「南海電気鉄道の車両形式」の版間の差分
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* 南海線系統
**電1形
*:[[1907年]](明治40年)に、[[難波駅 (南海)|難波]] - 浜寺(現・[[浜寺公園駅|浜寺公園]])及び[[南海天王寺支線|天王寺支線]]の部分電化に合わせて[[川崎造船所]]で製造された南海初の電車で11両(1 - 11)あった。その後[[日本車輌製造|日本車輌]]などでも増備が進められ、総数24両に達した。主電動機は[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]社のWH-101H形で、出力は50HP×4(149kw)。自重21.265t、車長50フィート6インチ(15m)級、定員90人の車体。レイルロードルーフ・ダブルポール・ねじ式[[連結器]]を備えた3扉の木造ボギー車で、前面は緩くカーブした3枚窓(阪急の[[箕面有馬電気軌道1形電車|1形]]などに近似している)、連結器のすぐ上にヘッドライト1灯を設置していた。登場時の塗装は、その当時発行されていた絵葉書によると車体が赤茶色、屋根が白灰色だった。連結器は備えていたが直接制御式で総括制御ができない(連結時は各車両に運転士が乗り込み電話で連絡して協調運転をしていた)<ref name="南海">[[#福原2007|(福原2007)p.48-49「1-7 ボギー車の連結運転と阪和間の運転(南海電1~3形)」]]</ref>ため、電3形・電4形といった大型車が登場すると使いにくくなり、11 - 24は電装を解除して電4形に組み込む付随車(制御車)に改造された。改造後はほぼそのまま付随車化した電付4形(221 - 226)→クハ716形(716 - 721)、荷物室・特等室つきの電付3形(208 - 210)→クハユニ505形(508 - 510)、郵便室・荷物室つきの電付2形(205 - 207)→クハユニ505形(505 - 507)の3形式に分かれた。電1・2形は[[1931年]](昭和6年)に19両が鋼体化改造名義で台車と主電動機を流用して[[南海1251形電車|モハ121形]]に改造され(さらにうち2両及び、同形の車体を持つ制御車クハ715が高野線大運転用のモハ1321形に再改造されている)、電付2形も同様の改造でクハユニ505形→クハユニ1851形となった。電1形〜電3形には、[[南海1501形電車|1501形]]製造に伴う供出車として[[淡路
**電2形
*:[[1911年]](明治44年)に製造された電1形の増備車で12両(101 - 112)あった。基本仕様は電1形とほぼ同じだが、総括制御が可能になっている他、運転台の前後寸法確保<ref>当時のボギー電車の運転台は独立しておらず両端の出入り部に運転機器をそのまま置いていた。</ref>のため、前頭部が半円形になり、このため正面のカーブが強くなったことで前面窓が3枚から5枚に変更されているほか車長も52フィート6インチ(16m)級に伸びている<ref name="南海"/>。大正期の南海電車の標準タイプとして「丸電」の愛称で親しまれ、主に難波 - 和歌山市間の直通列車に使用された。その後は制御用バッテリーが不調であったため、電1形の一部と同様に制御車化され電付8形→クハ704形(704 - 715)となった。
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