「小野寺景綱」の版間の差分
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その後、江戸から小笠原右近が家来を大勢連れて川崎村を訪ねてきた。景綱の旧臣達100名近くは集って戦の準備を始めたが、公務に対して弓を引くなどあってはならぬこととしてこれを諫めた。(この決断により、後述する家臣達の多くの命が救われ、今日に至る)。景綱は河内大和之助・丸山土佐之助を遣いとして送り、「幕府の治世の初めに領地全てを召し上げられたが、これは私の不注意であり、恨みに思ったことは御座いません。土井・榊原両家に勘当を解いて欲しく願い出ましたが、願い出は届かず、今度は罪無くして死罪を申し付けられ、是非に及ばずです。父子共に速やかに自害を願い出たい。」と伝えたところ、小笠原右近は神妙な顔付きで「小野寺家は代々の名家である。もしかしたら上様の思い違いもあるかもしれないので、ただちに自害する必要はせずともよい。」として、逃亡出来ないよう100人近くの騎兵と景綱父子3名を舟に載せ、江戸へと向かった。そして小笠原右近は飛脚を送ったが、事態が変わることはなかった。家康からの返答は「即刻、切腹させよ」との返答があり、古河の下大志田で舟を着け切腹となった。
== 家臣(川崎城付)<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=小野寺家文書 |publisher=栃木文書館に写しが保存されている |date=作者及び作成年月日は不明だが、1700年前後の貞瀧坊と思われる。 |year=不明}}</ref> ==
=== 城代 ===
*河内大和之助
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「諸とともに あるかなきかの 身を詫びて ただ古へを しのぶばかりぞ」
== 子孫について<ref name=":0" /> ==
=== お鶴 ===
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側室は羽生氏の娘。[[寛文]]年間(1661-1673)、貞瀧坊(乗重)の元に、一人の僧が訪ねてきた。その者は新田大光院に仕える僧だった。その者が言うには、父からは自分は本当の父親ではなく、本当の父親の名は小野寺小六郎といい、産まれる前に死別しており、母親も物心つく前に亡くなっていると聞かされたという。舘林の普済寺に拾われて、12歳になる頃榊原氏に仕官させられた。その為、自身の父母も、産まれのことも何も知らないが、育ての父親(普済寺の和尚)からは常々、汝の祖父は下野小野寺城主・小野寺景綱で、3万石の領主なり。徳川につくのが遅れたため領地を召し上げられ、自害に追い込まれたと聞かされた。そして、普済寺で育て上げ祖父と父の供養をさせようと思っていたが、名家の生まれであることを惜しく思い、榊原氏に仕官させた。榊原氏は徳川の忠臣で、祖父景綱も頼ったと聞く。大変縁があるため、熱心に仕官し、家を起せ。そして汝に縁ある川崎の貞瀧坊を尋ねよと、仕官の際に聞いた記憶があるという。そして[[慶長]]19年(1614年)大阪の陣にて手柄を立て、18歳の時に300石を賜った経歴があるとのことだった。貞瀧坊(乗重)はこれを聞いて、「私では分からないからご隠居(乗弘)と話をせよ」と言い、貞瀧坊(乗弘)はこの話を聞くと、紛れもなく小六郎殿の実子だといい、互いに涙した。その日、彼の出生は古河に住む河崎仁右衛門の息子、孫兵衛に伝えられ、翌日には早々に喜々として孫兵衛が訪ねてきた。仁右衛門はすでに老体で、息子たちを仕官させるために古河の長尾新五郎に頼み込み、一族榊原氏に仕え子孫繁昌しているとのことだった。その後も、[[元禄]]年間までは連絡を取り合っていたという。
== 脚注 ==
<references />{{People-substub}}
{{デフォルトソート:おのてら かけつな}}
[[Category:小野寺氏|かけつな]]
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