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'''9''' 艶二郎は女郎を買いに行っても、家で焼餅を焼く者がいないと張合いがないと思い、焼餅さえ焼くなら器量はどうでもよいと、四十近い女を仕度金二百両で妾に抱えた。<!--艶二郎「お前は去年俺が中洲で買った地獄(密淫売婦)ではないかしらん。小便組<ref>仕度金をもらって妾になっておいて、故意に寝小便をして解雇されることで大金を儲けるやりかた。「小便をして逃るのは妾と蝉」という川柳もある。</ref>じゃあないだろうねえ」妾「わたしを妾にしても女郎買いや浮気が忙しくてわたしなぞは構ってくれますまい」と約束どおり焼餅を焼くふりをする。-->
 
'''10''' 艶二郎は[[深川 (江東区)|深川]]、[[品川区|品川]]、[[新宿]]をはじめ、ありとあらゆる[[岡場所]]で女郎を買ったけれど、浮名屋の浮名ほどの女郎はなかった。さて浮名と遊ぶにしても通り一遍では面白くないので、浮名の間夫<small>(まぶ、女郎が商売っ気抜きで会いたがる愛人)</small>になりたいと思ったが、浮名が承知するとも思えない。そこでわる井志庵が浮名の表向きの客になってこれを揚げ詰めにし、艶二郎は新造を買って浮名に会い<ref>{{refnest|group="注釈"|新造(しんぞう)とはまだ少女の年配の若い女郎のこと。新造が世話係をする姉女郎(浮名)に本当は会いたいが、表向きはその新造を買い、ひそかに姉女郎に会うという遊び<ref>『日本古典文学全集』46(小学館、1971年)125頁。『新編日本古典文学全集』79、95頁。</ref>。}}、思い切りたくさん金を使いながらも、思うに任せぬところが何ともいえぬと喜ぶ。<!--艶二郎「(浮名に)お前が俺のところに来ると、お前を揚げ続けているあのお大尽(実はわる井志庵)が焼餅を焼いてやり手婆や男衆を呼んで文句を言っているのを聞く心持のよさは5、600両の価値はあるねえ」浮名「(艶二郎に)本当にあなたは酔狂な人ですねえ」志庵「俺の役もつらい。座敷で遊んでいるときは大尽のようだが、座敷が終わって寝床に入るときになると(浮名が艶二郎のところに行ってしまうので)蒔絵の煙草盆と俺だけになってしまう。これも渡世と思えば腹も立たないが五枚重ねの布団と錦の夜着で寝るだけというのは割りにあわないねえ」-->
 
'''11''' 艶二郎は『助六廓の家桜』の一節を思い出し、あのように禿(<small>かぶろ、新造になる前の見習いの少女)</small>や新造が馴染みの客を、ほかに行かせまいと縋り付くのをたいそう羨ましく思った<ref>{{refnest|group="注釈"|『助六廓の家桜』は[[寛延]]2年(1749年)[[中村座]]にて上演、これに使われた[[河東節]]の一節に、「帰るさ告げる犬桜、口舌<small>(くぜつ)</small>のつぼみほころびし袖を禿<small>(かぶろ)</small>が力草<small>(ちからぐさ)</small>、引かれて行くや後ろ髪」とあり、吉原に来た客(助六)が帰るのを惜しまれて、禿に強く袖を引かれるというくだり。それと同じ真似を艶二郎はされたがったということ<ref>『日本名著全集江戸文芸之部第二十八巻 歌謡音曲集』(日本名著全集刊行会、1929年)263 - 265頁。</ref>。}}。そこで新造や禿に頼み込んで、艶二郎が大門にいるところをわざと捕まえてもらうことにして、羽織くらいは敗れてもいいという約束で引きずられてゆく芝居をする。一方、新造や禿は艶二郎に人形を買ってもらう約束で、無駄口をたたきながら艶二郎を引きずってゆく。<!--艶二郎「これこれ離してくれ。こうやって引きずられて行くところは大層外聞がいいねえ」-->
 
'''12''' 艶二郎が数日ぶりに家に帰ると、待ち受けていた妾はここぞ奉公のしどころと、練習していた焼餅の台詞を存分にしゃべる。<!--妾「本当に男って図々しいもんだね。それほど女に惚れられるのが嫌なら、あんたみたいに色男に生まれなければいいのさ。女郎も女郎だ。ひとの大事な男を居続けさせやがって。お前さんもお前さんだ。まあ、今日はこのへんで焼餅の台詞はおしまいにしときましょう」艶二郎「恥ずかしい話だが生まれて初めて焼餅を焼かれた。何とも言えないいい心持だ。もう少し焼いてくれたら、お前がねだっていた八丈縞と縞縮緬を買ってやろう。頼むからもうちょっと焼いてくれ」妾「この後は八丈縞と縞縮緬が来てからのことにしましょう」-->
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'''17''' 艶二郎はお望み通り勘当となったが、母親が金を必要なだけ送ってくるので一向に困らない。何か面白い商売をしたいと思い、本来は美男子のする地紙売<small>(扇の地紙を入れた箱を担ぎ、粋な姿で市中を売り歩いた者)</small>を夏が来る前から始め、一日中歩いて足に大きな豆をつくり、この商売に懲り懲りした。この時には大変な酔狂だという噂が立つ。<!--女「鳥羽絵(戯画・漫画のこと)のような顔の人が通るよ」艶二郎「外を歩くと日に焼けるので参る。困ったもんだ。また俺に惚れたみたいだ(女が鳥羽絵のようなと言っているのを誤解している)色男もつらいね」-->
 
'''18''' 艶二郎がいよいよ図に乗ってあれこれするうちに、七十五日という勘当の期限が切れた。家からは毎日勘当を解くという知らせがきたが、艶二郎はまだ浮気なことがしたりない。そこで親類の口添えで、勘当を二十日延長してもらった。そして[[心中]]ほど浮気なものはない、女と心中しようと思い立ったが、相手の浮名が承知しないだろうから狂言で心中しようと考えた。まず千五百両で浮名を[[身請け]]し、心中に必要なものを買い集める。艶二郎と浮名の着る揃いの小袖には、「肩に金てこ裾には碇、質においても流れの身」という文句を染めぬく<ref>{{refnest|group="注釈"|「金を拾ふたらゆかたを染めよ、肩にかなてこもすそ<small>(裳裾)</small>に碇、質に置ても流れぬように」という当時流行した俗謡を下敷きにしたもの<ref>『新編日本古典文学全集』79、103頁。</ref>。}}。これは呉服屋の思い付きである。二人の辞世の句を摺り物にして吉原中に配らせ、喜之介と志庵には二人が「南無阿弥陀仏」と言って死のうとする間際に止めてもらう段取りとした。<!--志庵「花藍(からん。京伝の画の師匠である北尾重政の俳名)が描いた蓮の絵を大奉書(上質な奉書)に空摺り(絵の具をつけずに凹凸で図様を表す渋い技法)とはいい思い付きだね」喜之介「脇差は銀箔を置いた木刀を誂えておきました」-->
 
'''19''' 浮名は、嘘でも心中とは外聞が悪いと不承知だったが、艶二郎は首尾よくいったら好きな男と添わせてやろうと由良助みたいなことを言い<ref>{{refnest|group="注釈"|『[[仮名手本忠臣蔵]]』七段目、「祇園一力茶屋の段」で大星由良助がおかるに「間夫があるなら添はしてやろ…三日なりとも囲うたら、それからは勝手次第」と言うのを指す<ref>『新編日本古典文学全集』79、104頁。</ref>。}}、何とか納得させた。そしてこの秋の芝居興行では、艶二郎が金を出すという約束をして座元に頼み、[[桜田治助]]作の浄瑠璃でこの心中を芝居にするという。出演は[[市川門之助 (2代目)|門之助]]と[[瀬川菊之丞 (3代目)|路考]]。十中八九失敗しそうな芝居である。さらに普通の身請けでは色男らしくないと、駆落ちのつもりで女郎屋の二階の窓を壊し、そこから梯子をかけて二人は降りる。妓楼の若い者たちは金をもらい、この心中を方々に言いふらせと指図された。<!--妓楼の主人「どうせ身請けされた女郎ですから自由になさって結構ですが、格子の修繕料は200両にまけてあげましょう」と欲張ったことを言う。艶二郎「二階から目薬というのは知っているが、二階から身請けというのはこれが初めて」若い衆1「お危なうございます。お静かにお逃げなさいませ」若い衆2「花魁(おいらん、浮名のこと)、ご機嫌よく駆け落ちなされませ」-->
 
'''20''' 最期の場所も粋で派手な場所がいいと、[[向島 (墨田区)|向島]]の[[三囲神社|三囲稲荷]]前の土手と決めておく。夜が更けてからでは気味が悪いので宵の内にやることになり、艶二郎が贔屓にした茶屋、[[舟宿]]の者、幇間、芸者が太々講<small>(お伊勢参りで太々神楽を奉納した[[講中]])</small>でも見るように、袴や羽織の姿で[[吾妻橋|大川橋]]まで二人を送り、[[東江寺 (葛飾区)|多田の薬師]] <small>(現在の墨田区[[東駒形]]の辺り)</small>で別れる。艶二郎は日頃の願いが叶ったと喜び勇んで浮名と道行、ここが最期と脇差を抜き(実は刀身は銀箔をかぶせた[[竹光]])、南無阿弥陀仏と唱えた。するとそれを合図にして稲むらの陰よりあらわれたのは…黒装束の泥棒二人。艶二郎と浮名は泥棒に身ぐるみ剥がれ、真っ裸にされてしまった。<!--泥坊1「お前らはどうせ死ぬんだから俺が介錯してやろう」艶二郎「これこれ早まるな。わたしらは死ぬための心中ではない。ここで心中を止める人間が出てくるはずなんだ。どういう手違いだろう。着物はみんな上げるから命はお助けお助け」泥坊2「今後、こんな馬鹿な思い付きはしないか」艶二郎「もうこれに懲りないことはありません」浮名「どうせこんなことだろうと思ってました」-->
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最後の場面'''22'''で艶二郎はこれまでの事を父弥二右衛門に、「若き時は血気いまだ定まらず、戒むる事いろいろありといふことを知らぬか。すべて案じが高ずると皆こうしたものだ…以後はきっとたしなみおれ」と叱られる。人間「案じ」(思い付き)が過ぎるとこうなるという話を、本作は面白おかしく滑稽に描き、その中で当時の有名人や流行した音曲、吉原の有様などの世相を取り上げている。また弥二右衛門に意見されて心を入れ替えた艶二郎は、自分のような馬鹿者がまた出ないようにと、京伝に頼んで自分のしたことを草双紙にしてもらったという。その草双紙こそこの『江戸生艶気樺焼』であるというオチで、いわゆる[[メタフィクション]]を思わせる趣向である。
 
本作は初版以降、 三度再版本が出ている。そのうち最も早く、[[寛政]]3年(1791年)頃に刊行されたとみられる再版本は、[[鏡台]]に掛かる[[柄鏡]]に登場人物を描いた絵題簽を表紙に貼ったもので、これと同時期の再版で同様の絵題簽を持つ京伝作の黄表紙が、『[[時代世話二挺鼓]]』を含め他に四種知られる<ref>『黄表紙總覧 前編』599頁。『新編日本古典文学全集』79、234頁。</ref>。京伝著の[[洒落本]]『通言総籬』(天明7年刊行)には、「艶治郎ハ青楼<small>(吉原)</small>ノ通句也。予<small>(京伝)</small>去々春江戸生艶気蒲焼ト云、冊子ヲ著シテヨリ、己恍惚<small>(ウヌボレ)</small>ナル客を指テ云爾<small>(シカイフ)</small>」とあり<ref>{{refnest|『米饅頭始 仕掛文庫 昔語稲妻表紙』(『新日本古典文学大系』85 岩波書店、1990年)77頁<ref group="注釈">『山東京伝一代記』にも、「是より自惚といふものをさして艶二郎といふこと、江戸は勿論京大坂田舎迄も通言となり、予中年までいひし事也」とある[{{NDLDC|991280/96}}]。</ref>。}}、吉原に来るうぬぼれ客を艶治郎(艶二郎)とあだ名することがあったという。この『通言総籬』は本作に出た艶治郎、北里喜之介、わる井志庵の三人を再び使い、やはり吉原の客とその様相を描いてみせたものである。さらに京伝は本作の続編として黄表紙『碑文谷利生四竹節』を天明9年(1789年)に出しており、艶二郎の息子うぬ太郎が登場する。ほかにも京伝の作以外の戯作に、艶二郎は取り上げられている<ref>『新編日本古典文学全集』79、235 - 236頁。</ref>。
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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