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伊豆国[[賀茂郡]][[稲取|稲取村]]にも江梨鈴木氏の一族とする鈴木氏がおり、稲取に移った鈴木兵庫助の次男・孫七郎繁時が後北条氏の水軍として仕え、その後は繁則ー元繁ー方繁と続いた。[[武蔵国]][[比企郡]]奈良郷の鈴木氏も江梨鈴木氏の一族とされ、鈴木重允(重光)の子・重安(左京)が[[北条氏綱]]、[[北条氏康|氏康]]に仕えたという。
 
[[明応]]7年([[1498年]])に発生した[[明応地震]]の際に江梨村にも大津波が押し寄せたとされ、『開基鈴木氏歴世法名録』には「明応七午年八月廿五日未刻江梨村津浪寄来而庶人海底沈没不知数此時家系及重代之財宝等悉失之」、[[明暦]]3年([[15571657年]])再編の『航浦院縁起』には「本尊者後土御門院御宇明応七午年八月□五日至未刻津浪寄来如覆天地依之男女之庶人海底之滓成者不知数此代者繁用之嫡子[[鈴木繁宗|兵庫允繁宗]]也女子壱人引汐門外之榎二本之間ニ打挟両眼出露命且助ス然ハ萬行山ト…」<ref>{{Cite book|和書 |title=沼津史談第5号「豆州江梨の鈴木氏について」 |date=1967年3月 |publisher=沼津史談会 |author=辻真澄}}</ref>とあり、大津波により多くの庶人が海底に沈み、江梨鈴木氏の系図と財宝が家屋とともに流出したと記録されている。また、この津波で鈴木繁宗の娘が両眼を患ったため、航浦院の薬師如来に回復を祈ったところ完全に治癒したとされる。
 
[[鈴木繁朝]]の三男・[[鈴木繁定]]は[[北条氏政]]から不審船の取り押さえ、他国船の改めなど[[駿河湾]]沿岸警備について頻々と司令を受けていたことが江梨鈴木家文書に残っており、[[川越城]]宇佐曲輪に屋敷があったとされる。