「日清戦争」の版間の差分
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[[File:Peace Conference at Shimonoseki by Nagatochi Hideta (Meiji Memorial Picture Gallery) (cropped).jpg|right|thumb|下関の[[春帆楼]]で講和交渉を行う日清両国の全権。[[永地秀太]]画]]
{{Main|下関条約}}
[[1895年]](明治28年)[[3月19日]](光緒21年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]])、清の全権大使[[李鴻章]]が[[北九州市|門司]]に到着した。[[下関市|下関]]の料亭、[[春帆楼]]での交渉の席上、日本側の[[清朝統治時代の台湾|台湾]]割譲要求に対して李は、台湾本土に日本軍が上陸すらしておらず、筋が通らないと大いに反論した。しかし、24日に日本人暴漢が李を狙撃する事件が起こり、慌てた日本側が講話条件を緩和して早期決着に動いたため、30日に一時的な休戦で合意が成立した(ただし台湾と澎湖列島を除く)。[[4月17日]]、日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲([[遼東半島]]・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(7年年賦で2億両(約3.1億円)、清の歳入総額2年半分に相当<ref>川島 (2010)、9頁。</ref>)、日本に[[最恵国待遇]]を与えること等が決まった。[[5月8日]]([[4月14日 (旧暦)|4月14日]])、清の[[煙台|芝罘]]で批准書が交換され、条約が発効した。
=== 三国干渉 ===
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