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『上方落語の歴史』により出典を補う。『千早振る』は『百人一首』が演題とされており(別題が『千早振る』)、『龍田川』という演題は記載がありません。
 
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'''初代 桂 文治'''(かつら ぶんじ、[[安永]]2年([[1773年]])(逆算)- [[文化 (元号)|文化]]12年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]([[1815年]][[12月29日]]))は落語家。本名[[桂惣兵衛|伊丹屋惣兵衛(宗兵衛とも)]]。息子は同じく落語家[[桂文治 (2代目)|2代目桂文治]]{{sfn|前田|1966|pages=59-|loc=「十一、二代目から五代目までの桂文治」}}。江戸で「咄の会」が始まり大坂でも人気が伸びたころに現れ、落語を職業とする噺家の始めのひとりである{{sfn|織田|page=109-114|loc=小咄の発生とその展開 §書かれた笑い話}}。
 
== 来歴・人物 ==
出身については諸説あり、[[京都]]の人とも、[[柴島]](現在の[[大阪市]][[東淀川区]])あるいは[[大和国|大和]][[葛城]]生まれとも伝わる。『摂陽奇観』によれば{{Full citation needed|date=2021年9月}}、京都出身の噺家[[松田彌助|初代松田彌助]]の弟子であったという{{sfn|前田|1966|pages=44-|loc=「七、二代続いた松田弥助、その他」}}。活動開始期間は[[寛政]]6年([[1794年]])ころからとされ、当時盛んであった素人による座敷での素噺(すばなし){{sfn|前田|1966|pages=39-|loc=「六、素人ばなしの流行」}}{{sfn|前田|1966|pages=57-|loc=「十、素人ばなしの流行衰えず」}}に対抗して、鳴物(なりもの)入り、道具入りの芝居噺を創作し、得意としていた。一方、素噺の方も「情深くして実(じつ)あり」と評され、名人であったことが窺える{{要出典|date=2021年9月}}。
 
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}}が大道や社寺の境内において簡素な小屋を掛けて演じていたが、初めて常打(じょううち)の[[寄席]]を開いて興行したのは文治で{{Refnest|「(前略)一方、五郎兵衛<sup>※</sup>の活躍を見聞し、大坂に米沢彦八が出現する。彼は[[生國魂神社|生玉]]、[[天王寺]]、[[高津 (大阪市)|高津]]、[[新町 (大阪市)|新町]]などの人の多く集まる場所で「辻ばなし」を演じて、大坂落語の祖となった{{Sfn|相羽|1994|p=13|loc=(3)落語の歴史}}。」(※編注=露乃五郎兵衛:つゆの ごろべえ)}}、場所は[[坐摩神社]](いかすりじんじゃ・ざまじんじゃ)境内とされる。上方落語中興の祖{{sfn|前田|1966|pages=49-|loc=「九、上方落語中興の祖、桂文治」}}であるとともに、寄席の開祖でもある。
 
現在でも演じられる『[[蛸芝居]]』{{sfn|前田|1966|page=215}}、『[[昆布巻芝居]]』{{sfn|前田|1966|page=176}}、『[[崇徳院 (落語)|崇徳院]]』{{sfn|前田|1966|page=201}}、『[[千早振る|龍田川百人一首(千早振る)]]』{{sfn|前田|1966|page=266}}、『[[口合小町]]』{{sfn|前田|1966|pages=155-156}}、『[[反故染]]』{{sfn|前田|1966|page=276}}、『[[滑稽清水|滑稽清水(杢の市)]]』は{{sfn|前田|1966|pages=288-289}}、文治の作とも言われる{{要出典|date=2021年9月}}。他にも『尽くしもの』、『女夫喧嘩』と関する一連の噺が得意演目であったという。
 
多数の門人を擁していたが、特に[[桂文來]]、[[桂文東]]、桂磯勢(破門となり[[月亭生瀬]]と改名{{refnest|桂磯勢は文治門下を解かれると月亭生瀬の名で落語作家となり{{sfn|荻田|2015|pages=133|loc=「落語作家の祖」}}、文治の噺を書き起こし{{sfn|蓬左文庫|1984|loc=(リール59)「813 大寄噺の尻馬 残存二編(初・六編)」、「814 同 (四・五編)」}}{{sfn|荻田|2015|pages=134|loc=「『大寄噺の尻馬』」}}、狂言の戯作も手がけている{{sfn|荻田|2015|page=149|loc=「狂言作者(歌舞伎の作者)月亭生瀬」}}。}})、[[桂力造|初代桂力造]]、[[桂文吾|初代桂文吾]]の5人が高弟であったという。他に[[桂北桂舎]](「桂文景」から改名)と[[桂里壽]]らがおり{{要出典|date=2021年9月}}、2代目文治は実子の文吉が継いだ{{sfn|前田|1966|pages=59-|loc=「十一、二代目から五代目までの桂文治」}}。