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{{User sandbox}}
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{{Infobox 人物
{{地震
| 氏名 = 石川 節子
| name = ロマ・プリータ地震
| ふりがな = いしかわ せつこ
| image = Cypress structure.jpeg
| 画像 = 1912 Ishikawa Setsuko.jpg
| image name = ロマ・プリータ地震で倒壊した{{仮リンク|州間高速道路880号線|en|Interstate 880}}の{{仮リンク|サイプレス高架橋|en|Cypress Street Viaduct}}([[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]市)。この事故で地震全体の死者の3分の2を占める42人が亡くなった
| 画像サイズ = 250
| map2 = {{Location map+ | USA California
| 画像説明 = [[石川啄木]]没後の節子([[大正]]元年)
|places =
| 出生名 = 堀合 セツ
{{Location map~|California|lat=36.97|long=-122.02|label=Santa Cruz|position=left|mark=Green pog.svg}}
| 生年月日 = [[1886年]][[10月14日]]
{{Location map~|California|lat=37.80|long=-122.27|label=Oakland|position=left|mark=Green pog.svg}}
| 生誕地 = [[岩手県]][[南岩手郡]]上田村新小路11番地<br />(のちの[[盛岡市]]上田、[[岩手大学]]構内)
{{Location map~|California|lat=36.68|long=-121.66|label=Salinas|mark=Green pog.svg}}
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1886|10|14|1913|05|05}}
{{Location map~|California|lat=37.04|long=-121.88|mark=Bullseye1.png|marksize=40}}}}
| 死没地 = [[北海道]][[函館市|函館区]]豊川町34番地(豊川病院)
| caption = 地震の[[震央]]の位置を示した地図<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.17</ref><ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.23</ref
| 死因 = 肺結核
| date = [[1989年]][[10月17日]]
| 墓地 = 北海道[[函館市]][[立待岬]]
| time = 17時4分15.2秒([[太平洋夏時間|PDT]])<br>10月18日0時4分15.2秒 ([[協定世界時|UTC]])
| 記念碑 =
| duration = 15秒<ref>{{Cite web|url=http://www.ksbw.com/news/central-california/santa-cruz/loma-prieta-earthquake-25-years-later/28342534|title=Loma Prieta Earthquake: 25 years later|publisher=KSBW.com|language=英語|date=2014年10月17日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>
| 住居 =
| center = {{USA}}<br>[[カリフォルニア州]][[サンタクルーズ (カリフォルニア州)|サンタクルーズ]]市より北東16㎞の{{仮リンク|ザ・フォレスト・オブ・ニシーン・マークス州立公園|en|The Forest of Nisene Marks State Park}}
| ___location国籍 = {{Coord|37|2|9|N|121|52|58|WJPN}}
| 出身校 = [[盛岡市]]立[[盛岡白百合学園中学校・高等学校|盛岡女学校]]
| depth = 17.6-18.5
| 教育 =
| scaletype = [[マグニチュード#モーメントマグニチュード Mw|モーメントマグニチュード]](Mw)
| 職業 = [[代用教員]]
| scale = 7.1
| scaleother活動期間 =
| 雇用者 =
| shindotype = [[メルカリ震度階級|改正メルカリ震度]]
| 団体 = [[滝沢市|滝沢村]]立篠木尋常高等小学校<br />函館区立宝尋常高等小学校
| shindo = IX
| 著名な実績 =
| shindoarea = [[サンフランシスコ]]市とオークランド市の一部
| 業績 =
| tsunami = {{仮リンク|モンテレー湾|en|Monterey Bay}}で最大40-45㎝
| 影響を受けたもの =
| type = 直下型地震<br>[[断層#逆断層|逆断層]]成分を伴う右[[断層#横ずれ断層|横ずれ断層]]型
| 影響を与えたもの =
| landslide =
| after活動拠点 = 5000回
| 給料 =
| mostafter = 10月18日にMw:5.2<ref name="国土庁24">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.24</ref>
| 純資産 =
| deaths = 死者62-63人<br>負傷者3757人
| 身長 =
| money = 約60億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]
| 体重 =
| area = [[北カリフォルニア]]<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.4-5</ref>
| 肩書き =
| 任期 =
| 前任者 =
| 後任者 =
| 政党 =
| 政治運動 =
| 敵対者 =
| 配偶者 = [[石川啄木]]
| 子供 = 石川京子
| 親 =
| 親戚 = [[石川正雄]](義理の息子、長女の夫)
| 受賞 =
| 補足 =
}}
'''石川 節子'''(いしかわ せつこ、[[1886年]]〈[[明治]]19年〉[[10月14日]] - [[1913年]]〈[[大正]]2年〉[[5月5日]])は、[[石川啄木]]の妻。
 
その前半生は平穏に過ぎ、啄木との長い恋愛ののちに結婚する<ref name="堀合216">[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] p.216</ref>。1905年(明治38年)5月末の結婚式に啄木が欠席した時に、節子は「吾はあく迄愛の永遠性なると言ふ事を信じ度く候」という決意を表明した<ref>[[#岩城(1985)|岩城(1985)]] pp.219</ref>。夫には生活力がなく、絶え間ない流転と別離の日々が続くなか<ref>[[#石川(1936)|石川(1936)]] p.236</ref>、愚痴一つこぼさず、女手一つで幼い娘の京子を抱え、確執のある姑のかつ子を養いながら、窮乏した生活を耐え忍んだ<ref>[[#石川(1936)|石川(1936)]] p.237</ref>。1909年(明治42年)10月の彼女の家出事件は啄木に深刻な打撃を与え、その文学と思想にも大きな影響をもたらした<ref>[[#岩城(1985)|岩城(1985)]] pp.234-235</ref>。啄木との結婚生活は1912年(明治45年)4月まで、満7年にも満たず、同居した期間は5年もなかった<ref>[[#澤地(1981)|澤地(1981)]] p.229</ref>。啄木は病魔のため大成を見ずに亡くなり、節子もまた同じ病で若くしてこの世を去った<ref name="堀合216" />。
'''ロマ・プリータ地震'''(ロマ・プリータじしん、{{Lang-en|'''Loma Prieta earthquake'''}})は、[[太平洋夏時間]]で[[1989年]][[10月17日]]17時4分に[[アメリカ合衆国]][[北カリフォルニア]]の[[サンフランシスコ・ベイエリア]]で発生した[[地震]]である。この地震の名前はカリフォルニア州[[サンタクルーズ (カリフォルニア州)|サンタクルーズ]]市より北東16㎞の{{仮リンク|サンタクルーズ山地|en|Santa Cruz Mountains}}にある{{仮リンク|ロマ・プリータ|en|Loma Prieta|label=ロマ・プリータ山}}近くが[[震源]]であったことから名付けられた。
 
[[]]
[[サンアンドレアス断層]]付近の地震の規模としては[[1906年]]に発生した[[サンフランシスコ地震]]以来最大となる[[マグニチュード]](M)7.1を記録し<ref name="建築学会5">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.5</ref>、震源となった山奥から約100㎞程度離れた近代的な設備を備えた都市である[[サンフランシスコ]]市や[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]市においても海岸部の[[埋立地|埋め立て地]]を中心に大きな被害が発生した<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.16</ref>。この地震による被害総額は60億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]近くに達し、アメリカ史上最も経済的損害の大きい[[自然災害]]となった。また、この日に[[1989年のワールドシリーズ|同年のワールドシリーズ]]第3戦が予定されていたため、アメリカの全国ネットのテレビ放送でその発生する瞬間が生中継された最初の大地震として人々に記憶されることになった。
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
 
== 背景 ==
=== 地質 ===
[[カリフォルニア州]]は[[アラスカ州]]と並び、[[アメリカ合衆国]]において突出して地震危険が高い[[アメリカ合衆国の州|州]]となっている<ref>[[#損保(2007年)|損保(2007年)]] p.3</ref>。[[本震]]が発生した地域で最も支配的な[[地質]]構造となっているのが[[サンアンドレアス断層]]であり、この断層の西側は[[太平洋プレート]]に、東側は[[北アメリカプレート]]に属する<ref name="国土庁7">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.7</ref>。中間部は[[クリープ断層]]になっているが、北部と南部は大地震を引き起こす場所となっている<ref name="建築学会9">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.9</ref>。[[プレートテクトニクス]]では[[トランスフォーム断層]]に位置付けられている<ref name="建築学会9" />。サンアンドレアス断層は[[1906年]]に発生した[[サンフランシスコ地震]]によって広く知られるようになり、この地震前後の測地測量の結果から有名な地震発生モデル「[[弾性反発説]]」が提唱された。後年にこの考えが発展して「地震は断層運動によって起こるもの」とする説が生まれた<ref>[[#阿部(1990年)|阿部(1990年)]] p.227</ref>。
 
[[File:1909 Ishikawa Setsuko.jpg|thumb|350px|right|家出期間中の節子と堀合の家族(明治42年10月)。前列右より、堀合了輔、工藤その、石川京子、祖母キン、堀合ろく子、母の堀合とき子、堀合克巳、石井京。後列右より、堀合赳夫、父の堀合忠操、堀合孝子、堀合忠直、堀合ふき子、節子、高橋ノシ、宮社フシ]]
{{main|サンアンドレアス断層}}
=== 死 ===
[[震央]]に近い{{仮リンク|サンタクルーズ山地|en|Santa Cruz Mountains}}は脆弱な[[第三紀]]の[[堆積物]]が分布しており、[[地すべり]]が多い地域として知られている<ref name="国土庁7" />。また、[[震源#震源と震源域|震源域]]はサンアンドレアス断層とサージェント断層の接合部にあたり、その西側にはザヤンテ断層が存在する複雑な地質構造になっている<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.8</ref>。
大正2年4月13日、浅草の等光寺において、与謝野寛、[[北原白秋]]、金田一京助、土岐哀果らを発起人として、61名が出席して啄木の一周忌の追悼会が行われた。この会で去る3月23日に、函館の啄木未亡人節子の代理として[[函館市中央図書館|函館図書館]]の[[岡田健蔵]]が上京して、等光寺に埋葬してあった啄木とカツの遺骨を、函館に持ち帰ったことを報告した<ref>[[#冷水(1968)|冷水(1968)]] pp.82-85</ref>。一方、函館図書館でも同じ日に啄木の一周忌の追悼会が催されている。宮崎郁雨、岡田健蔵が幹事となり、堀合忠操、斎藤大硯、岩崎白鯨ら20名あまりが出席している<ref>[[#冷水(1968)|冷水(1968)]] p.88</ref>。この来会者の席上で、啄木と面識のない斎藤咀華が写真を参考にし、宮崎ら友人たちの意見も取り入れて、描いた肖像画の油絵が披露されている<ref name="山下157">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.157</ref>。追悼会の数日後、「苜蓿社」時代の啄木の友人・岩崎白鯨は、この絵を一目節子に見せようと、岡田健蔵と連れだって病院を訪ねた<ref name="山下157" /><ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] p.214</ref>。岡田は絵を前にして、当日の様子について詳しく話し、これを機会に啄木会として「啄木文庫」を創設し、啄木の関係資料の収集や保存をしていくことを約束している。節子は啄木が残した日記、書簡および遺稿など一切を「啄木文庫」に託すことを言い残したと伝えられる<ref>[[#坂本(1998)|坂本(1998)]] p.464</ref>。病室の節子は痩せ衰え、正視できないほどだったが、せきをしながら鬼気迫る表情で啄木の絵を見つめて、離そうとしなかった。二人はその場にいたたまれず、絵をそのままにして、病室を出ていくしかなかった。岩崎はその時の様子を、次のように書き記している<ref>磐幸正「啄木遺稿と歌集」(上)『函館毎日新聞』1913年6月21日付朝刊、1面</ref>。
{{Quotation|その時は見て貰ったら直ぐ持って帰る積りで行ったのだが節子さんが咳入り〱乍ら一心に眺めてゐるものを、とても持って帰る訳に行かなかったそれで、こっそり岡田君に耳打して、飽きたら返して貰う事にして画を置いて二人ハ帰ったそれは僕にしてハ永の別れであった。(中略)外へ出てから岡田君に、画を持って帰るに忍びなかったと云ったら、同君も同感だと云ってうつむいた。岡田君もあれを最後に、節子さんに逢はなかったことと思ふ。|岩崎白鯨}}
節子は啄木の肖像画とともに、残りの二週間ほどの命を生きた<ref name="山下157" />。
 
== 血縁の人物のその後 ==
=== 予知・前兆 ===
サンフランシスコ地震の際に本震の震源域は破壊されたが、そのスリップ量は別の場所に比べて小さかった。そのために1983年頃から何人かの[[地震学|地震学者]]は[[マグニチュード]](M)6.5-7.0程度の地震がいずれ起こるだろうと予測し、{{仮リンク|国家地震予知評価委員会|en|National Earthquake Prediction Evaluation Council}}(NEPEC)も長期的に見て地震が発生する危険性を認めていた<ref name="建築学会10">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.10</ref>。
 
[[アメリカ地質調査所]](USGS)のスタッフを中心とする12名で構成されるワーキンググループが1988年2月にNEPECに報告原案書を提出し、NEPECがこれを一部修正した後に承認して公表されたのが「カリフォルニア・サンアンドレアス断層上の大地震発生の確率」である。この中では本震の震源域となったサンタクルーズ山地で1988年から2018年の間にM6.5以上の地震が発生する確率は30%とされていたが、この地域における過去の地震に関する情報の欠如などを理由として信頼度は5段階で最低のEとされていた<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.14-15</ref>。
 
本震の[[震源]]となった{{仮リンク|ロマ・プリータ|en|Loma Prieta|label=ロマ・プリータ山}}周辺は地震発生直前の20年間で明らかに地震活動が低い空白域となっており、前兆と見なせる地震活動も1988年6月27日に{{仮リンク|エルスマン湖|en|Lake Elsman}}付近で発生した地震と1989年8月8日に{{仮リンク|レキシントン貯水池|en|Lexington Reservoir}}付近で発生した地震の2つだけであった<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.20</ref>。しかし、このような空白域で短期間の間に発生した2つのM5クラスの地震を受けてカリフォルニア州当局は「続く5日間にかなりの地震が発生する可能性がある」との見解を示した<ref name="建築学会13">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.13</ref>。なお、8月8日の地震では19歳の男がパニックを起こしてアパート5階の寝室の窓から飛び降りて死亡する事故が発生している<ref>{{Cite web|author=Times Wire Services|url=http://articles.latimes.com/1989-08-08/news/mn-321_1_quake-jolts-bay-area|title=1 Dead as 5.1 Quake Jolts Bay Area : Man, 19, Leaps to Death in Panic; Damage Minor|publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ|LATimes.com]]|language=英語|date=1989年8月8日|accessdate=2015年2月9日}}</ref>。
 
直前予知の実現に向けて様々な取り組みがなされていたが、直前の前兆は観測されなかった<ref name="建築学会13" />。本震の震源域をカバーしていたのは[[地震計]]の観測網及び測地のみであり、そのほとんどが震源から約200km南東にある[[非法人地域]]の{{仮リンク|パークフィールド (カリフォルニア州)|en|Parkfield, California|label=パークフィールド}}付近に集中していたため、本震に対する予知体制としては十分に取られているとは言えないものであった<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.16</ref>。
 
== 伝記作品 ==
ゲオタイムズ誌の1990年2月号は「もし、それが本当に前兆現象なら興味深い」という[[サブタイトル]]を添えて震央より約20㎞にある[[国勢調査指定地域]]の{{仮リンク|コラリトス (カリフォルニア州)|en|Corralitos, California|label=コラリトス}}に置かれた[[磁場]]に前兆と見られる現象が発生したことを報じている<ref>[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] p.16</ref>。ところが、後年の研究ではこれは[[磁気センサ]]の誤作動であったかもしれないという懐疑的な見方が示されている<ref>{{Cite journal|last1=Thomas|first1=J.N.|last2=Love|first2=J.J.|last3=Johnston|first3=M.J.S.| title=On the reported magnetic precursor of the 1989 Loma Prieta earthquake|doi=10.1016/j.pepi.2008.11.014 |journal=Physics of the Earth and Planetary Interiors|volume=173|issue=3–4|pages=207–215|date=2009年4月|bibcode=2009PEPI..173..207T}}</ref>。
 
== 地震動 ==
=== 要素 ===
[[File:1989 Loma Prieta earthquake seismogram.jpg|right|200px|thumb|ロマ・プリータ地震の波形]]
[[File:Santa Cruz Mountains – Loma Prieta Peak.JPG|right|200px|thumb|震源近くにあるロマ・プリータ山の山頂]]
[[File:Loma Prieta earthquake Isoseismal Map.gif|325px|right|thumb|震度分布図(クリックで拡大)]]
ロマ・プリータ地震の震源要素は次の通りである。USGSは世界600か所の地震観測所から[[データ]]を収集して値を求めた<ref name="建築学会1">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.1</ref>。
 
* 発生時刻:[[1989年]][[10月17日]]17時4分15.2秒([[太平洋夏時間]])<ref name="建築学会1" />、10月18日0時4分15.2秒 ([[協定世界時]])<ref name="建築学会1" /><ref name="国土庁21">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.21</ref>
* 震央:[[緯度|北緯]]37度2分9秒、[[経度|西経]]121度52分58秒<ref name="建築学会1" /><ref name="国土庁4">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.4</ref>(カリフォルニア州[[サンタクルーズ (カリフォルニア州)|サンタクルーズ]]市より北東16㎞、サンタクルーズ山地のロマ・プリータ山近く<ref name="建築学会1" />にある{{仮リンク|ザ・フォレスト・オブ・ニシーン・マークス州立公園|en|The Forest of Nisene Marks State Park}}<ref>{{Cite web|author=Terri Morgan|url=http://www.santacruzsentinel.com/general-news/20141017/hikers-get-close-up-view-of-1989-loma-prieta-earthquake-epicenter|title=Hikers get close-up view of 1989 Loma Prieta earthquake epicenter|publisher=SantaCruzSentinel.com|language=英語|date=2014年10月17日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>)
* 震源の深さ:17.6<ref name="建築学会1" /><ref>[[#秋元(1990年)|秋元(1990年)]] p.61</ref>-18.5㎞<ref name="国土庁21" />
* 地震の規模:[[マグニチュード#モーメントマグニチュード Mw|Mw]]7.1(改訂後の値で改訂前の値は6.9<ref name="建築学会5" /><ref name="国土庁21" />、1993年のUSGSの資料でも6.9<ref name="USGS">{{Cite web|author=Carl W. Stover,Jerry L. Coffman|url=http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/states/events/1989_10_18.php|title=Historic Earthquakes Santa Cruz Mountains (Loma Prieta), California 1989 10 18 00:04:15 UTC (Local 1989 10 17 05:04:15 p.m. PDT) Magnitude 6.9 Intensity IX|publisher=[[アメリカ地質調査所|USGS.gov]]|language=英語|accessdate=2015年3月1日}}</ref>)
* 断層型:[[断層#逆断層|逆断層]]成分を伴う右[[断層#横ずれ断層|横ずれ断層]]型<ref name="国土庁4" /><ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.7</ref>
 
=== 名称 ===
USGSによって地震名はロマ・プリータ地震と命名された<ref name="国土庁4" />。カリフォルニア州サンタクルーズ市より北東16㎞のサンタクルーズ山地にある[[高さ#標高|標高]]1157mのロマ・プリータ山近くが震源であったことから名付けられた<ref name="建築学会1" />。[[スペイン語]]でロマは「なだらかな山」、プリータは「黒ずんだ」を意味する<ref name="建築学会1" />。他に「サンタクルーズ山地地震」<ref name="建築学会1" /><ref name="衣笠7">[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] p.7</ref>、「サンフランシスコ湾岸地震」<ref name="衣笠7" /><ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] タイトル</ref>、「サンフランシスコ地震」<ref>[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] タイトル</ref><ref>{{Cite web|author=山村武彦|url=http://www.bo-sai.co.jp/sub11.html|title=サンフランシスコ地震の教訓|publisher=Bo-sai.co.jp|accessdate=2015年3月1日}}</ref>と呼ばれることもある。
 
=== 規模 ===
USGSの合計38か所の地震観測所(内訳:地盤観測点21か所、構造物観測点17か所)と{{仮リンク|カリフォルニア地質調査所|en|California Geological Survey}}(CGS)の合計93か所の地震観測所(内訳:地盤観測点53か所、構造物観測所40か所)で本震の記録が採取され、11月に入る前に公表された<ref>[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] p.12</ref>。発生直後には少数の観測値から暫定的に求められたM6.9が世界中に報道されたが、後日に多数の観測値をもとにM7.1に改訂された<ref name="建築学会5" />。[[カリフォルニア大学バークレー校]]の地震観測所が求めたローカル・マグニチュード(ML)は7.0である<ref name="建築学会5" />。
 
震源南側の[[サリナス (カリフォルニア州)|サリナス]]市から[[バークレー (カリフォルニア州)|バークレー]]市に至る{{仮リンク|太平洋沿岸|en|Pacific coast}}の広い地域においては[[メルカリ震度階級|改正メルカリ震度]](MM震度階)はⅦと推定された<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.18</ref>。震源地のMM震度階はⅧとされている<ref name="建築学会2">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.2</ref>。震央に近いサンタクルーズ市、{{仮リンク|ロスガトス (カリフォルニア州)|en|Los Gatos, California|label=ロスガトス}}市、[[ワトソンビル (カリフォルニア州)|ワトソンビル]]市、{{仮リンク|レッドウッドエステイツ (カリフォルニア州)|en|Redwood Estates, California|label=レッドウッドエステイツ}}市などの市街地においても木造住家や古い[[組積造|組積造り]]建物に対する多数の被害状況に基づいてⅧに見積もられた<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.18-19</ref>。また、[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]市の{{仮リンク|州間高速道路880号線|en|Interstate 880}}の{{仮リンク|サイプレス高架橋|en|Cypress Street Viaduct}}では二重床構造部分が崩壊し、[[サンフランシスコ]]市北部の{{仮リンク|マリーナ地区 (サンフランシスコ)|en|Marina District, San Francisco|label=マリーナ地区}}の明瞭な地盤の破壊現象を生じていないような場所においても数多くの構造物の崩壊や多くの建物に対する広範的被害が発生している。こうした深刻な被害状況に鑑みて、サンフランシスコ市やオークランド市の局地的に限定された場所ではMM震度階でⅨの評価が与えられた<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.19</ref>。なお、MM震度階Ⅸは日本で[[震度]]基準として採用されている[[気象庁震度階級]]で6-7に相当する<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.16</ref>。同じサンフランシスコ市内でも場所によってMM震度階はⅥからⅨまで様々に変化した<ref name="大久保35">[[#大久保(1990年)|大久保(1990年)]] p.35</ref>。
 
有感範囲は450㎞北方の[[ユーレカ (カリフォルニア州)|ユーレカ]]市、500㎞南東の[[ロサンゼルス]]市、350㎞北東の[[ネバダ州]][[リノ (ネバダ州)|リノ]]市まで及んだ<ref name="建築学会2" />。630㎞南東の[[サンディエゴ]]市では[[高層建築物|高層ビル]]が揺れた<ref name="建築学会2" />。
 
[[表面最大加速度]]は水平方向で0.64[[重力加速度|g]](コラリトス)、上下方向で0.60g({{仮リンク|キャピトラ (カリフォルニア州)|en|Capitola, California|label=キャピトラ}}市)を記録した。また、構造物内の最大加速度は基礎部で上下動0.66g、上層部で水平動1.24g(いずれもワトソンビル市内の4階建てビル)を記録した<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.31</ref>。
 
[[余震]]は約5000個観測されているが、カリフォルニア州の過去の大地震と同様に時間の経過とともに発生頻度は順調に減少していった<ref name="国土庁24" />。このうち特に規模の大きいM5クラスの2個とM4クラスの20個の余震はいずれも10日以内に発生している<ref name="建築学会5" />。10月18日に発生した余震は震源地に大きな揺れをもたらし、ワトソンビル市などで被害を増すことになった<ref name="建築学会1" />。
 
=== メカニズムの解析 ===
[[デジタル]]のデータが電話や[[コンピュータネットワーク]]を通して入手出来るようになったり、最新の高性能の地震計による観測が世界各地で公開されるようになったことなどの背景もあり、発生直後から世界中の様々な研究者によってその[[メカニズム]]が解析された<ref name="建築学会6">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.6</ref>。求められた断層運動によると、その規模は1906年のサンフランシスコ地震の20分の1程度である<ref name="建築学会10" />。ほぼ北東-南西方向の走向に垂直な傾斜を持つ断層面を境界として西側の太平洋プレートが東側の北アメリカプレートに対し、右ずれ約1.9m・南西側[[隆起と沈降|隆起]]約1.3mで約2.3m総変位する[[地殻変動]]が発生した<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.21-23</ref>。
 
この規模の大きさの地震としては珍しいことに地表に明瞭な地震断層が現れなかった。サンアンドレアス断層沿いの地震は通常10㎞前後であるのに対し、本震は約18㎞と震源が深かったことがその理由の一つとして挙げられる<ref name="国土庁26">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.26</ref>。また、[[衣笠善博]]は震源域が複雑な地質構造になっているために「地表では断層は多数の小断層に分岐し、単一の断層としては現れなかったとの説明も可能である」としている<ref>[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] p.9</ref>。断層運動は6-18㎞の深さで発生した<ref name="建築学会9" />。余震活動はサンアンドレアス断層付近に約60㎞の範囲に及んだが、本震によって[[ひずみエネルギー]]の大部分が開放されたために多様なメカニズムを示している<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.25-26</ref>。
 
サンフランシスコ地震について詳しい『世界の果てが砕け散る』の著者、{{仮リンク|サイモン・ウィンチェスター|en|Simon Winchester}}によると、1906年に解放されて以降にサンアンドレアス断層で蓄積されていた圧力をいくらか発散させた結果として本震が発生したという解釈が発生当初から根強くあった(例として、1990年発行の[[日本建築学会]]の報告書には「ロマプリータ地震はサンアンドレアス断層で起きた地震である」<ref name="建築学会6" />、同じく1990年発行の国土庁防災局の報告書には「以上の調査結果からサンアンドレアス断層がこの地震の主断層であると推定される」<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.25</ref>とそれぞれ記述されている)が、地質学者の計測や調査によってサンアンドレアス断層の典型的運動のそれとは完全に異質であることが確認されたので誤った見方だと判明しているという<ref>[[#ウィンチェスター(2006年)|ウィンチェスター(2006年)]] pp.400-401</ref>。この考えが正しい場合、サンアンドレアス断層が最後に動きを見せたのは1989年ではなくてサンフランシスコ地震が発生した1906年ということになり、毎年少しずつ基盤が移動して生ずるひずみエネルギーが100年以上も蓄え続けられていることになるわけである<ref>[[#ウィンチェスター(2006年)|ウィンチェスター(2006年)]] p.401</ref>。USGSは2003年にこの考えに基づき、サンアンドレアス断層群で2032年までにM6.7以上の地震が発生する確率は62%あると発表している<ref>[[#ウィンチェスター(2006年)|ウィンチェスター(2006年)]] pp.401-402</ref>。
 
== 地盤変状 ==
=== 液状化 ===
[[File:LomaPrieta-Marina2.jpg|right|200px|thumb|サンフランシスコ市マリーナ地区。液状化によって損傷した歩道]]
サンフランシスコ市のマリーナ地区は地盤の[[液状化現象]]が顕著であった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.99</ref>。マリーナ地区においては[[埋立地|埋め立て地]]と砂丘砂の地域では地震動の大きさにあまり差はないが、液状化被害の程度は両者で大きく差が開いた<ref name="衣笠13">[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] p.13</ref>。同市の[[マーケット・ストリート (サンフランシスコ)|マーケット通り]]沿いの埋め立て地({{仮リンク|サウス・オブ・マーケット (サンフランシスコ)|en|South of Market, San Francisco|label=マーケット通り南地区}}、{{仮リンク|サンセット地区 (サンフランシスコ)|en|Sunset District, San Francisco|label=サンセット地区}}など)においても大規模な液状化現象が発生した<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.132</ref>。比較的新しい埋め立て地であった[[サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ|サンフランシスコ‐オークランド・ベイブリッジ]]のオークランド側アプローチ部でも大規模な液状化が発生(液状化に伴う{{仮リンク|噴砂|en|Sand boils}}、地割れ、陥没も確認<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.57-58</ref>)し、地表面での沈下([[地盤沈下]])量は最大40㎝にも及んだ<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.137</ref>。[[サンフランシスコ・ベイエリア]]でこの他に大規模な液状化が発生したのは[[オークランド国際空港 (カリフォルニア州)|オークランド国際空港]](その修理費用は3000万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]にのぼると見積もられた<ref>[[#McDonnell(1993年)|McDonnell(1993年)]] p.58</ref>)、{{仮リンク|オークランド港|en|Port of Oakland}}、{{仮リンク|アラメダ海軍航空基地|en|Naval Air Station Alameda}}、{{仮リンク|ベイファーム島 (カリフォルニア州アラメダ)|en|Bay Farm Island, Alameda, California|label=ベイファーム島}}、[[人工島]]の{{仮リンク|トレジャー島 (サンフランシスコ)|en|Treasure Island, San Francisco|label=トレジャー島}}などである<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.138-139</ref>。震源南側地域ではサンタクルーズ市内、ワトソンビル市周辺の{{仮リンク|パハロ川|en|Pajaro River}}流域(液状化に伴う{{仮リンク|砂火山|en|Sand volcano}}の形成も確認<ref>{{Cite web|url=http://pubs.usgs.gov/dds/dds-29/web_pages/watsonville.html|title=XIV. WATSONVILLE AREA|publisher=USGS.gov|language=英語|accessdate=2015年3月1日}}</ref>)、国勢調査指定地域の{{仮リンク|モスランディング (カリフォルニア州)|en|Moss Landing, California|label=モスランディング}}(河川沿いの地域や太平洋沿岸)などで大規模な液状化が発生している<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.140-142</ref>。
 
ベイエリアに面するサンフランシスコ市とオークランド市の液状化が厚く堆積した軟弱な粘土層(ベイマッド)上の埋め立て地盤上で発生しているのに対し、震源に近いサンタクルーズ市とワトソンビル市の液状化は河川沿いの沖積砂層で多く発生している<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.39</ref>。また、{{仮リンク|エンバカデロ (サンフランシスコ)|en|Embarcadero (San Francisco)|label=エンバカデロ}}沿いの[[フィッシャーマンズワーフ (サンフランシスコ)|フィッシャーマンズ・ワーフ]]近くの地域、[[サンフランシスコ湾]]沿いのオークランド市を含めた埋め立て地、{{仮リンク|モンテレー湾|en|Monterey Bay}}沿いのサンタクルーズ市とワトソンビル市とモスランディングなど、1906年のサンフランシスコ地震と液状化発生地域の大部分が一致しているのも特徴である<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.142-143</ref>。しかし、ベイエリア南部の{{仮リンク|アラメダ・クリーク|en|Alameda Creek}}と{{仮リンク|コヨーテ・クリーク (サンタクララ郡)|en|Coyote Creek (Santa Clara County)|label=コヨーテ・クリーク}}沿いの地域などのようにサンフランシスコ地震では大規模な液状化が発生したが、本震では液状化が発生しなかった河川沿いの地域もあった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.143</ref>。[[計画都市]]の[[フォスターシティ]]では南北に広がる未改良地盤で液状化が発生した一方で、地盤改良が行われていた住宅地は液状化を抑止することが出来た<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.40</ref>。オークランド空港でも[[滑走路]]の北側部分とそれに続く[[誘導路]]に大規模な液状化現象が見られ、亀裂や沈下、段差などが生じた一方で<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.266</ref>、地盤の締め固めが十分に行われた滑走路の南側部分と[[エプロン (飛行場)|エプロン]]では液状化を抑止することが出来た<ref>[[#港湾技研(1990年)|港湾技研(1990年)]] pp.44-45</ref>。全体の液状化の程度としては、1906年の被害地域のごく一部が液状化して被害となったものであり、サンフランシスコ地震のそれと比較すると極めて小規模にとどまっている<ref>[[#磯山(1989年)|磯山(1989年)]] p.78</ref>。
 
=== 土砂災害 ===
地すべりが発生したのは500-1000か所(カリフォルニア大学バークレー校による)でその範囲は14000k㎡に及び、サンフランシスコ・ベイエリアとサンタクルーズ市からモンテレー湾岸地域に集中的に発生した<ref name="建築学会149">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.149</ref>。この中でも特にサンタクルーズ山地内にある[[ゴーストタウン]]の{{仮リンク|ローレル (カリフォルニア州)|en|Laurel, California|label=ローレル}}周辺で多発している<ref>[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] p.10</ref>。地すべりによる住居や公共施設の被害は少なく見積もっても数十億ドルにのぼると見られている<ref name="建築学会149" />。
 
[[がけ崩れ]]などの[[斜面崩壊]]はサンタクルーズ山地の南西斜面で最も大きな被害が生じた<ref>[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] p.11</ref>。がけ崩れの事故によって少なくとも2人が死亡した<ref name="国土庁44">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.44</ref>。一日当たり数万人の通勤者に利用されていたサンタクルーズ市とベイエリアを結び、サンタクルーズ山地を抜ける{{仮リンク|カリフォルニア州道17号線|en|California State Route 17|label=州道17号線}}もがけ崩れの影響で寸断されてしまった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.148</ref>。
 
地すべりとがけ崩れの他には震源域、主に州道17号線の西でサンアンドレアス断層の西側の長さ8㎞、幅2.5㎞の範囲に数多くの[[地割れ]]が発生している。これらの地割れの多くがサンアンドレアス断層の走向にほぼ一致しているが、変位のセンスは右ずれ、左ずれ、横ずれ、単純開口と多様であった<ref name="国土庁44" />。
 
=== 津波 ===
震央から50㎞離れたモンテレー湾では本震が発生して約20分が経過した17時25分頃から最大波高40㎝(-45㎝<ref>[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] p.8</ref>)で周期9分の[[津波]]が発生している<ref name="建築学会5" />。サンタクルーズ市の[[ヨットハーバー]]で小規模な津波現象が見られたとする報告もある<ref name="国土庁26" />。カリフォルニア州で地震による津波が発生するのは稀である<ref name="建築学会5" />。
 
== 被害状況 ==
{{External media
|width=275px
|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=zwJEBybPkHc 本震による15秒間の震動<br />(1989年に放送されたKSBWによる特集)]
|video2=[https://www.youtube.com/watch?v=cKhDM076mYo 死、破壊、荒廃<br />(1989年に放送されたKSBWによる特集)]
|video3=[https://www.youtube.com/watch?v=TpgiXP7kkU4 余震<br />(1989年に放送されたKSBWによる特集)]
|video4=[https://www.youtube.com/watch?v=kSw0vhxG3yQ サンタクルーズを訪問するブッシュ大統領<br />(1989年に放送されたKSBWによる特集)]
|video5=[https://www.youtube.com/watch?v=OsPNxkE55fM テント生活を送るワトソンビルの被災者<br />(1989年に放送されたKSBWによる特集)]
|video6=[https://www.youtube.com/watch?v=iygnt0OVjvo モスランディングの地表の大きな裂け目<br />(1989年に放送されたKSBWによる特集)]
|video7=[https://www.youtube.com/watch?v=yaFTnvabBRg 親睦を深めるセントラルコーストの住民<br />(1989年に放送されたKSBWによる特集)]
}}
 
=== 死傷者数 ===
サンフランシスコ市駐在の日本総領事館がカリフォルニア州緊急対策本部に1989年11月15日付で問い合わせをして11月30日に回答を得たデータによると、死者は62人(1993年のUSGSの資料では63人<ref name="USGS" />)、負傷者は3,757人、退避者は7,900人である<ref name="建築学会111">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.111</ref>。マーティン・レッドファーンは前年の1988年に発生した同じM7クラスの[[アルメニア地震]]を比較対象として挙げ、死者が極めて少なくなったのはカリフォルニア州の[[建築基準法]]の設定基準が厳しいためとの見解を示している<ref>[[#レッドファーン(2013年)|レッドファーン(2013年)]] pp.178,180</ref>。
 
オークランド市内にある下記のサイプレス高架橋では2階建て形式の道路が約1㎞にわたって連続して崩壊したために通行中の多くの車が圧壊してしまい、震災による死者の内の多数が発生した<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.97</ref>。この高架橋の事故は42人の死者と数百人の負傷者を出す惨事となった<ref name="SFGate">{{Cite web|author=Kevin Fagan|url=http://www.sfgate.com/bayarea/article/On-the-Cypress-Freeway-Strangers-Joined-Together-2903404.php|title=On the Cypress Freeway, Strangers Joined Together for a Snap in Time / Famous photo shows one of many heroic rescues|publisher=[[サンフランシスコ・クロニクル|SFGate.com]]|language=英語|date=1999年10月12日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。サンフランシスコ市のマーケット・ストリート南部では古い組積造り建物の外壁が崩壊する事故が発生し、通り沿いに車を停車していた5人が死亡した<ref>{{Cite web|url=ftp://ftp.ngdc.noaa.gov/hazards/cdroms/geohazards_v2/document/647013.htm|title=The Loma Prieta Earthquake, October 1989 Part 2: Effects in San Francisco and Oakland|publisher=[[アメリカ海洋大気庁|NOAA.gov]]|language=英語|date=|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。また、サンタクルーズ市の[[ダウンタウン]]、パシフィック・ガーデン・モールではフォードのデパートの天井とコーヒーショップの天井が崩壊する事故が発生し、合わせて3人が死亡した<ref>{{Cite web|author=Phil Gomez|url=http://www.ksbw.com/news/central-california/santa-cruz/santa-cruz-loma-prieta-victims-remembered/29203626|title=Downtown Santa Cruz's 3 Loma Prieta victims remembered|publisher=KSBW.com|language=英語|date=2014年10月17日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。サンフランシスコ市のマリーナ地区では建物が倒壊して合わせて4人が死亡した<ref>{{Cite web|author=Ryan Gorman|url=http://www.aol.com/article/2014/10/17/a-look-back-at-the-1989-earthquake-that-rocked-san-francisco-and-oakland-world-series-25-years-later/20979983/|title=The 1989 earthquake that rocked San Francisco, Oakland and the World Series|publisher=[[AOL|AOL.com]]|language=英語|date=2014年10月17日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
=== ライフラインへの影響 ===
==== 電力供給施設 ====
サンフランシスコ・ベイエリアの電力供給は全米でも民間としては最大規模の電力・ガス会社の[[パシフィック・ガス・アンド・エレクトリック・カンパニー]](PG&E)社によって行われており、電力の需要家軒数は約400万軒である<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.278</ref>。{{仮リンク|モスランディング火力発電所|en|Moss Landing Power Plant}}(震央から27㎞)内の[[変電設備]]、メトカフ変電所(震央から25㎞)、サンフランシスコ市への電力供給の中心的役割を担うサンマテオ変電所で被害が生じた<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.216-217</ref>。このためにPG&E社の全需要家の約3分の1に相当する約140万軒が[[停電]]した<ref name="建築学会284">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.284</ref>。
 
PG&E社は本震が発生してから1時間後には本社内に電力・ガスの供給施設の被害状況を把握し、復旧作業の指揮を執ることを目的とする非常対策本部(EOC)を設置した<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.217</ref>。48時間後には26000軒(うち8000軒はサンフランシスコ市マリーナ地区)を除く全需要家への電力が復旧したが、この停電によってサンフランシスコ市中心部の都市機能はほぼ2日間停止してしまった<ref name="建築学会284" />。
 
==== ガス供給施設 ====
サンフランシスコ・ベイエリア一帯すべてのガス供給を行うPG&E社のガス部門は[[天然ガス]]を供給する全米2位の規模のガス会社である<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.271</ref>。サンフランシスコ市北部のマリーナ地区と震央に近いサンタクルーズ市、ワトソンビル市、ロスガトス市でガス本管と需要家設備に被害が生じている<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.221</ref>。PG&E社の全需要家件数350万軒のうち、16万2000軒が供給停止となっているが、このうちの15万6000軒は需要家自身が元栓を締めたものであり、PG&E社が本管のバルブを遮断したのは6000軒(そのうちの5000軒がマリーナ地区)である<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.114</ref>。本震後のテレビやラジオの報道では「ガスの臭いがする場合は」という部分を省略して、ただひたすら元栓を締めるように繰り返しメッセージを流していた<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.276</ref>。
 
ガスの元栓の開栓作業のために多数の要員が投入されることになった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.274</ref>。マリーナ地区を除く地域の復旧は10月25日までに完了した<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.222</ref>。液状化に伴って古い鋳鉄管が大きな被害を受けたマリーナ地区では16㎞のガス本管と需要家の引込み管をほぼすべて更新することになったためにPG&E社は400人を超える要員を配置して特別な組織と対応を行い、当初の予定より3か月も早く11月20日に復旧を完了することが出来た<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.221-222</ref>。なお、PG&E社はマリーナ地区の住民の理解を得るために復旧作業期間中も毎週作業の進捗に関する広報紙の配布、毛布や壊れた窓のシールの無料配布、60人分の温水シャワー車の導入などを行っている<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.223</ref>。
 
==== 水道施設 ====
サンフランシスコ・ベイエリアの[[上水道]]は主にいくつもの地方公共団体によって個別に供給されている<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.195</ref>。水道施設全体の被害は300万ドル、このうちサンフランシスコ市内の被害額は200万ドルと推定されている<ref name="建築学会113">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.113</ref>。サンフランシスコ市では地盤の軟弱な地域に限り、特に上水道の被害が顕著であった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.287</ref>。マリーナ地区は配水管と給水管あわせて111か所の被害があり、サンフランシスコ市全体の被害145か所のうち76.5%を占めている<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.287-288</ref>。
 
==== 電気通信施設 ====
[[電気通信]]施設への被害は通信網全体に影響を及ぼすような被害はなく、被害を受けた通信施設はそのほとんどが代替施設等に切り替えられた<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.202</ref>。サンフランシスコ・ベイエリアの加入数は330万である。これらの電話に対して本震発生直後より全米を始めとする世界中から問い合わせの電話が殺到してベイエリアの通信施設の処理能力を超える「[[輻輳|ふくそう]]」が発生したため、通信規制が10月18日から19日までの2日間実施された<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.211</ref>。10月21日には発着信呼数も平常時レベルに落ち着いた<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.304</ref>。
 
=== 建築物の地域別被害 ===
建築物の被害は震央の北側150㎞、南側50km、東西50㎞の範囲で発生している<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.155</ref>。震央より約100㎞のサンフランシスコ市やオークランド市では大規模または中規模の被害が発生する一方で、震央より50㎞前後の[[サンノゼ]]市での被害は比較的小規模であった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.43</ref>。軟弱地盤上の観測点を除外したデータ群ではサンフランシスコ方面へは大きな地震動が遠方まで伝わっている傾向が示されている<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.50</ref>。しかし、サンフランシスコ市とオークランド市の被害は局地的なものであり、それ以外で大規模な被害が発生しているのはサンタクルーズ市、ワトソンビル市、ロスガトス市といった震央に近い都市ばかりである<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.191</ref>。カリフォルニア州緊急対策本部のデータによると、被害建物は個人建物数23406棟で商用建物数3547棟、倒壊建物は個人建物数1015棟で商用建物数367棟以上とされている(サンノゼ市の被害は含まれず)<ref name="建築学会113" />。[[アメリカ赤十字社]]ゴールデンゲート支部のデータ(1989年11月中旬時点)によると、全壊建物数1621棟、半壊建物数3858棟、一部破壊建物数17025棟で被害建物数合計は22504棟とされている<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.193,287</ref>。しかし、本震によって特に大きな被害を受けた建築物は限定された地域の数種類の古い建築物に限られている<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.153</ref>。
 
本震災害による物的被害総額は60億ドル近くに達し、アメリカ史上最も経済的損害の大きい[[自然災害]]となった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.110</ref>。なお、5年後に発生した[[ノースリッジ地震]]の物的被害総額はこれをさらに3倍以上も上回る200億ドル以上にのぼると見積もられている<ref>{{Cite web|url=http://nisee.berkeley.edu/northridge/|title=Northridge Earthquake|publisher=[[カリフォルニア大学バークレー校|Berkeley.edu]]|language=英語|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・H・W・ブッシュ]]はカリフォルニア州の地震被害への救済金として11億ドルを支出する一連の法案に署名した<ref>{{Cite web|author=Carson Bruno|url=http://www.realclearmarkets.com/articles/2014/08/28/the_economic_impact_of_the_napa_earthquake_101247.html|title=The Economic Impact Of the Napa Earthquake|publisher=RealClearMarkets.com|language=英語|date=2014年8月28日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。ブッシュはカリフォルニア州の7郡の全域([[アラメダ郡]]、[[モントレー郡 (カリフォルニア州)|モントレー郡]]、[[サンベニト郡 (カリフォルニア州)|サンベニト郡]]、[[サンマテオ郡]]、[[サンタクララ郡]]、[[サンタクルーズ郡 (カリフォルニア州)|サンタクルーズ郡]]、サンフランシスコ郡)と3郡・2市の一部([[コントラコスタ郡 (カリフォルニア州)|コントラコスタ郡]]、[[マリン郡 (カリフォルニア州)|マリン郡]]、[[ソラノ郡 (カリフォルニア州)|ソラノ郡]]、{{仮リンク|トレイシー (カリフォルニア州)|en|Tracy, California|label=トレイシー}}市、{{仮リンク|イスレトン (カリフォルニア州)|en|Isleton, California|label=イスレトン}}市)を災害地域に指定している<ref name="建築学会111" />。1993年8月時点で、本震災害に対する[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]の出資は6億8900万ドルにのぼると見積もられた<ref>[[#プラット(1994年)|プラット(1994年)]] p.64</ref>。
 
==== サンフランシスコ市内 ====
[[File:BeachDivisideroMarinaLomaPrietaEarthquake.jpeg|right|250px|thumb|サンフランシスコ市マリーナ地区。延焼拡大した火災の現場跡]]
サンフランシスコ市マリーナ地区に本震で最も被害が大きい建物が集中している<ref>[[#レッドファーン(2013年)|レッドファーン(2013年)]] p.180</ref>。共同住宅が密集する住宅地であり<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.91</ref>、住宅のすべてが木造建築であった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.177</ref>。マリーナ地区はかつては[[入り江]]とそれを取り巻く[[干潟]]であり、[[ゴールドラッシュ]]([[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]])以後に徐々に埋め立てが行われていたが、1906年のサンフランシスコ地震ではこの埋め立て部に大きな被害が発生している<ref name="衣笠13" />。地区中心部は[[サンフランシスコ万国博覧会|パナマ太平洋万国博覧会]]の会場用地として建設が始まり、1914年に完了した埋め立て地である<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.129</ref>。同地区では液状化が発生した証拠となる噴砂も多くの研究者によって確認されており<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.129-130</ref>、液状化の影響でほぼすべての建物に何らかの被害が生じた<ref>[[#大久保(1990年)|大久保(1990年)]] p.34</ref>。サンフランシスコ湾からわずか300mほどの同地区のビーチ通りとデビサデロ通りの角地で最も被害が大きい火災が発生しているが、軟弱地盤上の1920年頃に建てられた木造の[[モルタル]]塗りの3階ないし4階建ての共同住宅が倒壊し、ガス管が祈損してガスが漏れ、暖房機の口火に着火したのが火災の原因と推定されている<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.362</ref>。なお、[[サンフランシスコ市警察]]は市内で最大の被害を出したマリーナ地区に現地対策本部を設け、初動段階で200名の警察官を投入し、救助活動、住民の避難誘導、立ち入り禁止区域(同地区の3分の1に当たる20[[街区|ブロック]])の設定とその警戒活動などを行っている<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.267</ref>。
 
延焼拡大した市内の火災は2件(マリーナ地区デビサデロ通りの角地とオーシャンサイド地区で1件ずつ)のみであり、合わせて6棟の共同住宅が全焼した<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.255-256</ref>。市内ではマリーナ地区の他にマーケット通り沿いの埋め立て地に被害が集中しているが、建物の被害の多くが古い組積造り建物であり、高層ビルの被害はほとんど見られなかった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.158,160-161</ref>。
 
==== サンフランシスコ以外 ====
[[File:LomaPrieta-PacificGardenMall.jpeg|right|250px|thumb|サンタクルーズ市のパシフィック・ガーデン・モールでは深刻な被害が生じた]]
震央に近いサンタクルーズ市ではパシフィック・ガーデン・モールにある古い組積造り建物に被害が集中した<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.166</ref>。オークランド市では組積造り建物の被害が多く見られたのに加えて1960年前後に建設された高層ビルにも被害が見られ、全体的にサンフランシスコを上回る建物の被害が生じた<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.161,164</ref>。ワトソンビル市の中心部のダウンタウンでは軒並みショーウインドウが割れ、この他にも被害が生じた相当数の建物が本震後に取り壊された<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.194</ref>。ロスガトス市では古い組積造り構造物の大破や木造の店舗で仕上げたモルタルが乖離したり、ガラスが割れたり、ガス管が破裂する被害が見られたが、被害が発生した地域は限られていた<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.169</ref>。震央から北40㎞に位置し、学生寮も含めて約400棟の構造物が存在する[[スタンフォード大学]]では構造物被害が総額1億6000万ドルにのぼると見積もられたが、幸いにも人的被害は数人の負傷者が出ただけであった<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.169-171</ref>。サリナス市の旧市街歴史地区では古い組積造り建物が一部損傷した<ref>{{Cite web|url=http://pubs.usgs.gov/dds/dds-29/web_pages/salinas.html|title=XVI. SALINAS|publisher=USGS.gov|language=英語|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
=== 土木構造物の被害 ===
被災地域内に約1500の{{仮リンク|カリフォルニア州交通局|en|California Department of Transportation}}(カルトランス)が管理する橋と、ほぼ同数の郡および市管理の橋があるが、このうち、3橋(サンフランシスコ‐オークランド・ベイブリッジ、サイプレス高架橋、ストラブスルー橋)が落橋・9橋が通行止めを伴う大きな損傷・13橋が中程度の損傷・65橋が軽微な損傷を受けたとされている<ref name="建築学会243">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.243</ref>。カルトランスによれば、道路施設の被害は18億にのぼると見積もられている<ref name="国土庁48">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.48</ref>。落橋した3橋と大きな損傷を受けた9橋を合わせた12橋はいずれも沖積粘性土層と分類される地盤上に構築されていた<ref name="国土庁48" />。モスランディング周辺では液状化の影響で近くの低湿地を通る{{仮リンク|モスビーチ (カリフォルニア州)|en|Moss Beach, California|label=モスビーチ}}の土手道が破壊され、岬と本土を結ぶ橋が損傷し、ポールの島の舗装道路には亀裂が生じている<ref>{{Cite web|url=http://pubs.usgs.gov/dds/dds-29/web_pages/moss.html|title=XV. MOSS LANDING|publisher=USGS.gov|language=英語|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
日本では1923年に発生した[[関東大震災]]を契機として[[耐震基準]]が導入され、おおむね0.2g以上が採用されていた。カリフォルニア州が日本のこの設計震度の値に近づいてきたのは1971年に発生した{{仮リンク|サンフェルナンド地震|en|1971 San Fernando earthquake}}以降である<ref name="秋元62">[[#秋元(1990年)|秋元(1990年)]] p.62</ref>。カルトランスが設計震度の低い既設橋の第1段階の補強計画として橋桁の落橋防止装置を取り付けた後、1989年から4か年計画で第2段階として不静定次数の低い1本柱鉄筋コンクリート橋脚の耐震補強を実施しようとしていた矢先に、本震が発生した<ref name="秋元62" />。1973年以降の耐震基準に準拠して設計された橋で本震により大きな被害を生じたものはなかった<ref name="建築学会243" />。
 
==== サイプレス高架橋 ====
{{multiple image
| align = right
| image1 = Cypress collapsed.jpg
| width1 = 175
| caption1 = サイプレス高架橋<br>(左)倒壊した上層部
| image2 = 022srUSGSCyprusVia.jpg
| width2 = 175
| caption2 = <br>(右)損傷した支柱
}}
州間高速道路880号線(ニミッツ・フリーウェイ)のサイプレス通り上にあるサイプレス高架橋は延長2㎞の[[鉄筋コンクリート構造]]の2階建て形式の構造物である<ref name="国土庁77">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.77</ref>。スパン24mの3経間連続鉄筋コンクリート多重箱桁橋が連続しており、桁の両端がかけ違い構造で接続されている。そして、このかけ違い部には桁連結装置が設置されている<ref name="国土庁77" />。設計震度0.06を考慮して設計され、1957年に開通した<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.246</ref>。
 
サイプレス高架橋では延長2㎞の全長にわたり損傷または崩壊し、そのうち18番通りとの交差点から北側の{{仮リンク|州間高速道路80号線 (カリフォルニア州)|en|Interstate 80 in California|label=州間高速道路80号線}}との[[インターチェンジ]]部までの1.2㎞区間の2階の橋桁が崩壊して大きな災害となった<ref name="国土庁77" />。2階の道路部分が支えを失って1階の道路上に覆い被さってしまう落橋被害が連続して発生した<ref>[[#大林組(1990年)|大林組(1990年)]] p.111</ref>。この事故によって42人(1993年のUSGSの資料では41人<ref name="USGS" />)が死亡し、数百人の負傷者が救出された<ref name="SFGate" />。崩壊現場では放置車両が多数あり、立ち入り禁止措置が取られるまでの間に車上狙いが横行して8人が逮捕されている<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] pp.270-271</ref>。通常時は17名の隊員を配置してサイプレス地区の交通の指導取締りなどを行っている{{仮リンク|カリフォルニア・ハイウェイ・パトロール|en|California Highway Patrol}}は災害発生後に600名の隊員を投入して初動活動に当たった<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.270</ref>。走行中の車が圧壊・炎上して2件の火災が発生したが、{{仮リンク|オークランド市消防局|en|Oakland Fire Department}}は他に延焼する危険も無いと判断して消化活動は行わず、多数の犠牲者の救出活動に専念している<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.361</ref>。北側が軟弱地盤なのに対して南側は比較的硬質な地盤であったため、サイプレス地区の北半分と南半分で被害の程度がまったく異なっている<ref>[[#大林組(1990年)|大林組(1990年)]] p.112</ref>。なお、液状化や地盤沈下は主要な被災原因にはならなかったと推定されている<ref>[[#港湾技研(1990年)|港湾技研(1990年)]] p.14</ref>。
 
カルトランスは直営で敏速な点検と迅速な対応を行い、街路をなるべく早く復旧させるために7番通り交差点部から34番通り交差点部までのサイプレス通り全域にわたりその大部分を1か月以内に取り壊し、撤去した<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.79</ref>。サイプレス高架橋の跡地には崩壊から15年後にマンデラ・パークウェイと呼ばれる地上部道路が完成した<ref>{{Cite web|author=Phillip Matier, Andrew Ross|url=http://www.sfgate.com/bayarea/matier-ross/article/Oakland-project-boon-or-boondoggle-Mandela-3324932.php|title=Oakland project: boon or boondoggle? Mandela Parkway may draw builders -- or more troubles|publisher=SFGate.com|language=英語|date=2004年9月20日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。しかし、880号線の復旧が完了するまで10年ほどかかり<ref>[[#Caltrans(1998年)|Caltrans(1998年)]] p.3</ref>、{{仮リンク|州間高速道路980号線|en|Interstate 980}}の渋滞が引き起こされた<ref>[[#Caltrans(1998年)|Caltrans(1998年)]] p.4</ref>。
 
==== サンフランシスコ‐オークランド・ベイブリッジ ====
{{multiple image
| align = right
| image1 = LomaPrieta-BayBridge2.jpg
| width1 = 175
| caption1 = ベイブリッジ<br>(左)落下した渡り桁
| image2 = LomaPrieta-BayBridge1.jpg
| width2 = 175
| caption2 = <br>(右)落下に巻き込まれた車両
}}
サンフランシスコ‐オークランド・ベイブリッジは全長13.3㎞の橋梁群でサンフランシスコ・ベイエリアの幹線交通網の一部を形成しており、1936年に開通した<ref name="建築学会244">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.244</ref>。ベイエリアの両側にある人口77万人のサンフランシスコ市と人口35万人のオークランド市を結び、一日の交通量は27万台を記録するほどであった<ref name="国土庁48" />。中間の{{仮リンク|イエルバ・ブエナ島|en|Yerba Buena Island}}と西側のサンフランシスコ間が2階建て形式の[[吊り橋]]、東側のオークランド間が[[カンチレバー]]型式を含む[[トラス橋]]である<ref name="国土庁57">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.57</ref>。建設当時には一般的な耐震設計基準は存在しなかったが、設計基本震度として0.075(一説には0.1)を用いたと言われている<ref name="建築学会244" />。
 
このベイブリッジでは[[杭|パイル]]基礎で比較的しまった砂層を支持層とする固定構造のE9橋脚において唯一、大きな被害が生じた<ref name="国土庁57" />。2階建て形式の吊り橋部には一切損傷が無かったが、このトラス橋の橋脚が渡り桁の落下などの損傷を受けた<ref name="建築学会246">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.246</ref>。オークランド側のトラス橋を固定しているアンカーボルトが切断されてそれに伴ってトラス橋がオークランド側へ移動し、長さ15mの橋桁も引っ張られ、橋桁を支えていた部分より大きく移動して落橋した<ref name="秋元62" />。このために通行中の自動車3台が桁の落下に巻き込まれ、運転手1人が死亡した<ref name="建築学会246" />。事態に気付いた運転手の1人が車から降り、危険を対向車や後ろの車へと次々に伝えて惨事の拡大を防いだ<ref name="建築学会391">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.391</ref>。修復作業では渡り桁が撤去され、トラスを[[ジョッキ]]によって元の位置まで引き戻してハイテンボルトで再び固定された<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.247</ref>。11月18日にベイブリッジは復旧した<ref name="SFmuseum1915">{{Cite web|url=http://www.sfmuseum.net/alm/quakes3.html|title=San Francisco Earthquake History 1915-1989|publisher=SFmuseum.org|language=英語|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
なお、一部が落橋したために交通封鎖された結果、ベイブリッジの13㎞の区間が[[ゴールデンゲートブリッジ]]と{{仮リンク|リッチモンド‐サンラファエル橋|en|Richmond–San Rafael Bridge}}とを経由する北側を[[迂回]]すると延長が46㎞、また南側へ迂回して{{仮リンク|サンマテオ‐ヘイワード橋|en|San Mateo–Hayward Bridge}}を経由すると延長が78㎞と距離が延び、大きな交通障害が生ずることになった<ref name="国土庁48" />。この深刻な交通支障を補うために[[バート (鉄道)|BART]](ベイエリア高速鉄道)は平常のサービス時間が6時から24時までであるのに対し、10月23日から深夜も毎時間1本程度の列車を運行する終日運転を開始した<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.312</ref>。この24時間のフルサービスは12月3日まで継続された<ref name="SFmuseum1915" />。
 
その後に本震によって損傷を受けた構造部を1500年に一度起こると予測される大地震にも耐えられる耐震構造に架け替える「{{仮リンク|サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの東側スパンの架け替え事業|en|Eastern span replacement of the San Francisco–Oakland Bay Bridge|label=ベイブリッジの東側スパンの架け替え事業}}」が開始され、2013年に完了した<ref>{{Cite web|author=|url=http://www.theguardian.com/world/2013/sep/03/san-francisco-bay-bridge-reopens|title=San Francisco-Oakland bay bridge opens to traffic after years of delays|publisher=[[ガーディアン|TheGuardian.com]]|language=英語|date=2013年9月3日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。この事業はカリフォルニア州において史上最高額の64億ドルを費やす巨大公共事業となった<ref>{{Cite web|author=David Knowles|url=http://www.nydailynews.com/news/national/bay-bridge-quake-safety-bolts-fail-test-article-1.1300679|title=More than 30 massive earthquake safety bolts on San Francisco’s newly redesigned Bay Bridge fail, likely delaying the structure’s Labor Day opening|publisher=[[デイリーニューズ (ニューヨーク)|NYDailyNews.com]]|language=英語|date=2013年3月27日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
==== エンバカデロ高架橋 ====
サンフランシスコ湾岸沿いの{{仮リンク|カリフォルニア州道480号線|en|California State Route 480|label=州道480号線}}(エンバカデロ・フリーウェイ)のエンバカデロ通り上にあるエンバカデロ高架橋は延長1㎞の構造様式がサイプレス高架橋とよく似た鉄筋コンクリート構造の2階建て形式の構造物である<ref name="国土庁107">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.107</ref>。ベイブリッジから{{仮リンク|サンフランシスコ・フェリー・ビルディング|en|San Francisco Ferry Building|label=フェリー・ビルディング}}の前を通り、サンフランシスコ市のダウンタウン中心部に至る経路となっている<ref>[[#磯山(1989年)|磯山(1989年)]] p.76</ref>。1959年に一部完成して開通した<ref name="畢178">[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.178</ref>。
 
エンバカデロ高架橋では南側延長500mにわたってサイプレス高架橋の中で崩壊しなかった橋脚と同様に、橋脚の上層の柱の下端と下層横梁の接合部に損傷が生じた<ref name="国土庁107" />。最卓越振動数の最大増幅倍率はサイプレス高架橋よりも2.5倍程度大きいことから、日本建築学会は地震動はサイプレスよりも大きかったものと推測し、両高架橋の被害の相違は構造特性の相違によるものと推察している<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.83</ref>。そして、サイプレス高架橋の橋脚の断面が常時の段階から自重が作用していたのに対して本橋の橋脚の断面は変化していないのと、多用されている[[蝶番|ヒンジ]]のタイプの違いから崩壊を免れたものとの見解を示している<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.253</ref>。
 
エンバカデロ・フリーウェイは閉鎖された後<ref name="畢183">[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.183</ref>、大多数の市民からの支持も得て1991年に完全に撤去された<ref name="畢184-185">[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] pp.184-185</ref>。
 
==== ストラブスルー橋 ====
[[File:LomaPrieta-Hwy2.jpeg|right|150px|thumb|杭頭が床板を突き抜けたストラブスルー橋]]
ストラブスルー橋は震源より南に30㎞<ref name="建築学会255">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.255</ref>、ワトソンビル市南部の{{仮リンク|カリフォルニア州道1号線|en|California State Route 1|label=州道1号線}}が{{仮リンク|カリフォルニア州道129号線|en|California State Route 129|label=州道129号線}}と交差する地点から1.5㎞北の軟弱地盤の湿地帯に架かる21経間連続のRC桁橋(途中3か所でゲルバーヒンジによって接続)である<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.99</ref>。杭頭は横桁に直接接合されていた<ref>[[#衣笠(1990年)|衣笠(1990年)]] pp.14-15</ref>。
 
このストラブスルー橋では南行き2車線の21経間中10経間が落橋し、4本の杭頭が床板を突き抜けた<ref>[[#港湾技研(1990年)|港湾技研(1990年)]] p.14</ref>。南行き道路の中央部分が落橋し、北行き道路は落橋こそ免れたものの、RCパイルベント橋脚が著しく破損して桁が落下した<ref name="建築学会255" />。
 
新橋の計画はただちに着手され、11月30日から1990年3月9日までの90日間の予定で工事契約が締結された<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.100</ref>。なお、この新橋は当初の予定より35日も早く55日間で完成している<ref>{{Cite web|author=Mark Yashinsky|url=http://www.bphod.com/2014/03/santa-cruz-county-california-bridges_8.html|title=Bridge Photo of the Day|publisher=Bphod.com|language=英語|date=2014年3月8日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
== 1989年のワールドシリーズ ==
[[File:1989 World Series1.jpg|right|250px|thumb|本震発生直前のキャンドルスティック・パーク]]
{{See also|1989年のワールドシリーズ}}
{{External media
|width=275px
|video1=[http://m.mlb.com/video/topic/7417714/v36825095/mlb-tonight-remembers-the-earthquake-in-1989 1989年ワールドシリーズの回顧<br />(2014年にアップされたMLB.comによる特集)]
}}
[[1989年のワールドシリーズ|この年のワールドシリーズ]]は同じサンフランシスコ・ベイエリアに本拠地を置く[[オークランド・アスレチックス]]と[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]の対戦であり、「{{仮リンク|ベイブリッジシリーズ|en|Bay Bridge Series|label=ベイエリアシリーズ}}」として地元住民を熱狂させた<ref name="上田58">[[#上田(2001年)|上田(2001年)]] p.58</ref>。このような[[ワールドシリーズ]]の同地域対決は[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]と[[ニューヨーク・ヤンキース]]が対戦した[[1956年のワールドシリーズ]]以来33年ぶりである<ref name="豊浦">{{Cite web|author=豊浦彰太郎|url=http://www.jsports.co.jp/press/article/N2012102818522401.html|title=ポストシーズン名場面集4 「大地震直後に開催されたWS」|publisher=[[J SPORTS|Jsports.co.jp]]|language=英語|date=2012年10月28日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。さらには76年ぶりとなる古豪チームの対戦であることでも注目されていた<ref name="上田58" />。シリーズの第1戦・第2戦はアスレチックスが自チームの本拠地である[[オー・ドットコー・コロシアム|オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム]]で連勝し、舞台はジャイアンツの本拠地である[[キャンドルスティック・パーク]]へと移った<ref name="豊浦" />。
 
10月17日17時30分よりキャンドルスティック・パークでシリーズの第3戦が予定されており、主要メディアの取材班がベイエリア地域に結集していた<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.369</ref>。[[NHK BS1|NHK衛星第1テレビジョン]]によって日本で初めて全試合中継されるワールドシリーズでもあったため、その実況を担当する[[森中直樹]]に解説の[[梨田昌孝]]、[[高田繁]]ら放送クルーも球場入りして試合開始を待っていた<ref name="上田58" />。シリーズを自宅で観戦するためにベイエリア地区では通常の[[ラッシュ時]]よりも少し早めに帰途についた人が多く<ref name="建築学会375">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.375</ref>、本震が発生した時間帯の道路や橋は通常時より交通量が少なく空いていた<ref name="Axisa">{{Cite web|author=Mike Axisa|url=http://www.cbssports.com/mlb/eye-on-baseball/24756663/years-ago-today-loma-prieta-earthquake-interrupts-world-series|title=25 Years Ago Today: Loma Prieta earthquake interrupts World Series|publisher=Mercurynews.com|language=英語|date=2014年10月17日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。このために路上事故も予想より少なめで済み、死傷者の減少に貢献することになった<ref>[[#宇佐美(2001年)|宇佐美(2001年)]] p.79</ref>。アメリカ全土で放送される[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]の試合中継番組でキャスターの{{仮リンク|ティム・マッカーバー|en|Tim McCarver}}が試合の見どころについて語っていた時に大きな震動がベイエリアを襲った<ref name="豊浦" />。同席していた実況アナウンサーの[[アル・マイケルズ]]が「お伝えします。地・・・(地震)が発生した模様です」と叫んだ直後に番組の映像は途切れた<ref>{{Cite web|author=Cindy Boren|url=http://www.washingtonpost.com/blogs/early-lead/wp/2014/10/14/world-series-earthquake-still-a-jarring-experience-25-years-later/|title=World Series earthquake still a jarring experience 25 years later|publisher=[[ワシントン・ポスト|Washingtonpost.com]]|language=英語|date=2014年10月14日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
キャンドルスティック・パーク内でのMM震度階はⅦを記録した<ref name="大久保35" />。発生時、62000人以上が球場内に押し込められて混雑していた<ref name="Grantland" />。ジャイアンツの[[ウィル・クラーク]]は「この世の終わりだと思ったよ」<ref name="建築学会388">[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.388</ref>、梨田昌孝は「死ぬかと思った」<ref>『[[日刊スポーツ]]』、1989年10月19日付1面</ref>、森中直樹は「正直、殉職を覚悟して息子の顔を思い浮かべたものです」<ref name="上田58" />とそれぞれコメントを残している。揺れが収まるとアスレチックスの[[リッキー・ヘンダーソン]]が真っ先にフィールドに飛び出して観客に落ち着くように呼びかけ、両チームの選手たちがこれに続いた<ref name="上田58" />。また、両チームの選手の多くがすぐに観戦に来ていた家族を捜し始めた<ref name="Mercurynews">{{Cite web|author=Horace Hinshaw|url=http://www.mercurynews.com/ci_12603000|title=Remembering World Series Earthquake|publisher=Mercurynews.com|language=英語|date=2009年6月17日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。右翼席の上層スタンドには幅15㎝の裂け目が入り、コンクリート通路も多数の亀裂が入った。スタンド前列には金属やコンクリートの破片が降り注いだが、観客は落ち着いて行動したこともあって重傷者は1人も出なかった<ref name="建築学会388" />。しかし、観客を救うために機転を利かせて行動したヘンダーソンのベイエリアにある豪邸はこの震災によって崩壊してしまっており、彼も被災者の一人となった<ref name="上田58" />。
 
地震の時までにキャンドルスティック・パークの観客席の自分の席に達していたのは半分だけであったためにその分、球場の構造にかかる負荷が軽減された<ref name="Mercurynews" />。サンフランシスコ市警察の[[パトロールカー|ポリスカー]]がフィールド内に突入して三塁側{{仮リンク|ダグアウト (野球)|en|Dugout (baseball)|label=ダグアウト}}近くで停車した<ref name="FOX">{{Cite web|author=Erik Malinowski|url=http://www.foxsports.com/mlb/just-a-bit-outside/story/profile-fay-vincent-1989-mlb-world-series-earthquake-101414|title=Fay Vincent Gets The Last Word|publisher=[[FOXスポーツ|FoxSports.com]]|language=英語|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。そのポリスカーのスピーカーより、市警察の指揮を執るアイザイア・ネルソンが試合が延期されたとする[[MLBコミッショナー]]、[[フェイ・ヴィンセント]]の説明を中継して球場内の観客に伝えた<ref name="FOX" />。
 
停電のために着替えることが出来ず、{{仮リンク|野球のユニフォーム|en|Baseball uniform|label=ユニフォーム}}を着たままで[[ポルシェ]]に乗り、エスター夫人とともに球場を後にしたアスレチックスの[[ホセ・カンセコ]]は[[イーストベイ (サンフランシスコ・ベイエリア)|イーストベイ]]地域の[[セルフサービス]]の[[ガソリンスタンド]]に立ち寄った。自伝『[[禁断の肉体改造]]』の中では、エスター夫人が夫が目立たないように気遣って自ら進んで[[ガソリン]]を入れ始めたのに、誤解されて翌日の新聞には「ホセ・カンセコ。男性優越主義者の[[ブタ]]」と出ていたと書いている。彼はこの出来事を[[マスメディア]]が物事をはき違えて報道した一例として取り上げている<ref>[[#カンセコ(2005年)|カンセコ(2005年)]] p.126</ref>。アスレチックスは[[スプリングトレーニング]]施設に向かい、2日ほど練習を積んだ。ファンはその練習を有料で見物し、集まった4万ドル以上の募金は被災者に贈られた<ref>[[#レインズ(1998年)|レインズ(1998年)]] p.118</ref>。ヴィンセントは第3戦を5日後に延期したが、[[インフラストラクチャー|インフラ]]の問題が原因で試合の開催はさらに5日延期された<ref name="Axisa" />。
 
第3戦は10月27日に再開された。この試合では本震の救援活動に当たった医師、看護婦、レスキュー隊員、[[ボランティア]]などが[[始球式]]に招かれ、アメリカの[[国歌]]「[[星条旗 (国歌)|星条旗]]」の代わりにサンフランシスコ市民のための歌「{{仮リンク|テーマ・フロム・サンフランシスコ|en|Theme from San Francisco|label=サンフランシスコ}}」が斉唱された<ref name="上田58" />。結局、アスレチックスは第3戦・第4戦も勝利して[[1976年のワールドシリーズ]]の[[シンシナティ・レッズ]]以来13年ぶりとなる4連勝でワールドチャンピオンに輝いた<ref name="豊浦" />。アスレチックスの[[マーク・マグワイア]]は10年近く経過した後もこのシリーズ終了後に[[シャンパン]]で祝うことも優勝パレードを行うことも出来なかったのを残念に思っていた。地震のせいで優勝の影も薄れてしまったと考えており、「我々の89年の優勝にはこれから先もずっと[[脚注]]マークが付くことだろう」と述べている<ref>[[#レインズ(1998年)|レインズ(1998年)]] p.119</ref>。
 
== 報道体制 ==
本震はアメリカの全国ネットのテレビ放送において、その発生する瞬間が生中継された最初の大地震である<ref>{{Cite web|author=Amy Larson|url=http://www.ksbw.com/news/central-california/santa-cruz/dennis-lehnen-was-live-on-ksbw-when-loma-prieta-hit/28336390|title=Dennis Lehnen was live on KSBW when Loma Prieta hit|publisher=KSBW.com|language=英語|date=2014年10月17日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。ワールドシリーズを[[衛星放送]]([[日本の衛星放送]])で中継するために試合が行われる[[キャンドルスティック・パーク]]に布陣していた報道陣によって日本にも[[リアルタイム]]で伝えられた<ref name="衣笠7" />。
 
ABCはワールドシリーズの中継番組を中断した後に放送番組を『{{仮リンク|ロザンヌ|en|Roseanne}}』の再放送、続いて『[[素晴らしき日々]]』の再放送に切り替えた<ref name="Grantland">{{Cite web|author=Bryan Curtis,Patricia Lee|url=http://grantland.com/features/the-1989-world-series-earthquake-oral-history/|title=Rocked|publisher=Grantland.com|language=英語|date=2013年10月30日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。さらにその後、[[CBS]]とほぼ同時に地震速報を伝える[[報道特別番組]]に移行した<ref name="NY">{{Cite web|author=Jeremy Gerard|url=http://www.nytimes.com/1989/10/24/us/california-quake-nbc-tells-errors-obstacles-early-coverage-quake.html|title=The California Quake; NBC News Tells of Errors and Obstacles to Early Coverage of Quake|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ|NYtimes.com]]|language=英語|date=1989年10月24日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。一方、[[NBC]]が連続放送を開始したのは両[[ネットワーク (放送)|ネットワーク]]より1時間近く遅れてからであった<ref name="NY" />。
 
サンフランシスコのラジオ局もテレビ局と同様に停電の影響をまともに受けて数分間の放送中断は起こしたが、即座に最小限のスタジオ機能やアナウンサーを確保して災害放送の体制を整えた。市内の被災情報を刻々送り続け、各局ともCM抜きで約2-3日間連続で放送を行った<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.377</ref>。
 
地震報道が評価されてラジオ局の{{仮リンク|KCBS-AM|en|KCBS (AM)}}とテレビ局の{{仮リンク|KGO-TV|en|KGO-TV}}が1990年3月に[[ピーボディ賞]]を受賞した<ref name="SFmuseum1990">{{Cite web|url=http://www.sfmuseum.net/alm/quakes4.html|title=San Francisco Earthquake History 1990-1994|publisher=SFmuseum.org|language=英語|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。また、日刊新聞の{{仮リンク|オークランド・トレビューン|en|Oakland Tribune}}紙と{{仮リンク|サンノゼ・マーキュリー・ニュース|en|San Jose Mercury News}}紙も同じく評価されて1990年4月に[[ピューリッツァー賞|ピュリッツアー賞]]を受賞した<ref name="SFmuseum1990" />。
 
KRON-TVは地震発生当時はローカルニュースを放映中であり、地震によって30分ほど放送を中断し、5時35分に放送を再開した。放送は被災現場中継、電話レポート、スタジオからのコメントに重点を置き、CM抜きでその後30時間連続で災害報道を継続した。・・・375ページ
 
KTVU-TVも地震発生直後に自家発電装置が故障してしまい、約1時間以上も放送の中断を余儀なくされたが、放送再開後4日連続で災害報道を行った。376ページ
 
KGO-TVは野球中継のために上空に配備した飛行船を利用してベイブリッジの崩壊現場やマリーナ地区の火災現場などの映像を生中継でニューヨーク経由で放送することができた。
 
KPIX-TVは地震対策として建物の耐震補強と予備発電機を利用していたことから放送の中断は30%程度ですみ、5時15分頃から地震特番を組み、CM無しで19日10時まで放送した。また、野球中継のためにチャーターしていたヘリコプターから被災現場の映像をライブで伝えることができた。376ページ。このようにサンフランシスコのテレビ局は本震直後の停電によっておおむね20-45分間は放送することが出来なかったが、復旧した後は生活関連情報を主体とした内容でおおむね3日間・24時間連続のCM抜きで放送を行った<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] pp.375-376</ref>。
 
== ボランティア活動 ==
震災時に住民による無償のボランティア活動が活発に行われたことが[[マスコミュニケーション|マスコミ]]によって大きく取り上げられている<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.373</ref>。[[レベッカ・ソルニット]]によると、サンフランシスコ・ベイエリアに住む多くの人々が被災直後の階層や職業の違いを超えて打ちとけ合い、助け合った日々を懐かしみ、愛しているという<ref>[[#ソルニット(2010年)|ソルニット(2010年)]] pp.14-15</ref>。被災地で救援活動に名乗りを上げる市民や献血を申し出た人たちは現地の報道で「さばき切れない状態」と表現されるほど多数にのぼった<ref name="建築学会391" />。サンフランシスコ市の被害家屋の技術的診断では市から約100名の技術者が派遣されているが、その他にも建築事務所従業員と退職技術者など約300名が3日間ボランティアとして従事している<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.281</ref>。[[アラメダ (カリフォルニア州)|アラメダ]]市、サンタクルーズ市、[[サンタクララ (カリフォルニア州)|サンタクララ]]市、サンフランシスコ市のどのくらいの住民がボランティア活動を行ったかという167人を対象とした[[東京大学]]の新聞研究所が行った調査によると、何らかの形でボランティアを行ったと回答したのは56%にのぼり、その内訳では「食料、水、衣服などの提供」が69%ともっとも多くなっている<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.392</ref>。[[特定非営利活動法人|NPO法人]]の災害・防災ボランティア「未来会」の[[ホームページ]]によると、[[日本赤十字社]]は本震の際にアメリカ赤十字社が多くのボランティアの力をまとめて被災者の支援活動を行ったことを参考にして、1991年から日本国内における防災ボランティアの養成・登録を開始したとのことである<ref>{{Cite web|url=http://www5d.biglobe.ne.jp/~miraikai/sekijyuujibousaibora.htm|title=赤十字防災ボランティア|publisher=未来会公式ホームページ|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
被災地や避難所周辺では[[救世軍]]などの[[キャンピングカー]]による食事の配給風景が目立った<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.352</ref>。また、サンフランシスコ市中心部の{{仮リンク|オールド・セイント・メアリー大聖堂|en|Old Saint Mary's Cathedral}}に開設されていた赤十字の施設では、被災者に対して食料や衣料品の配給場所や新しい住宅に関する情報提供、相談業務などを40-50人のボランティアが中心となって行った<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.353</ref>。
 
[[和田秀樹]]は 『震災トラウマ』の中で本震発生からわずか数時間後に、300人ほどの被災者を集めて順番に何でも好きなようにその時語れるだけ語れる場が設けられ(場所は触れられず)、ミニマラソン形式で約3時間ぐらい続けられたという話を心のケアのグループ治療の方法として紹介している<ref>[[#和田(2011年)|和田(2011年)]] pp.149-150</ref>。
 
サイプレス高架橋が崩壊した事故では周辺に在住する多くの人々がロープやはしごを手によじ上り、生存者を背負われて次々に下ろし、消防車が救急隊員が到着するまでにほとんどの負傷者が下で介抱されていた<ref>[[#岡部(1995年)|岡部(1995年)]] pp.55-56</ref>。崩れ落ちる高架橋を走っていた看護師資格を持つバスの女性運転手が無事に走り抜けて安全な場所に乗客を降ろすと再び現地に戻り、怪我人を応急手当してバスでピストン輸送したという話が現地では語り草になっている<ref name="建築学会391" />。民間の建設業者から急遽借り上げた建設重機、検索犬、日本から提供された[[ファイバースコープ]]なども投入して展開された大掛かりな救出活動はオークランド市消防局、{{仮リンク|オークランド市警察|en|Oakland Police Department}}、カリフォルニア・ハイウェイ・パトロールなど各機関およびボランティアが一体となって1週間続けられた<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.262,270</ref>。
 
サンフランシスコ市マリーナ地区の火災現場では最初の数時間は3対1でボランティアの数がプロの救助隊を圧倒した<ref>[[#岡部(1995年)|岡部(1995年)]] p.50</ref>。初期のうちから火災による負傷者の[[応急処置|応急手当]]が積極的に行われた<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.366</ref>。ボランティアに参加したのは現場付近に住む市民および[[アメリカ陸軍]]関係者などの個人的な協力者と消防予備隊、アメリカ赤十字社ゴールデンゲート支部および救世軍などの組織的な協力団体である<ref>[[#建築学会(1991年)|建築学会(1991年)]] p.363</ref>。[[消火栓]]が一切使用出来なかったためにサンフランシスコ市唯一の[[消防艇]]『{{仮リンク|フェニックス (消防艇)|en|Phoenix (fireboat)|label=フェニックス}}』が出動した<ref name="国土庁278">[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.278</ref>。{{仮リンク|サンフランシスコ市消防局|en|San Francisco Fire Department}}側がボランティアの呼び掛けを行ったところ、期待した20人を大幅に上回る50人以上が立ち所に手伝ってくれたという<ref name="国土庁278" />。『フェニックス』が波止場への接岸を果たすと、待ち構えていたボランティアがホースを持って火災現場まで駆け上がった<ref>[[#岡部(1995年)|岡部(1995年)]] p.51</ref>。
 
この震災の後、各地で地震緊急対応チームをモデルとしたボランティア訓練プログラムが生まれた<ref>[[#岡部(1995年)|岡部(1995年)]] p.68</ref>。
 
== 復興事業 ==
カリフォルニア地震災害軽減法に従って定めるカリフォルニア州で最も基本的な震災対策計画「カリフォルニア地震災害軽減計画」は2000年1月1日までに州全体にわたって地震被害を大幅に軽減することを目的としており、カリフォルニア地震安全委員会が5か年計画として策定し、毎年見直しと改訂が行われる<ref>[[#国土庁(1990年)|国土庁(1990年)]] p.252</ref>。
 
=== フェリー・ビルディングの再生 ===
[[File:San Francisco-Embarcadero Freeway demolition.jpg|right|175px|thumb|撤去工事が進行するエンバカデロ・フリーウェイ]]
巨大な壁で{{仮リンク|サンフランシスコ港|en|Port of San Francisco}}を市街地から切り離し、フェリー・ビルディングを遮断して港湾地区の景観を著しく破壊しているとしてエンバカデロ・フリーウェイは開通当初から建設の継続に対する激しい反対運動が起こっている<ref name="畢178" />。1960年代前半にすでに建設された部分さえも撤去するという提案が市民団体と一部の市会議員によって提出されるに至り、撤去はされなかったものの、フリーウェイの延伸工事は中止された<ref>[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.179</ref>。サンフランシスコ港はゴールドラッシュによって1850年代から急成長を開始して1920年代にはアメリカで最も利用者が多い{{仮リンク|フェリーターミナル|en|Ferry slip|label=ターミナル}}となっていたが<ref name="畢176">[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.176</ref>、このフリーウェイによって市民が近付かなくなったのと相次ぐ開発事業の失敗が原因で1970年代以降に急速に衰退の一途をたどった<ref>[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.181</ref>。
 
フリーウェイは震災で損傷を受けたために一時的に閉鎖された<ref name="畢183" />。1990年3月に市の今後の発展のためにフリーウェイを撤去したいという考えを明らかにした[[サンフランシスコ市長]]{{仮リンク|アート・アグノス|en|Art Agnos}}の提案に対して大多数の市民が震災前と異なり、支持する意思を示した<ref name="畢184-185" />。半年の討議を経た後の1990年4月16日にサンフランシスコ市議会は6対5の僅差でフリーウェイを撤去することを可決し、翌1991年に撤去工事が完了した<ref name="畢185">[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.185</ref>。フリーウェイが撤去されたことで、6万㎡以上の[[ウォーターフロント]]の土地が開放されて大規模な開発事業が可能になり、港湾地区が再び市街地に接続されたために多くの民間企業の開発事業を誘発するという効果をもたらした<ref name="畢185" />。フリーウェイの代わりの交通システムとして、エンバカデロ大通りの建設を軸とした複数の事業から構成される「エンバカデロ交通プロジェクト」が実施され、2000年に完成した<ref>[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] pp.185-186</ref>。
 
また、サンフランシスコ地震ではほとんど損傷しなかったフェリー・ビルディングはその後に老朽化が進行し、震災で大きく損傷してしまった<ref>[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] pp.187-188</ref>。その修繕について議論するために1991年1月に27人で構成される諮問委員会が組織され、100回以上の市民会議と数度の草案修正を経た後の1997年にサンフランシスコ港に関する初めての総合ビジョン「ウォーターフロント土地利用計画」が港湾委員会によって承認された<ref>[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.188</ref>。歴史的建造物の保存と市民の利用に重点を置き、4社の企業連合がこの計画を実施した<ref>[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.189</ref>。計画の一環として2003年に開業したフェリー・ビルディング1階のマーケットプレイスには40店舗以上の地元食料品専門店、約10軒の地元レストラン・カフェと数店舗の地元食器・料理器具専門店が入居し、[[チェーンストア]]の入店は断られた<ref>[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.190</ref>。マーケットプレイスの地元を優遇した戦略は功を奏しており<ref name="畢191">[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.191</ref>、サンフランシスコ港は市民の買い物と[[レジャー]]の中心に回復しただけでなく、多くの観光客が訪れる人気の観光スポットとなっている<ref name="畢176" />。サンフランシスコ観光協会が2010年に実施した調査によると、「サンフランシスコ市を旅行先として選んだ理由は何か? 」といった質問に対して回答した観光客の91%がレストラン、70%がショッピングを挙げている<ref>[[#畢(2014年)|畢(2014年)]] p.192</ref>。1990年から2011年にかけてサンフランシスコ市の人口は11.2%増加し、2011年にはサンフランシスコ市は[[CNBC]]がランク付けする「全米で最も歩行者が楽しめる町」において2位の[[ボストン]]市と3位の[[ニューヨーク]]市を抑えて1位を獲得した<ref name="畢191" />。
 
=== サンタクルーズの「物語復興」 ===
 
 
== 大衆文化における描写 ==
* スポーツ情報サイト「{{仮リンク|ブリーチャー・レポート|en|Bleacher Report}}」の[[編集者|エディター]]が選定する格付け「MLB史上最も衝撃的な場外の瞬間50」において、本震は9位にランクインした<ref>{{Cite web|author=Doug Mead|url=http://bleacherreport.com/articles/799523-the-50-most-shocking-off-the-field-moments-in-mlb-history/page/43|title=The 50 Most Shocking Off-the-Field Moments in MLB History|publisher=BleacherReport.com|language=英語|date=2011年8月11日|accessdate=2015年3月1日}}</ref>。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
* [[ノースリッジ地震]] - 1994年に同じカリフォルニア州にて発生。ロマ・プリータ地震を上回る史上最高額(200億ドル以上)の経済的損害を出したと推定されている。
 
== 参考文献 ==
; 雑誌
* {{Cite book|和書|author=阿部勝征(1章:pp.1-15),石丸辰治(2章:pp.16-109,5章:153-231),あべ木紀男(3章:pp.110-116),吉田望(4章:pp.117-152),木内俊明(6章:pp.232-242),大町達夫(7章:pp.243-270),亀田弘行(8章:pp.271-315),北川良和(9章:pp.316-348),村上處直(10章:pp.349-382),広井脩(11章:pp.383-433)・・・以上の各章編集責任者他多数|date=1991年|title=1989年ロマプリータ地震災害調査報告|publisher=[[日本建築学会]]|isbn=978-4818900691|ref=建築学会(1991年)}} 
* {{Cite book|和書|author=[[衣笠善博]],窪田将,大谷圭一,稲富隆昌,川島一彦,辰巳正明,秋元泰輔,伊藤義則,尾田栄章,池畑三郎,大須賀克己,藤本孝,里館健彦,岩崎敏男|date=1990年|title=1989サンフランシスコ湾岸地震(ロマプリータ地震)の記録|publisher=[[国土庁]]防災局|isbn=978-4324021880|ref=国土庁(1990年)}}
* {{Cite book|和書|author=衣笠善博|date=1990年|title=地質ニュース 1990年8月号 No.432「サンフランシスコ(ロマプリータ)地震」(PDF)|url=https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/90_08_02.pdf|publisher=実業公報社|ref=衣笠(1990年)}}
* {{Cite book|和書|date=2007年|title=地震保険研究9 海外地震保険制度~米国カリフォルニア州 2006年調査~「第1章 カリフォルニア州の地震危険」(PDF)|publisher=[[損害保険料率算出機構]]|url=http://www.giroj.or.jp/disclosure/q_kenkyu/No09_1.pdf#|ref=損保(2007年)}}
* {{Cite book|和書|author=阿部勝征|date=1990年|title=地震は必ずくる (読売科学選書)|publisher=[[読売新聞社]]|isbn=978-4643900088|ref=阿部(1990年)}}
* {{Cite book|和書|author=大久保泰邦|date=1990年|title=地質ニュース 1990年5月号 No.429「サンフランシスコから」(PDF)|url=https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/90_05_04.pdf|publisher=実業公報社|ref=大久保(1990年)}}
* {{Cite book|和書|author= Simon Winchester (原著), 柴田 裕之 (翻訳)|date=2006年|title=世界の果てが砕け散る―サンフランシスコ大地震と地質学の大発展|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4152087850|ref=ウィンチェスター(2006年)}}
* {{Cite book|和書|author=磯山龍二|date=1989年|title=土木施工30巻12号「サンフランシスコ地震土木構造物の被害」(PDF)|url=http://www.ejec.ej-hds.co.jp/bousai/kb/19891017lomapreita.pdf|publisher=オフィス・スペース|ref=磯山(1989年)}}
* {{Cite book|和書|author=Rutherford H. Platt (原著),奥村晃史 (翻訳),三橋節子 (編集)|date=1994年|title=地理 39巻9号「サンフランシスコ・ベイエリアの自然災害 : 地震と大火の試練」(PDF)|url=http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/26257/2014101615373395953/chiri_39-9_57.pdf|publisher=[[古今書院]]|ref=プラット(1994年)}}
* {{Cite book|和書|author=Martin Redfern (原著),川上 紳一 (翻訳)|date=2013年|title=地球-ダイナミックな惑星 (サイエンス・パレット)|publisher=[[丸善出版]]|isbn=978-4621086681|ref=レッドファーン(2013年)}}
* {{Cite book|和書|author=後藤洋三, 中村岳, 大内一|date=1990年|title=大林組技術研究所報「ロマ・プリータ地震(1989年10月17日)調査報告(PDF)|url=http://www.obayashi.co.jp/technology/shoho/041/1990_041_18.pdf|publisher=[[大林組]]東京本社|ref=大林組(1990年)}}
* {{Cite book|和書|author=稲富隆昌,風間基樹|date=1990年|title=港湾空港技術研究所資料 No.691「1989年ロマプリータ地震港湾・空港被害報告」(PDF)|url=http://www.pari.go.jp/search-pdf/no0691.pdf|publisher=[[港湾空港技術研究所]]|ref=港湾技研(1990年)}}
* {{Cite book|author=California Department of Transportation|date=1998年|title=「1998 Highway Congestion Monitoring Report」(PDF)|url=http://www.dot.ca.gov/dist4/highwayops/docs/d4hicomp1998.pdf|language=英語|ref=Caltrans(1998年)}}
* {{Cite book|和書|author=畢滔滔|date=2014年|title=よみがえる商店街 (碩学舎/碩学叢書)|publisher=碩学舎|isbn=978-4502088902|ref=畢(2014年)}}
* {{Cite book|author=Janet A. McDonnell|date=1993年|title=「Response to the Loma Prieta Earthquake (S. hrg)」(PDF)|url=http://www.publications.usace.army.mil/Portals/76/Publications/EngineerPamphlets/EP_870-1-44.pdf|publisher=[[合衆国政府印刷局|United States Government Printing]]|language=英語|isbn=978-0160417306|ref=McDonnell(1993年)}}
* {{Cite book|和書|author=上田龍(「ワールドシリーズ事件簿」)|date=2001年|title=メジャーリーグ「ワールドシリーズ伝説」 (B.B.mook―スポーツ伝説シリーズ (190))|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|isbn=978-4583611556|ref=上田(2001年)}}
* {{Cite book|和書|author=[[ホセ・カンセコ|Jose Canseco]] (原著), ナガオ勝司 (翻訳)|date=2005年|title=[[禁断の肉体改造]]|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4583038735|ref=カンセコ(2005年)}}
* {{Cite book|和書|author= Rob Rains (原著), 桂 ケイ (翻訳)|date=1998年|title=マーク・マグワイア―ホームラン・ヒーロー (地球スポーツライブラリースペシャル)|publisher=TOKYO FM出版|isbn=978-4887450301|ref=レインズ(1998年)}}
* {{Cite book|和書|author=Rebecca Solnit(原著),高月園子 (翻訳)|date=2010年|title=災害ユートピア|publisher=[[亜紀書房]]|isbn=978-4750510231|ref=ソルニット(2010年)}} 
* {{Cite book|和書|author=[[和田秀樹]]|date=2011年|title=震災トラウマ (ベスト新書)|publisher=[[ベストセラーズ]]|isbn=978-4584123324|ref=和田(2011年)}}
* {{Cite book|和書|author=岡部一明(「サンフランシスコ地震の教訓」)|date=1995年|title=災害ボランティアとNPO―アメリカ最前線|publisher=マスコミ情報センター|isbn=978-4021000034|ref=岡部(1995年)}}
 
 
* {{Cite book|和書|author=[[加藤邦男]]|date=1998年|title=阪神・淡路大震災と歴史的建造物|publisher=[[思文閣出版]]|isbn=978-4784209644|ref=加藤(1998年)}}
* {{Cite book|和書|author=秋元泰輔|date=1990年|title=コンクリート工学Vol. 28 (1990) No. 4「ロマプリータ地震によるコンクリート橋の被害」(PDF)|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/coj1975/28/4/28_61/_pdf|publisher=[[日本コンクリート工学会]]|ref=秋元(1990年)}}
* {{Cite book|和書|author=山中茂樹|date=2010年|title=いま考えたい 災害からの暮らし再生 (岩波ブックレット)|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000094764|ref=山中(2010年)}}
* {{Cite book|和書|author=山中茂樹|date=2011年|title=漂流被災者---「人間復興」のための提言|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309245584|ref=山中(2011年)}}
* {{Cite book|和書|author=宇佐美陽|date=2001年|title=大リーグと都市の物語 (平凡社新書)|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582850765|ref=宇佐美(2001年)}}
 
* {{Cite book|author=|date=年|title=|publisher=|language=英語|isbn=978-|ref=}}
 
; 書籍
== 外部リンク ==
* {{Cite book|和書|author=堀合了輔|title=啄木の妻節子|year=1974|publisher=洋々社|asin=B000J9GAQU|ref=堀合(1974)}}
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* {{Cite book|和書|author=[[岩城之徳]]|title=石川啄木伝|year=1985|publisher=東宝書房|asin=B000J6TZ2Y|ref=岩城(1985)}}
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* {{Cite book|和書|author=[[澤地久枝]]|title=石川節子 愛の永遠を信じたく候|year=1981|publisher=[[講談社]]|asin=B000J7YVGS|ref=澤地(1981)}}
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* {{Internet Archive film|id=gov.archives.arc.951729|name=Loma Prieta Earthquake}}
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* [https://www.youtube.com/watch?v=ORD9ICL4PsE 30 for 30 - The Day The Series Stopped]
* [https://www.youtube.com/watch?v=ORD9ICL4PsE 30 for 30: The Day The Series Stopped -Chaos]
; NBC Newsよりアップロード
* [https://www.youtube.com/watch?v=ghAvIJ76WVo World Series Stopped By Loma Prieta Earthquake | Flashback | NBC News]
; KCRA Newsよりアップロード
* [https://www.youtube.com/watch?v=mKiYsk6_jp0 Remembering the Loma Prieta earthquake 25 years later]
; KRON 4 よりアップロード
* [https://www.youtube.com/watch?v=LCndQqG7oFo Loma Prieta Earthquake: 25 Years Later - Then And Now]
* [https://www.youtube.com/watch?v=YXrX1mrnh_o Loma Prieta Earthquake: 25 Years Later - Rebuilding Santa Cruz]
* [https://www.youtube.com/watch?v=FD034THG6hM Loma Prieta Earthquake: 25 Years Later - San Francisco's Marina District]
* [https://www.youtube.com/watch?v=szG9yIdWF4M Loma Prieta Earthquake: 25 Years Later - Cypress Freeway in Oakland]
 
* {{Cite book|和書|author=山下多恵子|title=啄木と郁雨 友の恋歌矢ぐるまの花|year=2010|publisher=未知谷|isbn=978-4896423112|ref=山下(2010)}}
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* {{Cite book|和書|author=坂本竜三|title=岡田健蔵伝 北日本が生んだ稀有の図書館人|year=1998|publisher=講談社出版サービスセンター|isbn=978-4876014422|ref=坂本(1998)}}
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