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[[豊臣秀吉]]によって[[後北条氏]]が滅ぼされると、[[改易]]され川崎村在住の浪人となった。家臣達は帰農した。
 
徳川政権の時代となった頃、事件が起こる。[[徳川家康]]によって川崎村に新たな領主が配属されたが、旧臣達は水害などを理由に家臣達は毎年年貢を遅延して納めていた。川崎村の代官はこの様子を見て、先代領主の小野寺氏を再興させるための企てに違いないと領主に報告し、領主は[[徳川家康]]に川崎村で一揆の兆候があると讒言。[[徳川家康]]は小笠原右近(小笠原貞慶か)に景綱を討ち取るよう命じた。
 
景綱はこの噂を聞きつけると、榊原式部・土井大炊頭に申し開きを行ったが、聞き入れてもらえなかった。そこで景綱は、同じ[[下野小野寺氏]]で従弟にあたる貞滝坊(小野寺慶範)を訪ね、私達の運命はこれまでだろう。6歳の娘であるお藤と、小野寺一族に伝わる文書や宝物一式を託したいと願い出た。貞滝坊(小野寺慶範)はこれを引き受け、梁田の領主小川甲斐守とお藤を婚姻させ、養子として小川甲斐守に家督を継がせた。