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{{Quotation|…就中『万石通』の後編『鸚鵡返文武二道』〔北尾政美画、天明九年正月出づ。三冊物、蔦屋重三郎板〕いよゝますます行れて、こも亦大半紙摺りの袋入にせられて、二三月比まで市中売あるきたり〔流行此前後編に勝るものなし〕<ref>『近世物之本江戸作者部類』(『岩波文庫』黄225 - 7、2014年)33頁。</ref>。}}
 
この「大半紙摺りの袋入り」とは、本来は三冊だったのを一冊に綴じ合わせ袋に入れて売り出したもので<ref>{{refnest|group="注釈"|「殊にあたり作の新版は(中略)色ずりの袋入にして、三冊を一冊に合巻にして、価或は五十文、六十四文にも売りけり〔こは天明中の事なり〕」<ref>『近世物之本江戸作者部類』(『岩波文庫』)27頁。</ref>}}、それが正月(一月)以降、二月三月になっても市中で販売されたということである。その発行部数は一万五千部前後といわれている<ref>増田強志"恋川春町作「鸚鵡返文武二道」の異本について"(2頁)。</ref>。また初版が売り切れて増刷されたことにより、初版のほかに絵柄や本文の異なる二種類の異版ができる結果ともなった。上記の三冊だったのを一冊にしたというのは増刷分のことである<ref>"恋川春町作「鸚鵡返文武二道」の異本について"(16頁)、『新編日本古典文学全集』79、241 - 242頁。</ref>。
 
しかし大評判となったこの黄表紙の事は、話の種にした松平定信の耳にも達することになった。『近世物之本江戸作者部類』には、「当時世の風聞に、右の草紙<small>(『鸚鵡返文武二道』)</small>の事につきて白川侯<small>(定信)</small>へめされしに、春町病臥にて辞してまゐらず」とある<ref>『近世物之本江戸作者部類』(『岩波文庫』)33頁。</ref>{{refnest|group="注釈"|ただしこの『江戸作者部類』の記述は「噂の範囲」での話であり、『鸚鵡返文武二道』は定信の側近の間で問題視されはしたものの、実際に春町が定信に呼び出されるようなことはなかったという見方もある<ref>『山東京伝の黄表紙を読む』〈棚橋正博 ぺりかん社、2012年〉347頁。</ref>。}}。春町は定信から呼び出しを受けたが病気を理由に応じなかった。
 
『鸚鵡返文武二道』は『文武二道万石通』とともに、幕府の命により絶版となった<ref>{{refnest|group="注釈"|「天明の末、喜三二が『文武二道万石通』、春町が『鸚鵡返文武二道』(中略)大<small>(いた)</small>く行れたれども、頗<small>(すこぶる)</small>禁忌に触るゝをもて、命有て絶版せらる」<ref>馬琴著『伊波伝毛乃記』)。</ref>}}<ref>『近世物之本江戸作者部類』(『岩波文庫』)292頁。</ref>。春町は本名を倉橋格(通称寿平)と云い、[[小島藩]]に仕える江戸在勤の武士であった<ref>『三百藩家臣人名事典』第四巻(新人物往来社、1988年)26 - 27頁。</ref>。[[寛政]]元年(1789年)7月7日に春町は死去するが、『鸚鵡返文武二道』は実は小島藩主([[松平信義 (小島藩主)|松平信義]])の作で、それを春町の名で世に出したとの風聞が、市中に売り出して間もない頃に出ていた。主家の迷惑とならぬよう、春町は自害したのではないかとする見方がある<ref>"恋川春町作「鸚鵡返文武二道」の異本について"(17頁)。</ref>。朋誠堂喜三二が仕えていた[[久保田藩]]主([[佐竹義和]])も定信から喜三二について聞かれる事があり<ref>{{refnest|group="注釈"|「其御元<small>(久保田藩主)</small>御家来の草双紙を作り候者<small>(喜三二)</small>は、才は至極有之候様に聞え候へ共、家老の才には有之間敷と御咄御ざ候由」<ref>『[[よしの冊子]]』)。</ref>}}<ref>『随筆百花苑』第八巻(中央公論社、1980年)352頁。</ref>、喜三二もこののち二度と黄表紙の創作に手を染めることはなかったのである。
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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