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1927年(昭和2年)に至っては[[松竹]]、[[帝国キネマ]]、[[マキノ・プロダクション]]の三社が製作に当たっている<ref>「忠臣蔵」三社競作など映画界は花盛り『中外商業新報』昭和2年1月10日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p18 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>(ただしマキノ・プロによる『[[忠魂義烈 実録忠臣蔵]]』は翌年に不完全な形で公開)。
====金融恐慌から満州事変以降====
[[1932年]](昭和7年)に発生した[[五・一五事件]]の首謀者達は自分たちの行動を[[桜田門外の変]]に見立てていたが、[[三上卓]]は朝鮮との関係が強く<ref>義兄・田口末雄が朝鮮銀行、父・三上新が北鮮日日新聞社長。小山俊樹『五・一五事件――海軍青年将校たちの「昭和維新」』中央公論新社</ref>[[古賀清志]]は[[泉岳寺]]前の小屋に集結する
[[左翼]]の間で忠臣蔵が流行し、共産党が支援する農民運動に加わった[[田村栄太郎]]が、[[1934年]](昭和9年)に『忠臣蔵物語』を刊行した。マルクス主義の観点で[[羽仁五郎]]が論文『大石良雄の場合』を掲げ、反ファシズムの論客として知られる[[長谷川如是閑]]は『唯物史観赤穂義士』で討ち入りを義士の貧窮と就職問題として論じた<ref>[[#松島(1964)|松島(1964)]] p223</ref>。
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