = 2025-06-08}}(NHKアーカイブスポータル)</ref>。
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8時過ぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった。[[ラジオ]]による警報の放送もなかった{{Sfn|白井久夫|1992|refname=白井久夫1992要ページ番号a|pp={{要ページ番号|date=2016年12月}}}}。
8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600[[フィート]](9,632メートル)。投下に先立ち、原爆による風圧などの観測用の[[ラジオゾンデ]]を吊るした[[パラシュート|落下傘]]を三つ降下させた{{Sfn|廣島爆撃調査報告|p=3}}。青空を背景にすると目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001240081_00000&seg_number=001 NHK 戦争証言アーカイブ あの日 昭和20年の記憶「原爆で焼かれた広島をさまよう」][[平山郁夫]]さん(画家)</ref>。この時の計測用ラジオゾンデを取り付けた落下傘を原爆と誤認した
日本軍は落下傘で投下されたのは観測機器であり{{Sfn|S20.8.14新型爆弾調査報告|p=1}}、原爆(リトルボーイ)は落下傘なしと見抜いて判断を修正した{{Sfn|廣島爆撃調査報告|p=3}}。だが、その後も「原爆は落下傘に付けられて投下された」という誤った流説が流れた{{Refnest|group="注"|原爆投下の第一報を伝えた新聞の見出しでも「落下傘付き」とあり、新型爆弾(原爆)は一発でなく少数の爆弾の投下による被害と報じられている{{Sfn|1945年8月8日付『[[朝日新聞]]』}}。また戦後発表された原爆を題材とした作品においても原爆に落下傘をつけて投下している描写があり(『[[はだしのゲン]]』など)、多くの人に誤解を招いていた。}}。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。
8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐は[[ノルデン爆撃照準器|ノルデン照準器]]に高度、[[対地速度]]、風向、気温、湿度などの入力をし、投下目標(AP)を[[相生橋]]に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる[[太田川]]が分岐する地点に架けられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。
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[[広島市]]は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の大名[[毛利輝元]]により[[太田川]][[河口]][[三角州]]に[[城下町]]として開かれて以来、[[中国地方]]の中心であり続けた。[[江戸時代]]には[[広島藩|浅野藩]]の城下町として栄え、[[明治維新]]後は[[広島県]]県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。さらに[[広島高等師範学校]]、[[広島女子高等師範学校]]、[[広島文理科大学 (旧制)|広島文理科大学]]、[[広島工業専門学校]]、[[広島高等学校 (旧制)|広島高等学校]]を有する[[学都]]でもあった。
広島には[[軍都]]としての側面もあった{{Sfn|大東亜戦争全史草案、原爆・ソ連参戦|p=2}}。[[日清戦争]]時には前線に近い広島に[[大本営]]([[広島大本営]])が置かれ、また臨時[[帝国議会]]([[第7回帝国議会]])も広島で開かれるなど、一時的に[[首都]]機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。[[広島城]]内には[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[第5師団 (日本軍)|第五師団]]司令部、広島駅西に[[第2総軍 (日本軍)|第二総軍]]司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200メートルに爆心地がある。また[[広島港|宇品港]]に置かれた陸軍[[船舶司令部]]は[[兵站]]上の重要な拠点であった。
被爆当時の市中[[人口]]は約35万人と推定されている。内訳は、(1) 居住一般市民約29万人、(2) 軍関係約4万人、および (3) 市外から所用のため市内に入った者約2万人である。
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=== 被爆救護活動 ===
広島市の行政機関(市役所・県庁他)は爆心から1,500メートル以内であり、家屋は全壊全焼、当時の広島市長だった[[粟屋仙吉]]、[[地方総監府|中国地方総監]]の[[大塚惟精]]は共に被爆死し、職員も多くが死傷、組織的な能力を失った。
市内の爆心地から4キロメートルにあった[[宇品港]]の陸軍[[船舶司令部]]隊は被害が軽かったため、この部隊(通称「暁部隊」)が救護活動の中心となった<ref>[https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?bombing=2017-39 伝えるヒロシマ 被爆70年<13>直後の船防作命 救援 原爆と知らぬまま] 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター(2015年2月10日)2020年11月17日閲覧</ref>。当日8時50分には最初の命令(消火・救難・護送など)が発せられている。
陸軍船舶練習部
救護所の中でも爆心地から500メートルの近さに在って尚RC構造の外郭を保ち倒壊を免れた[[広島市立袋町小学校]]西校舎は、
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=== 大本営発表 ===
6日8時30分頃、[[呉鎮守府]]が[[軍令部]](大本営海軍部)に広島が空襲を受けて壊滅した旨を報告した。続いて10時頃には第2総軍が船舶司令部を通じて陸軍参謀本部(大本営陸軍部)に報告した。加えて、昼過ぎには同盟通信からも特殊爆弾により広島が全滅したとの報を受けた大本営は、政府首脳にも情報を伝え、午後早くには「広島に原子爆弾が投下された可能性がある」との結論が出された。夕刻には[[蓮沼蕃]][[侍従武官]]長が[[昭和天皇]]に「広島市が全滅」と上奏した。大本営は翌7日15時30分に報道発表を出した。
<blockquote class=wikitable>
[[大本営発表]](昭和二十年八月七日十五時三十分)
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</blockquote>
呉鎮守府司令部、同盟通信川越分室(現・[[川越市立博物館]])もこの声明を傍受した。広島市で救援活動をおこなっていた陸軍船舶練習部の[[戦闘詳報]]でも、トルーマン大統領の声明(英語)と、[[ハワイ諸島]]から発信されていた日本向け[[プロパガンダ]]放送([[日本語]])の内容を記録している{{Sfn|S20.8.6広島爆撃資料|pp=13-15}}。
また現地時間の8月6日、[[ワシントンD.C.]]の[[ホワイトハウス]]は声明を発表した<ref>[https://www.pbs.org/wgbh/americanexperience/features/truman-hiroshima/ Announcing the Bombing of Hiroshima] AMERICAN EXPERIENCE (PBS)</ref><ref>[https://www.trumanlibrary.gov/library/public-papers/93/statement-president-announcing-use-bomb-hiroshima Statement by the President Announcing the Use of the A-Bomb at Hiroshima] The Harry S. Truman Library and Museum</ref><ref>{{cite book|title=Restricted Data The History of Nuclear Secrecy in the United States|author=Alex Wellerstein|publisher=University of Chicago Press|year=2021|isbn=978-0226020389}}</ref>。
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(広島)六日七時五十分ごろB29二機は四国東南端より北進、香川県西部を経て広島市に侵入、焼夷弾、爆弾をもつて同市附近を攻撃の後反転、八時三十分ごろ同一経路を土佐湾南方に脱去した、このため広島市附近に若干の損害を蒙つた模様である、敵米はわが中小都市、重要工場などの爆撃は夜間を選び、専ら自軍の損害をさける隠密行動をとつていたが昼間、偵察をこととしていた敵がわが方が油断したと思つたか、白昼僅か二機を持つて爆弾、焼夷弾を混投したことは今後十分警戒を要する
</blockquote>
8月7日の大本営発表を受け、8月8日には各紙とも広島が「新型爆弾」で攻撃されたことを1面トップで報じた<ref>『朝日新聞』(東京版)1945年8月8日付1面など</ref>。このように、原子爆弾は当初「新型爆弾」と呼ばれていた<ref>{{アジア歴史資料センター|C14020049400|新型爆弾に対する民防空指導要領覚書 20年8月14日(防衛省防衛研究所)有末調査団の広島特殊爆弾調査史料 昭和20.8}}</ref>。
=== 米軍機によるリーフレット撒布 ===
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=== 調査 8月6日 - 10日 ===
[[ファイル:Hirosima-nissekibyuin PICT0058.JPG|250px|right|thumb|レントゲンフィルムの感光のことも書かれている[[広島赤十字・原爆病院]]の原爆被災の解説]]
火勢がやや収まってきた6日17時30分、[[呉鎮守府]]の[[呉海軍工廠]]調査班が入市調査を開始し、翌7日までには熱線や爆風による被害および正確な爆心地を解析
9日、陸軍省広島災害調査班が[[日本赤十字]]広島赤十字病院の地下室でレントゲンフィルムが全て感光していることを確認、直ちに陸軍軍医学校に放射線専門家の派遣を要請している。
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=== 黒い雨・二次被爆 ===
原爆の炸裂の高熱により、巨大な[[キノコ雲]](原子雲)が生じた{{Sfn|S20.8.6広島爆撃資料|p=4}}。これは爆発による高熱で発生した上昇気流によって巻き上げられた地上の粉塵が上空で拡散したため、特徴的な[[キノコ]]形になったものとされる。キノコ雲の到達高度は従来約8,000メートルだとされてきたが、米軍機が撮影した写真を基に測定したところ、実に2倍の約16,000メートルに達していたことが判明した<ref>{{Cite news |title=きのこ雲 高さ16キロか 広島市立大調査 市など推定の2倍 |newspaper=『中国新聞』 |date=2010-02-27 |url=https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=2318 |agency=中国新聞社 |accessdate=2016-12-31}}</ref>。
低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な[[誘導放射能]]を有する物質をもたらした。熱気は上空で冷やされ[[雨]]となった。この雨は大量の粉塵・煙を含んでおり、粘り気のある真っ黒な大粒の雨で、「[[黒い雨]]」と呼ばれる。[[放射性降下物]]を含む黒い雨は浴びた人間を[[被曝]]させ、土壌や建築物および河川などが放射性物質で汚染された。
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=== 終戦まで ===
*8月6日 - 原爆投下後、トルーマン大統領がホワイトハウスを通じ、原爆の開発経緯と投下について発表{{Sfn|トルーマン声明|p=1}}。
*8月8日 - [[大本営]]が調査団派遣。[[原子物理学]]専門家として[[仁科芳雄#日米戦争と原爆開発「ニ号研究」|仁科芳雄]]同行<ref>{{Cite journal|和書 |author=松村高夫 |title=広島・長崎の原子爆弾に関する初期調査 |journal=三田学会雑誌 |issn=0026-6760 |publisher=慶應義塾経済学会 |year=1996 |month=apr |volume=89 |issue=1 |pages=108-126 |naid=120005435663 |url=https://doi.org/10.14991/001.19960401-0108 |doi=10.14991/001.19960401-0108}}</ref>。
*8月9日 - 未明に[[ソビエト連邦]]が[[日ソ中立条約]]を破棄し、日本へ[[ソ連対日宣戦布告|宣戦布告]]する前に[[満州国]]へ侵略を開始する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12120362200|昭和20年8月9日 金曜 機密戦争日誌(防衛省防衛研究所)中央-戦争指導重要国策文書-1229}}</ref>。11時2分、[[長崎市への原子爆弾投下|長崎市に原爆が投下され]]、数万人が死亡した。これは広島に投下されたウラニウム型とは異なる[[プルトニウム]]型([[ファットマン]])であった。またこの日、[[広島電鉄]]市内線の一部区間が運行を再開している。
*8月10日 - 大阪から来たカメラマン[[宮武甫]]が被爆の惨状を撮影する。
*8月14日 - 「新型爆彈ニヨル廣島市被害状況調査報告」作成{{Sfn|S20.8.14新型爆弾広島被害調査報告|p=1}}。[[御前会議]]において[[ポツダム宣言]]受諾が決定され、日本政府はスイス政府を仲介して[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に受諾を伝える。
*8月15日 - 終戦の詔勅([[玉音放送]])<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120716300|昭和20年8月経過概要(9月2日降伏調印式迄)第2次世界大戦略暦(乙)第3号 昭和19.4~20.8(防衛省防衛研究所)}}</ref>。国民への終戦の告知{{Sfn|第2、停戦|pp=9-10}}。放送の中で原爆について取り上げ、非人道的行為として非難している<ref group = "注">「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル」</ref>。
*8月24日 - [[仲みどり]]死去。医学上認定された史上初の[[原爆症]]患者。
*8月27日 - 日系人ジャーナリストの[[レスリー・ナカシマ]]が8月22日来広、8月27日付[[UPI通信社|UP通信]]東京発として世界で初めて被爆の惨状を外電報道(「[[ウィルフレッド・バーチェット]]」も参照)。
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* {{Cite book |和書 |editor=山極晃、立花誠逸 |others = 岡田良之助(訳) |year=1993 |title=資料 マンハッタン計画 |publisher=[[大月書店]] |isbn=978-4272520268 |ref={{SfnRef|資料マンハッタン計画|1993}} }}
*{{Cite book|和書|author=NHK広島「核平和」プロジェクト|date=1999年7月|title=原爆投下・10秒の衝撃|publisher=[[日本放送出版協会]]|series=NHKスペシャルセレクション|isbn=978-4140804469|ref={{SfnRef|NHK広島|1999}}}}
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071250700|title=「終戦前後の経緯と其指導」、大本営陸軍関係統帥概史 昭和15年7月~20年1月(防衛省防衛研究所)中央-全般統帥-55|ref={{SfnRef|終戦前後の経緯と其指導}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13071343300|title=「第7章 原子爆弾とソ連の参戦」、大東亜戦争全史草案 第10編(防衛省防衛研究所)中央-全般慨史-19|ref={{SfnRef|大東亜戦争全史草案、原爆・ソ連参戦}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14020048900|title=「トルーマン大統領は6日午後1時白亜館を通じ次の声明を発表した」、有末調査団の広島特殊爆弾調査史料 昭和20.8(防衛省防衛研究所)中央-全般その他165|ref={{SfnRef|トルーマン声明}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14020049000|title=「廣調班速報第4号」、有末調査団の広島特殊爆弾調査史料 昭和20.8(防衛省防衛研究所)中央-全般その他165|ref={{SfnRef|廣調班速報第4号}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14020049100|title=「8月6日早朝に於ける廣島爆撃に関する資料 昭和20年8月8日 陸軍船舶練習部」、有末調査団の広島特殊爆弾調査史料 昭和20.8(防衛省防衛研究所)中央-全般その他165|ref={{SfnRef|S20.8.6広島爆撃資料}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14020049200|title=「廣島に於ける馬匹被害状況 20年8月1日」、有末調査団の広島特殊爆弾調査史料 昭和20.8(防衛省防衛研究所)中央-全般その他165|ref={{SfnRef|広島馬被害}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14020049300|title=「特殊爆弾一般に発表に関する件」、有末調査団の広島特殊爆弾調査史料 昭和20.8(防衛省防衛研究所)中央-全般その他165|ref={{SfnRef|特殊爆弾一般発表}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14020049500|title=「新型爆弾による広島市被害状況調査報告 20年8月14日」、有末調査団の広島特殊爆弾調査史料 昭和20.8(防衛省防衛研究所)中央-全般その他165|ref={{SfnRef|S20.8.14新型爆弾調査報告}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14020049900|title=「廣島爆撃調査報告 昭和20年8月10日」、有末調査団の広島特殊爆弾調査史料 昭和20.8(防衛省防衛研究所)中央-全般その他165|ref={{SfnRef|廣島爆撃調査報告}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14020184700|title=「政務官会議史料 8月8・9日」、政務官会議史料 昭和20.8.8~8.14(防衛省防衛研究所)中央-全般憲政史料-149|ref={{SfnRef|政務官会議史料、8月8・9日}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C15010227000|title=「昭和24年12月22日 連絡課 原子爆弾による損害についての件」、原子爆弾の損害調査資料 昭和24年11月2日(防衛省防衛研究所)中央-終戦処理-90|ref={{SfnRef|S24.12.12連絡課、原子爆弾損害件}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C15010265900|title=「昭和20年9月7日 軍務課 広島原子爆弾調査の為出張の件」、昭和20年9月 終戦機関連絡報綴(防衛省防衛研究所)中央-終戦処理-219|ref={{SfnRef|昭和20年9月7日、軍務課広島原爆調査出張件}}}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120698400|title=「第2、停戦」、終戦前の作戦概況並に停戦(防衛省防衛研究所)③大東亜戦争-全般-93|ref={{SfnRef|第2、停戦}}}}
* [https://filmisadocument.jp/ 国立映画アーカイブ歴史映像ポータル]
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*[[日本への原子爆弾投下]]
**[[長崎市への原子爆弾投下]]
*[[広島・長崎における原子爆弾の影響]]
*[[東京大空襲]]
*[[ドレスデン爆撃]]
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