「小野寺景綱」の版間の差分
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景綱はこの噂を聞きつけると、榊原式部大輔康政・土井大炊頭利勝に申し開きを行ったが、聞き入れてもらえなかった。そこで景綱は、同じ[[下野小野寺氏]]で従弟にあたる貞滝坊(小野寺慶範)を訪ね、私達の運命はこれまでだろう。6歳の娘であるお藤と、小野寺一族に伝わる文書や宝物一式を託したいと願い出た。貞滝坊(小野寺慶範)はこれを引き受け、梁田の領主小川甲斐守の二男とお藤を婚姻させ、婿養子として小川甲斐守の二男を小野寺家に迎え入れ、家督を継がせた。
その後、江戸から小笠原右近が家来を大勢連れて川崎村を訪ねてきた。景綱の旧臣達100名近くは集って戦の準備を始めたが、公務に対して弓を引くなどあってはならぬこととして、河内大和之助・丸山土佐之助を遣いとして送り、「幕府の治世の初めに領地全てを召し上げられたが、これは私の不注意であり、恨みに思ったことは御座いません。土井・榊原両家に勘当を解いて欲しく願い出ましたが、願い出は届かず、今度は罪無くして死罪を申し付けられ、是非に及ばずです。父子共に速やかに自害を願い出たい。」と伝えたところ、小笠原右近は神妙な顔付きで「小野寺家は代々の名家である。もしかしたら上の思い違いもあるかもしれないので、ただちに自害する必要はない。」として、100人近くの兵と景綱父子を舟に載せ、江戸へと向かった。そして小笠原右近は飛脚を送ったが、事態は変わらなかった。家康から即刻、切腹させよとの命が下り、古河の下大志田で舟を着け
== 家臣(川崎城付)<ref>{{Cite book|和書 |title=小野寺家文書 |publisher=栃木文書館に写しが保存されている |date=不明 |year=不明}}</ref> ==
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