「後三条天皇」の版間の差分
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後三条は即位すると、反・摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子の[[藤原能長]]を重用した。能長は皇太子貞仁親王の伯父として東宮大夫に任じられ、さらに[[延久]]元年([[1069年]])には能長の娘[[藤原道子 (女御)|道子]]が東宮妃となっている{{sfn|樋口|2021|p=57}}。また、[[大江匡房]]や[[藤原実政]]等の中級[[貴族]]などを登用し、積極的に親政を行った。また、[[源隆国]]のように、東宮時代の天皇を頼通に気兼ねして蔑ろにしていた者に対しても、隆国の息子の[[源俊明|俊明]]を登用する等、決して報復的態度を取らないように公正な態度を示した。
ただし近年の研究では後三条天皇自身も御堂流中心の環境で育ち、御堂流を疎んじていなかったとされる。教通は後三条天皇の治世を通じて関白を務めており、摂関家に代わる強力な外戚もいなかった。また[[村上源氏]]の[[源師房]]は後三条の東宮権大夫を務めており、後三条朝で右大臣となったことも摂関家圧迫の一つであるという見方もあった<ref>{{Cite Kotobank|word=久我家|encyclopedia=改訂新版世界大百科事典|author=今江広道|accessdate=2025-01-29}}</ref>。しかし師房は頼通の養子にして[[藤原尊子|妹]]婿であり、道長の後援で栄達した人物であることから摂関家のミウチと考えられていた<ref>{{Cite journal|和書|title = 御堂流摂関家における源師房の位置づけ|url = https://cir.nii.ac.jp/crid/1050564287530910720|publisher = 京都女子大学|journal = 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編|volume = 007|naid = 40016209151|issn = 13496018|author = 木本久子|authorlink = 木本久子|year = 2008}}</ref>。こうした中、むしろ重要なのは、後三条天皇自身とその次の皇位継承者が誰と関係を結ぶかということである{{sfn|樋口|2021|p=57}}。
延久3年(1071年)3月9日、師実の養女[[藤原賢子|賢子]]が貞仁親王の妃として迎えられた。賢子の実父は師房の子[[源顕房]]であり、御堂流のミウチであった。これにより、頼通流は後三条や貞仁と外戚関係を結ぶことはできなかったが、将来の天皇の外祖父となる機会を得た。実際に、貞仁即位後の[[承保]]元年([[1074年]])、賢子は皇子・[[敦文親王|敦文]]を出産しており、師実は天皇の外祖父への出発点を迎えることに成功している{{sfn|樋口|2021|p=58-60}}。
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