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== 主な産業 ==
観光が主な産業であるため2000年(平成12年)の国勢調査に見られるように、島の人口の92[[パーセント]] (%) が島内及び島外の宿泊・飲食業([[第三次産業]])に従事している。海水浴や[[志摩スペイン村]]の宿泊地として家族連れや団体に利用されるほか、公然と売春が行われ<ref>{{Cite news|url=https://bunshun.jp/articles/-/40303 |title=「5人ほど売り飛ばしましたよ」ヤクザが暗躍、公然と女性が街中で…三重に実在する“ヤバい島” |publisher= 文春オンライン|date=}}</ref>売春島として名高く知られ<ref>{{Cite news|url=https://bunshun.jp/articles/-/41042 |title=「女をナンパして、惚れさせて、身包みを剥いで……」ヤクザが語った三重県に実在する“ヤバい島”で荒稼ぎする方法 |publisher= 文春オンライン|date=}}</ref>、特に昭和時代は男性集団[[買春]]を目的に島を訪れることも多かった。ただし近年性産業従事者著しく減少、高齢化している。
 
志摩市の資料によると、平成7 - 17年の人口減少率は30%以上となっている一方で65歳以上が35 - 40%となり、[[過疎]]の島となりつつある<ref>{{Cite web|publisher=志摩市役所|url=http://www.city.shima.mie.jp/gyosei/docs/toshikeikaku/sogokikaku/kisosiryohenn.pdf|title=志摩市 年齢別人口 わたかの|format=PDF|access-date=2023-11-14}}</ref>。
 
=== 性産業に関して ===
公然と[[売春]]が行われる島としてタブー視されてきた歴史が残る。一方このイメージは既に現在の島の実情とはかけ離れている<ref>{{Cite web|和書|title=渡船でしか行くことのできない特別な…最後の桃源郷…男のアソコではなくカメラを握りしめ風俗街を歩き続ける元風俗嬢〜紅子の色街探訪記vol.21・売春島 |url=https://dxbeppin-r.com/archives/146793 |website=デラべっぴんR |date=2023-10-02 |access-date=2023-11-14 |language=ja |last=デラべっぴん}}</ref>。ノンフィクションライター、[[高木瑞穂]]の『売春島 「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ』(彩図社、2017年刊)は、9万部を超えるベストセラーとなった。
 
==== 全盛期 ====
[[バブル景気|バブル]]期にはプレイルームが足りず、自由恋愛を装うため女性の部屋で売春するという建前を無視して、ホテルの客室や置屋の奥が使用されるほどであった。最盛期は1970年代半ばから1990年までで、1981年頃がピークであった。当時は肩と肩がぶつかるほどの客で溢れかえり、人口200人ほどの頃に、ホテルや置屋だけでなく、[[パチンコ店]]、[[居酒屋]]、[[喫茶店]]、[[カラオケ店]]、ゲーム喫茶、メイン通りにヌードスタジオ(小規模の[[ストリップ劇場]])が2軒、裏[[カジノ]]まであった。当時の雰囲気は、さながらバブル期の[[熱海市|熱海]]のような煌びやかなネオンと欲望むき出しの男たちが発する熱気が相まった“[[桃源郷]]”と呼ぶに相応しい華やかさであったと証言する客もいる。最盛期には置屋13軒存在した。
 
宴会は通常、夜9時頃に終わり団体客は酔った勢いで一斉に外に繰り出した。宿では[[コンパニオン]]に扮した[[娼婦]]が[[宴会]]に入り、本人を見て相手を選ばせるのが、定番システムであった。たいていは娼婦で宴会客との頭数を合わせるが、時には女性が足りず、島外の[[派遣会社]]から売春目的ではない一般のコンパニオンが駆り出されることもあった。そのため、こうしたコンパニオンの島の宴会の評判は極めて悪かった。通常、コンパニオンは『延長料金』や『[[チップ (サービス)|チップ]]』で数万円の実入りになることもあるが、渡鹿野島の宴会は売春目的であるため、きっちり2時間で終わるため、チップや延長が期待できなかったためからである<ref name="bunshun">{{Cite web|和書|date=2020-12-28|url=https://bunshun.jp/articles/-/42525|title=「ママの合図で2階からドタバタと女性10人が…」最盛期の“ヤバい島”を体験した男が語った高揚感と恐怖『売春島』外伝|publisher=文春オンライン|accessdate=2021-01-14}}</ref>。
 
1986年頃からは[[外国人]]女性が雇用されるようになった。ある置屋が[[台湾人]]女性を雇ったのがきっかけで、[[外国人]]女性が雇用されるようになった。ある。人気では日本人より劣ったが、低賃金であるため、置屋が一斉に外国人の雇用に動いた。1989年頃からは、[[フィリピン人]]が主流になり、最盛期には数十人のフィリピン人が住んでいたが、1990年代半ば以降は[[タイ人]]が主流となる。このため、対岸の鵜方の街には今もタイフード食材店が残っている。女性らは6畳一間ほどの部屋をあてがわれて、自由恋愛を建前に娼婦が実際に暮らす部屋で売春が行われたが、これが島の典型的なシステムであった。外国人女性らの多くは、ロング(夜通し)の朝には朝食を客に振る舞い、船着き場まで見送ったりしていたという<ref name="bunshun"/>。
 
1971年に[[三重県警察|三重県警]][[警部補]]が内偵特捜の捜査官として島に潜入したが、売春婦の女性と内縁の関係となり諭旨免職され<ref>{{Cite book|和書|title=発見!意外に知らない昭和史: 誰かに話したくなるあの日の出来事194|author=歴史雑学探偵団 |publisher=東京書店 |year=2007|ISBN= 9784885740510|page=123}}</ref>、のちに島で[[スナックバー (飲食店)|スナック]]経営者兼売春斡旋者となったが、1977年10月の[[手入れ]]で内妻とともに逮捕され、店の売春婦は保護された。売春婦の大半は家出少女などで、借金付きで送られ売春をさせられていた。元警部補は、出所後は島でホテル経営などに携わり、島の観光産業の発展に尽力した。