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新しいページ: 「'''于琮'''(う そう、生年不詳 - 881年)は、唐代官僚政治家は礼用{{Sfn|新唐書|1975|p=4009}}。本貫京兆府高陵県。 == 経歴 == 于敖の子として生まれた。進士に及第し、左拾遺に任じられた{{Sfn|旧唐書|1975|p=4010}}{{Sfn|新唐書|1975|p=4009}}。大中12年(858年)、秘書省校書郎に任じられた。広徳公主を…」
 
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'''于 琮'''(う そう、生年不詳 - [[881年]])は、[[唐|唐代]]の[[官僚]]・[[政治家]]。[[字]]は礼用{{Sfn|新唐書|1975|p=4009}}。[[本貫]]は[[京兆府]][[高陵県]]。
 
== 経歴 ==
[[于敖]]の子として生まれた。[[進士]]に及第し、左拾遺に任じられた{{Sfn|旧唐書|1975|p=4010}}{{Sfn|新唐書|1975|p=4009}}。[[大中]]12年([[858年]])、秘書省校書郎に任じられた。[[宣宗 (唐)|宣宗]]の娘の広徳公主を妻に迎え、銀青光禄大夫の位を加えられ、守右拾遺左補闕となり、駙馬都尉に任じられた{{Sfn|旧唐書|1975|p=642}}。[[咸通]]年間、水部郎中から[[翰林学士]]となり、中書舎人に転じた。[[兵部]][[侍郎]]となり、判戸部をつとめた{{Sfn|新唐書|1975|p=4010}}。咸通8年([[867年]])、[[同中書門下平章事]](宰相)となった{{Sfn|新唐書|1975|p=260}}。咸通13年([[872年]])、[[韋保衡]]に誣告されて、[[検校 (中国)|検校]][[司空]]・[[襄州]][[刺史]]として出され、山南東道節度観察処置等使をつとめた{{Sfn|旧唐書|1975|p=679}}。三度左遷されて[[韶州]]刺史となった{{Sfn|新唐書|1975|p=4010}}。のちに[[岳州]]刺史に転じた。咸通15年([[874年]])9月、太子少傅となった。11月、検校尚書左僕射となり、襄州刺史・[[御史大夫]]を兼ね、山南東道節度観察等使をつとめた{{Sfn|旧唐書|1975|p=690}}。
 
[[広明 (唐)|広明]]元年12月([[881年]]1月)、[[黄巣]]の反乱軍が[[長安]]を占領すると、[[僖宗]]は[[成都府]]に避難したが、于琮は病のため従うことができなかった。黄巣が[[皇帝]]を僭称すると、于琮を宰相として起用しようとした。于琮は病を理由に固辞し、殺害された{{Sfn|旧唐書|1975|p=4010}}{{Sfn|新唐書|1975|p=4010}}。
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{{DEFAULTSORT:う そう}}
[[Category:唐代の人物]]
[[Category:唐代の進士]]
[[Category:河南于氏|そう]]
[[Category:881年没]]