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Kantoku101 (会話 | 投稿記録)
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== 条約締結までの経過 ==
=== 国交交渉 ===
国交交渉再開の気運が高まり、[[1875年]]に交渉が行われた。日本側は[[外務省]]理事官[[森山茂]]と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉を始めたが、書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じて交渉は決裂、森山は砲艦外交を行うことを日本政府に上申した<ref>{{refnest|group="注釈"|'''砲艦外交の要請''':「即今我軍艦一、二隻を発遣し、対州と彼国との間に往還隠見して、海路を測量し、彼をして我意の所在を測り得ざらしめ、・・・又結交上に於ても、幾分の権利を進むるを得べきは、必然の勢なり」(<ref>下記田保橋潔本より、原載『朝鮮交際始末』)</ref>}}が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻([[雲揚 (砲艦)|雲揚]]および[[第二丁卯]])が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開するに留まった。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
 
=== 江華島事件 ===
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'''第一款''' 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。</div>
::この条文は、朝鮮が清朝の藩属国であること考慮して特に日本が挿入した一文である。冊封体制の下での「属国」・「属邦」とは、近代あるいは現代の国際法におけるそれとは表記を同じくしながら、性格を異にする存在とされる。近代国際法の立場から見て、当時の朝鮮をどのように位置づけるかは種々の意見があったが<ref group="注釈">'''「自主」の解釈1(当時の見方)''':たとえば清朝の外交機関[[総理衙門]]は「朝鮮は中国の藩服に隷すと雖も、その本処の一切の政教・禁令は、向〔さき〕に該国に由り自ら専主を行う。中国従〔かつ〕て與聞せず」(朝鮮は中国の藩属国とはいえ、朝鮮の国政・法律は自らで行い、中国自体はそれに対しこれまで関与してこなかった。〔〕内、加筆者)と述べている。また当時駐華アメリカ公使だったロウは、朝鮮は清朝に貢物を送っているけれども、その性格は中国との交易の見返りとしての性格が強い、清朝は朝鮮に対していかなる形の支配や干渉する権限はないようだ、とアメリカ本国に報告している。</ref>、日本はこの一文を入れることで、解釈の一元化を試み朝鮮を近代国際法に於ける[[独立国]]に措定しようとした。「自主の国」=独立国という解釈であった。つまりそう措定することで清朝が朝鮮に介入する余地を無くそうとしたのである。しかし朝鮮側はそのようには解釈していなかった。冊封体制下では「属国」でありながら、「自主」であることは矛盾しない<ref group="注釈">'''「自主」の解釈2(現在の研究者の見解)''':日本側が「独立之邦」ではなく「自主之邦」ということばを用いたことについて、研究者の間でも意見が分かれている。わざわざ両義的な用語を用いることで朝鮮側が条約締結に応じやすくしようとしたとする説(高橋秀直)と、日本側は用語の両義性を認識していなかったという説(岡本隆司)がある。</ref>。というより属国か独立国か、という二項対立的な枠組みそのものが近代の所産である。国王が臣下の礼をとっても、朝鮮の国政全般に清朝の影響が及ぶわけではなかった。たとえば清は日朝間の外交関係すらよく把握していなかったのである。清・朝関係は、近代的国際法から見ると極めて曖昧な属人主義的関係であった。この条項に対する両国の思惑の違いは、この後も継続し、最終的な決着を見たのは[[下関条約]]の時である。その条約の第一条がほぼ同様の一文となっているのは、そのためである<ref group="注釈">'''下関条約第一条''':「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すへき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すへし」</ref>。
'''第二款''' 日朝両国が相互にその首都に公使を駐在させること。
::日本側原案では、公使は常駐であったが、朝鮮側の要求で「随時」とし、必要がある場合に限り派遣することとした。
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== 比較の視点-日本の安政五ヶ国条約との相違点- ==
日朝修好条規の締結は、それ以外の諸国の人々の関心も引いた。たとえば駐日イギリス公使[[ハリー・パークス]]は日朝修好条規が[[日英通商条約]]と類似しているとの感想を漏らしている。日本が最初に締結した[[日米和親条約]]や[[日米修好通商条約]]はその後に結ばれた西欧列強と締結した諸条約のモデルとなっている。日朝修好条規は日米間の条約を研究して結ばれたものであるから、パークスが感じるように日朝修好条規と日英間の条約の性格が似ているのは当然といえる。強いて類別すれば、条規そのものは日米和親条約にあたり、付録及び貿易規則・公文は日米修好通商条約に該当する<ref group="注釈">'''寺島宗則の条約観''':寺島宗則外務卿はイギリス書記官プランケットに対し、日朝修好条規は[[下田]]においてペリーと締結した最初の条約に似ている、と言明している。</ref>。
 
しかし同様の性格を有しながら、いくつか相違点もある。朝鮮を「自主の国」とわざわざ言明している点は、この条約の特殊な点である。西欧列強の対日条約のいずれにも、これに類似する項目は無い<ref group="注釈">'''宗属関係切断の試み''':ただフランスとベトナムとの間で[[1874年]]締結された条約では「共和政府大統領、今より後、安南王を王と待し、且諸外国に対し安南独立なるへきを証」すると記し、清朝のベトナムに対する宗主権を否定している。</ref>。また最恵国待遇がないことも特徴の一つである。駐日イギリス公使パークスは、日本の朝鮮への要求が日本に対する欧米側の要求よりも上まわっていることについて、非常に注目していた<ref group="注釈">'''パークスの条約観''':パークスは、欧米諸国と日本の間の条約における治外法権の条項について、日本側は苦情を述べているのに、朝鮮における日本人についての領事裁判権をこの日朝条約に明記したことは特筆に値すると本国に書き送っている。</ref>。以下に主要な違いを列挙する。
 
*朝鮮側の雇用が前提とはいえ、日本の商船が開港地以外での沿岸貿易が許される余地があること。これは当時日本自身が欧米列強から強く要求されていたものであった。
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日朝修好条規締結後、多くの日本人が朝鮮開港地を訪れた。たとえば日本列島に近接する半島南東部の釜山では開港当時居留人口は数百人程度であったが、[[1882年]]には2000名弱の日本人が在留。主に[[大阪]]や[[九州]]、[[対馬]]の商人が多かったという。貿易額も比例して大きくなり、やがて中朝貿易と比較して日朝貿易の比重がより大きなものになっていった。しかしそれに伴い、多くの問題が発生することになる。
 
まず日本の国内価格よりも非常に廉価である米穀が朝鮮から大量に輸出されるようになり、輸出差益を期待した官や豪商等による米の買占めもあって朝鮮国内において深刻な米価騰貴をもたらした。また当初は貿易額の右肩上がりを支えていた無関税貿易であったが、次第に著しい貿易不均衡の問題が表出するようになってゆく。遅まきながら関税設置の必要性を悟った朝鮮政府は、条約を無視して一方的に釜山の朝鮮人商人に税を課しはじめたが、軍艦派遣を含む日本側の厳重な抗議によってこの企みは頓挫した。その後幾度か関税についての使節を日本に派遣したが、交渉はいずれも成功しなかった<ref>{{refnest|group="注釈"|日本側は条約締結当初から日本が欧米諸国と取り決めた税率水準(一律5%であるが、対朝鮮においてはある程度融通を利かせて品目別に課税することも想定していた)程度であれば許容するつもりであったが、朝鮮側は品目別課税(最高35%)を主張して譲らなかった。(<ref>国立公文書館『朝鮮国信使税則該判概略書ノ件』P14~「海関税則草案」</ref>。}}。その後、税率交渉のため日本から弁理公使[[花房義質]]が漢城へと派遣されたが、[[壬午事変]]の発生によって交渉は中断を余儀なくされ、最終的な決着は[[1883年]](明治16年)7月に締結された[[日朝通商章程]]の成立を待たなければならなかった。この章程の規定により、日朝貿易は無関税制から協定関税率制へと移行することになった。
 
上記のような経済問題は、領事裁判権問題とも密接な関わりがあった。[[大倉喜八郎]]や[[福田増兵衛]]といった政商、[[第一銀行]]といった大資本が朝鮮貿易に参入するようになると、対馬商人たちは経済的に脇に追いやられるようになり、本来貿易が許されないはずの開港地の外縁へと暴力的に進出していくようになる。そのため朝鮮人ともめ事を起こすことになっていくが、当然、対馬商人たちは日本側が引き取り裁判を行った。このような日本側の姿勢は「'''てんびん棒帝国主義'''」と評された。
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* 条約締結以後、清は建国以来の冊封国朝鮮を維持しようと、朝鮮に積極的に関与するようになる。朝鮮を冊封体制から近代国際法的な属国へと位置づけし直そうとし始める。同じく日本も朝鮮を影響下に置こうと画策し始めていたため、日本と清の対立が深まり、[[日清戦争]]の遠因となった。
 
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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