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== 歴史 ==
{{For2|年表形式の記述|#年表}}
ウォークマンの登場によって「音楽を携帯し気軽に楽しむ」という新しい文化が創造された。また小型化・軽量化・薄型化を限りなく追求したのもウォークマンの歴史であった。
 
なお開発の経緯に関してはソニーの歴史を記した創立50周年記念誌『源流』(1996年8月発行)や『源流』を要約したウェブページ「Sony History」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/ |title=Sony History |publisher=ソニー |accessdate=2023-07-24}}</ref>の第2部第6章「理屈をこねる前にやってみよう <ウォークマン>」{{R|wm}}、『ソニー自叙伝』{{Sfn|ソニー広報|1998}}で語られているが、ウォークマン開発のキーパーソンである[[井深大]]{{Refnest|group="†"|創業者で当時名誉会長}}、[[盛田昭夫]]{{Refnest|group="†"|創業者で当時会長}}、[[黒木靖夫]]{{Refnest|group="†"|当時デザイン統括を行うPPセンター長{{Sfn|長谷部|2019|p=22}}で、のちのソニー取締役}}、大曽根幸三{{Refnest|group="†"|当時テープレコーダー事業部長{{Sfn|長谷部|2019|p=26}}で、のちのソニー副社長、[[アイワ]]の会長<ref name=Diamond_20150106>{{Cite web|和書|title=言葉までイノベートした盛田”マジック” 連載 通算第48回|author=森健二|publisher=[[ダイヤモンド社|ダイヤモンドオンライン]]|date=2015-01-06 |url=http://diamond.jp/articles/print/63617|accessdate=2016-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161212113705/http://diamond.jp/articles/print/63617|archivedate=2016-12-12}}</ref>}}、高篠静雄{{Refnest|group="†"|当時メカ部分の開発担当者で「プレスマン」の開発にも関わった{{Sfn|長谷部|2019|p=28}}、のちの執行役副社長<ref name=Sony_20030424>{{Cite press release |和書 |url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press_Archive/200304/03-018/ |title=役員人事 |publisher=ソニー |date=2003-04-24 |accessdate=2023-07-24}}</ref>}}による著書やインタビュー記事を比較研究した長谷部弘道{{Refnest|group="†"|杏林大学 総合政策学部 准教授(2022年時点)<ref>{{Cite web|和書|url=https://research-er.jp/researchers/view/755898 |title=【研究者データ】長谷部 弘道 |website=日本の研究.com |publisher=バイオインパクト |accessdate=2023-07-25}}</ref>}}によると、各人が述懐した内容は『源流』や『ソニー自叙伝』で記述されたウォークマン開発史{{Sfn|長谷部|2019|p=17}}とは若干異なることが明らかとなっている{{Sfn|長谷部|2019|pp=32-34}}。
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ウォークマン登場前の1970年代当時、ステレオ型のテープレコーダーが家庭や自動車内で親しまれていたが、持ち運べるタイプはまだ内蔵スピーカー型やイヤホンを使用するモノラル型のものに限られていた{{Sfn|ソニー広報|1998|p=272}}。1978年にソニーは肩かけ型の録音機である[[デンスケ (録音機)|デンスケ]]シリーズとして小型ステレオ録音機の「TC-D5」を発売、生録{{Refnest|group="†"|直接現場の音や状況を録音・録画すること<ref>{{Cite kotobank|word=生録|encyclopedia=日本国語大辞典|access-date=2023-07-26}}</ref>。}}愛好者に人気となったが、重量があることから携帯用とは呼び難かった{{Sfn|ソニー広報|1998|pp=272-273}}。井深も「TC-D5」を愛用しており、海外出張の際に持参して飛行機内でステレオ音楽を楽しんでいたが、「重くてかなわない」と嘆いていた{{Sfn|ソニー広報|1998|p=273}}。
 
ある日井深は[[大賀典雄]]{{Refnest|group="†"|当時ソニー副社長}}に「プレスマン(TCM-100)に再生だけでいいからステレオ回路を入れたものを作れないか。」と持ち掛ける{{Sfn|ソニー広報|1998|p=273}}。これを受け、大賀は大曾根に頼んだところ、大曾根は2つ返事で承諾した{{Sfn|ソニー広報|1998|p=273}}{{R|wm}}。大曾根は周りにあった「TCM-100」(プレスマン)から録音機能を取り除き、それにあり合わせのヘッドホンを付けたプロトタイプを井深に渡した{{Sfn|ソニー広報|1998|p=273}}。その性能に井深は1952年に初めて聴いた[[バイノーラル録音]]の記憶が蘇り、出張へ持参、帰国後も井深のお気に入りとなった{{Sfn|ソニー広報|1998|p=273}}。そうして盛田のところへ持っていき聴かせると、盛田も気に入り、盛田はこれにビジネスチャンスがあると考えた{{Sfn|ソニー広報|1998|pp=274-275}}。
 
1979年2月、盛田はエンジニア、企画担当者、宣伝・デザイン担当者など若手社員を中心に集め、改造したプレスマンを手にして商品化することを伝えた{{Sfn|ソニー広報|1998|pp=274-275}}。再生専用機でヘッドホン付き、発売は夏休み前{{Sfn|ソニー広報|1998|p=275}}{{R|wm}}との盛田の考えに開発者たちは難色を示す{{Sfn|ソニー広報|1998|p=275}}が、盛田の考えは変わらないため開発する方向で話はまとまった{{Sfn|ソニー広報|1998|p=275}}{{R|wm}}。価格に関しては盛田は40,000円以下の指示を出し、開発者たちは検討した結果35,000円で決まりかけるが、盛田は「ソニー創立33周年」であることを理由にして33,000円決定した{{Sfn|ソニー広報|1998|pp=275-276}}。開発は大曾根率いる高篠などのエンジニアによって行われ、1週間に2日から3日は徹夜をして開発が進められた{{Sfn|ソニー広報|1998|p=278}}{{R|wm}}。
 
一方でウォークマンに付属するヘッドホン「H・AIR」はウォークマン開発陣とは別のチームで行われており、互いの動きをまったく知らずに、別々にやっていたが、盛田が2つをセットにして発売することを1979年3月に決定した{{Sfn|ソニー広報|1998|pp=276-277}}。結果、ヘッドホンチームとしては2か月も発売が早まったこととなり、「戦場のような忙しさ」に見舞われたと、開発者であった掃部義幸{{Refnest|group="†"|のちのソニー執行役員{{R|Sony_20030424}}}}はウォークマン発売10周年のときに語っている{{R|Diamond_20150106}}。
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開発は初代プレスマンこと「TCM-100」のメカを流用したことで技術的な苦労はなかったが、新製品のコンセプトが受け入れられるかが検討課題となった{{Sfn|ソニー広報|1998|p=278}}{{R|wm}}。プレーヤーの名称は宣伝部とデザイン部門を中心にネーミングの募集が行われ、100を超える名前が集まった{{R|Diamond_20150106}}結果、当時流行していた[[スーパーマン]]{{Refnest|group="†"|1978年12月15日にアメリカで[[スーパーマン (1978年の映画)|同名映画]]が公開されているが、日本での公開は1979年6月30日(ウォークマン発売の前日)である。日本公開前に日本で既に流行していたのか、映画ではない別の媒体なのかは出典{{Sfn|ソニー広報|1998|p=278}}{{R|wm}}には言及なく不明。}}や「プレスマン(TCM-100)」を基にして{{Sfn|ソニー広報|1998|p=278}}{{R|wm}}、歩きながら音楽を楽しむ「ウォークマン」を提案した宣伝部係長の河野透{{Refnest|group="†"|のちのソニーマーケティング取締役<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/199703/97-0304/index.html |title=「ソニーマーケティング株式会社」 組織・人事 |publisher=ソニー |date=1997-03-04 |accessdate=2023-07-24}}</ref>}}の案を黒木が採用した{{R|Diamond_20150106}}。黒木からの報告を聞いた盛田は「もうちょっといい名前はないのか」と問うと、黒木から「パッケージもポスターも全部、ウォークマンで進めてますから変えられません。我慢してください」と言われたとウォークマン発売10周年のときに語っている{{R|Diamond_20150106}}{{Refnest|group="†"|別の出典では宣伝部の担当者たちは「英語でなければ、[[エスペラント語]]だと思ってください」と言ったとされる{{Sfn|ソニー広報|1998|p=278}}{{R|wm}}。}}。
 
こうして試作機が出来上がったが、当時ラジカセなどのカセットデッキは録音機能があることが前提であり、再生機能のみでは需要がないとされ、ソニー販売部門も難色を示した<ref name="nikkei_20070926_P2">{{Cite web|和書|title=【最期の教え】黒木靖夫氏・ウォークマン流ブランド構築術(2ページ目) |author=[[黒木靖夫]] |website=日経クロステック |publisher=[[日経BP]] |date=2007-09-26 |url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20070920/139436/?P=2 |accessdate=2023-07-22}}</ref>。しかしソニーは売り上げより利益を重視する経営理念を掲げており、井深・盛田ら経営トップは「売れそうもない」と思われ、他社が手を着けないものだからこそ、利益を独占できる可能性があり、やる価値があると考えた{{R|nikkei_20070926_P2}}<ref name=nikkei_20070926_P3>{{Cite web|和書|title=【最期の教え】黒木靖夫氏・ウォークマン流ブランド構築術(3ページ目)|author=黒木靖夫 |website=日経クロステック |publisher=日経BP |date=2007-09-26 |url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20070920/139436/?P=3 |accessdate=2023-07-22}}</ref>。盛田は「クビをかけてでもやる決意だ」と宣言した{{Sfn|ソニー広報|1998|p=279}}{{R|wm}}。
 
盛田の指示にて初期出荷台数は30,000台と当時一番売れたテープレコーダーの2倍の数を設定し、1979年6月22日、マスコミへの発表日を迎えた{{Sfn|ソニー広報|1998|p=280}}{{R|wm}}。
 
=== 創成期 ===
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こうして[[1979年]]([[昭和]]54年)[[7月1日]]にウォークマン1号機「TPS-L2」が発売された。発売当初のマスコミ紙面の反応は芳しくなく、人目に触れなければとの考えから、宣伝部や営業スタッフはウォークマンを身につけ[[山手線]]を一日中グルグル回るという作戦に出る<ref name="wm"/>。日曜日には若いスタッフにも製品を身につけさせ、街中を歩かせ、さらに影響力のある有名人にも製品を提供するなどして認知を高めていった<ref name="wm"/>。
 
このような広告・宣伝活動の甲斐もあり、雑誌では大きな反応が起きた<ref name="nikkei_20070926_P5" />。多くの雑誌が、ウォークマンをただの新製品として紹介するだけでなく、「ウォークマンは新しい若者のライフスタイルの象徴」として誌面で採用し、さまざまな記事の中で小物として使い始めた<ref name="nikkei_20070926_P5" />。特にインパクトきかったのが<ref name="1979年の奇跡" >{{Cite book |和書 |year=2019 |author=南信長 |authorlink=新保信長 |title=1979年の奇跡 ガンダム、YMO、村上春樹 |chapter=第2章 YMOとウォークマン ウォークマンと西城秀樹 |publisher=[[文藝春秋]] |series=[[文春新書]]1214 |ISBN=9784166612147 |pages=82–86 }}</ref>、『[[Myojo|月刊明星]]』1979年9月号の(発売は7月末)[[グラビア雑誌#グラビア写真|グラビア]]見開きページで、人気絶頂の[[西城秀樹]]が上半身裸の[[短パン]]姿でウォークマンを聴きながら[[ローラースケート]]をしている写真<ref name="1979年の奇跡" /><ref>{{cite journal | 和書 |author = | journal = [[Myojo|月刊明星]] | volume = 1979年9月号 | title = 俺の毎日フル・スロットル 西城秀樹・行動野郎の生物研究 | publisher = [[集英社]] | pages = 16-17 }}</ref>。その後も続々と各雑誌がウォークマンを取り上げ、8月には各店舗でウォークマンの売り切れが続出{{R|Diamond_20150106}}<ref name=Hokuriku_20151128>{{Cite news |title=【ほくりく昭和モノがたり】 ウォークマン(昭54年発売)|url=http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201511/CK2015112802000220.html|date=2015-11-28|newspaper=[[北陸中日新聞]]|publisher=[[中日新聞北陸本社]]|accessdate=2016-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161212114044/http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201511/CK2015112802000220.html|archivedate=2015-01-06}}</ref><ref name=Sankei_20100516>{{Cite news |url=http://www.iza.ne.jp/smp/kiji/economy/news/140205/ecn14020514470014-s.html|title=【日本発 アイデアの文化史】携帯音楽プレーヤー(上)|accessdate=2018-6-24|author=三品貴志|date=2018-05-27|website=|work=産経新聞|publisher=産業経済新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180622044106/http://www.iza.ne.jp/smp/kiji/economy/news/140205/ecn14020514470014-s.html|archivedate=2018-6-24}}</ref>{{Sfn|街と地図の大特集1979|2018|p=50}}、発売1ヶ月で3000台ほどの売上から、翌月には初回生産3万台を全て売上げ、供給不足が半年間続くほどの人気となった<ref name="wm"/>。
 
こうした盛田の顧客層分析、[[広告]][[宣伝]]、メディア戦略、販売促進などの[[マーケティング]]によってウォークマンは反響を呼び、販売成功につながった<ref name="nikkei_20070926_P5">{{cite news|title=【最期の教え】黒木靖夫氏・ウォークマン流ブランド構築術(5ページ目)|author=黒木靖夫 |website=日経クロステック |publisher=日経BP |date=2007-09-26|url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20070920/139436/?P=5|accessdate=2016-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161219132156/http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20070920/139436/?P=5&rt=nocnt|archivedate=2016-12-19}}</ref>。
 
なお日本では最初からウォークマンの商品名で発売されたが、文法に合わない[[和製英語]]であるウォークマン(Walkman)を避けて、海外では当初、他の商品名で発売された。アメリカではウォーク・アバウツ=歩き回る、ラン・アバウツ=走り回るからの造語で「Sound about(サウンド・アバウツ)」、イギリスでは[[密航]]者を意味する「Stow away(ストウ・アウェイ)」、[[スウェーデン]]では「Free Style(フリー・スタイル)」の商品名で発売された。しかし、来日した音楽家らによって日本からウォークマンが土産として“輸出”され、彼らの口コミにより日本国外でも「ウォークマン」の知名度が高まったことから、1年も経たずにウォークマンに統一された。黒木靖夫によると、この判断には、当時の会長・盛田昭夫の独断的な決定があり{{Sfn|黒木|1990|loc=第2章|p={{要ページ番号|date=2015年5月}}}}、その決定には盛田の妻である良子の意見があったとされる{{R|Diamond_20150106}}。ソニーの歴史の中で商品名を途中で変更したのは初めてのことであった<ref>{{Cite web|和書|title=【最期の教え】黒木靖夫氏・ウォークマン流ブランド構築術(6ページ目) |author=黒木靖夫 |website=日経クロステック |publisher=日経BP |date=2007-09-26 |url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20070920/139436/?P=6 |accessdate=2023-07-22}}</ref>が、150万台を売り上げるヒット商品となった{{R|Diamond_20150106}}。
 
=== 1980年代 ===
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製品開発に当たっては、1981年入社の木崎弘康および1984年入社の熊谷隆志によると「新しい製品を出すときはなんでも『半分』にする」{{Sfn|ステレオ時代|2015|p=18}}、つまりモデルチェンジする際には大きさを半分にするか、価格を半分にするのが目安だったと語っている{{Sfn|ステレオ時代|2015|p=19}}。これによって上層部からは、熊谷が手掛けた海外向けモデルの「WM-41」では価格が従来の半分である50ドルを求められ、木崎が手掛けた「WM-20」では「WM-2」の半分のサイズであるカセットケースサイズが求められた{{Sfn|ステレオ時代|2015|p=19}}。
 
こうして[[1983年]](昭和58年)[[10月]]に発売された「WM-20」ではカセットケースサイズを実現するために、伸縮ケースと超扁平薄型モーターを採用し、盛田はニューヨークでの記者会見のときにマジシャンとともに登場してプレゼンテーションを行った{{R|Diamond_20150106}}。また当時社会現象化した[[松田聖子]]を[[コマーシャルメッセージ|CM]]に起用した。
 
[[1985年]](昭和60年)[[9月]]に発売された「WM-101」では、さらなる薄型化を実現するために[[ガム型電池|ガム型充電式電池]]を初採用、[[1987年]](昭和62年)[[7月]]に発売された「WM-501」では、ガム型充電池を本体内蔵型に変更することで、初めてカセットケースサイズを下回った。