削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
27行目:
景綱はこの噂を聞きつけると、榊原式部・土井大炊頭に申し開きを行ったが、聞き入れてもらえなかった。そこで景綱は、同じ[[下野小野寺氏]]で従弟にあたる貞滝坊(小野寺慶範)を訪ね、私達の運命はこれまでだろう。6歳の娘であるお藤と、小野寺一族に伝わる文書や宝物一式を託したいと願い出た。貞滝坊(小野寺慶範)はこれを引き受け、梁田の領主小川甲斐守とお藤を婚姻させ、養子として小川甲斐守に家督を継がせた。
 
その後、江戸から小笠原右近が家来を大勢連れて川崎村を訪ねてきた。景綱の旧臣達100名近くは集って戦の準備を始めたが、ここで争っては罪が重くなると考え河内大和之助・丸山土佐之助を遣いとして送り、「幕府の治世の初めに領地全てを召し上げられたが、これは私の不注意であり、恨みに思った御座いません。土井・榊原両家に勘当を解いて欲しく願い出ましたが、願い届かず、今度は罪無くして死罪を申し付けられ、是非に及ばずです。父子共に速やかに自害を願い出たい。」と伝えたところ、小笠原右近は神妙な顔付きで「小野寺家は代々の名家である。もしかしたら上の思い違いもあるかもしれないので、ただちに自害する必要はない。」として、家来100人近くと景綱父子を舟に載せ、江戸へと向かった。そして小笠原右近は飛脚を送ったが、事態は変わらなかった。江戸からは即刻、切腹せよとの命が下り、古河の下大志田で舟を着け、切腹となった。
 
== 家臣(川崎城付)<ref>{{Cite book|和書 |title=小野寺家文書 |publisher=}}</ref> ==