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| 画像 =Imagawa Sadayo.jpg
| 画像サイズ =200px
| 画像説明 = [[菊池容斎]]『[[前賢故実]]
| 時代 = [[鎌倉時代]]後期 - [[室町時代]]
| 生誕 = [[嘉暦]]元年([[1326年]])
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幼少時は不明だが、[[鎌倉幕府]]滅亡までは[[鎌倉]]で過ごしたとされ、滅亡後は父の本拠地である[[遠江国|遠江]]の見付(現在の[[磐田市]])で過ごしたと推測される。父に従っていた記録は残り、12、13歳頃から[[和歌]]を学ぶ。また後の著作『難太平記』では13歳頃の[[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]])に[[駿河国|駿河]][[守護]]となった父に連れられて[[富士山本宮浅間大社]]に参拝したことを書いている{{sfn|川添昭二|1964|p=28-29}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=415}}。
 
[[足利将軍家]]内部の対立から[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]と弟の[[足利直義]]の両派の抗争へ発展した[[観応の擾乱]]においては、父と共に将軍側に属する。『[[太平記]]』によると、[[正平 (日本)|正平]]6年/[[観応]]2年([[1351年]])の[[薩埵峠の戦い (南北朝時代)|薩埵峠の戦い]]では伊予守の官職名で貞世が初めて登場する{{sfn|川添昭二|1964|p=53-54}}以後直義派や[[南朝 (日本)|南朝]]勢力と戦い、[[正平 (日本)|正平]]10年/[[文和]]4年([[1355年]])には[[細川清氏]]と共従い尊氏の庶子(直義の甥で養子)である[[足利直冬]]の軍と東寺合戦で戦う(『難太平記』)。『太平記』では正平14年/[[延文]]3年([[1359年]])に2代将軍[[足利義詮]]の南朝征伐に兄範氏と共に参戦、翌正平15年/延文5年([[1360年]])まで畿内を転戦したという{{sfn|川添昭二|1964|p=53-56}}
 
室町幕府[[執事#室町幕府の執事|執事]]となった清氏が正平16年/[[延文]]6年([[1361年]])に失脚して南朝に下ると、父の命で講和呼びかけの為に遠江から[[京都]]へ召還される。上洛途中に清氏が領国[[若狭国|若狭]]へ出奔したため会うことは無かったが、同年に南朝の部将として京都を占拠した清氏の軍勢と交戦した(『太平記』){{sfn|川添昭二|1964|p=56-59}}。軍事活動のほか、遠江や正平21年/[[山城国|山城貞治]]の守護職、5年([[1366年]])から正平23年/[[応安]]元年([[1368年]])まで幕府の[[侍所]]頭人[[引付衆山城国|引付頭人山城]]など守護を務め、正平22年/[[貞治]]6年([[1367年]])に2代将軍から[[足利義詮建徳]]元年/応安3年([[1370年]])まで[[引付衆|引付頭人]]などを務めた(遠江守護にもなったとされるが事績がはっきりしない)。正平22年に義詮が死去すると出家して了俊と名乗った{{sfn|川添昭二|1964|p=63-74}}
 
この時期に起こった今川氏の駿河守護継承問題にも関与、正平20年/貞治4年([[1365年]])[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]に兄範氏が亡くなると、父が兄の駿河守護職を了俊へ譲ろうと図ったが了俊は辞退、半年後の[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]に兄の遺児で甥の[[今川氏家]]が義詮から駿河守護に補任された。数年後に氏家も子の無いまま亡くなると(正平24年/[[応安]]2年([[1369年]])以前とされる)、氏家の意向で了俊の嫡男[[今川貞臣|貞臣]]に駿河守護が譲られることになったが、了俊はこの時も辞退して出家していた氏家の弟・[[今川泰範]]を還俗させて次の駿河守護とした{{sfn|川添昭二|1964|p=223}}{{sfn|小和田哲男|2015|p=66-71}}。
 
=== 九州平定 ===
3代将軍[[足利義満]]時代の[[建徳]]元年/応安3年([[1370年]])頃に、[[管領]]の[[細川頼之]]から[[渋川義行]]の後任の[[九州探題]]に推薦され、正式に任命された(引付頭人は辞任)。観応の擾乱後に南朝方の[[菊池武光]]が[[征西大将軍]][[懐良親王]]を奉じた征西府、尊氏の庶子(直義の養子)である[[足利直冬]]等が分立し、直冬が九州を離れた後に征西府が[[北朝 (日本)|北朝]](幕府)方の[[筑前国|筑前]]守護[[少弐頼尚]]を撃破して[[大宰府]]を占領し、南朝勢力が強くなっていた[[九州]]の平定のために派遣される{{sfn|川添昭二|1964|p=76-85}}
 
本国・遠江で準備をした後、10月に[[京都]]を出発、建徳2年/応安4年([[1371年]])5月に[[安芸国|安芸]]に留まり、[[毛利元春]]、[[吉川経見]]、[[熊谷直明]]、[[長井貞広]]、[[山内通忠]]ら[[国人]]衆を招集している。同年12月に九州へ渡り、[[豊前国|豊前]]へ至った。
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しかし、無責任な対応を取ったせいで不信感を抱かれることもあった。天授3年に氏久が武家方に降伏した際、氏久から所領を押領されるのではないかと不安を抱く南九州国人一揆に対し、所領問題では国人に新恩給与された土地の中で、島津氏に関係ある土地は返却するという、島津氏に有利で一揆に不利な対応を取ったため一揆の怒りを買った。こうした点は自覚していたため天授3年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]付の一揆宛の書状で「氏久が帰順したため、あなたがたが私のことを恨んでいると聞きました」と率直に述べる一方、「たとえ氏久が参陣したとしても、あなたがたとは無関係の問題であり、あなたがた自身の忠義こそが大事なのです」と忠義を強調する無責任な宣言をするだけだった{{#tag:ref|了俊は満範へ宛てた同年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]の書状でこの問題に触れ、「忠節を尽くした人々には面目が立つように、不忠だった人々には今後忠節を尽くすように取り成すための処置だが、それを悪い方に捉えてしまう人々はきっと我々を恨むであろう」と書いている。島津氏と国人双方を両立させるための処置が国人に恨まれる元になることを自覚、両立させることの難しさを述べている{{sfn|川添昭二|1964|p=145}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=130}}。|group=*}}{{sfn|川添昭二|1964|p=144-146}}{{sfn|都城市史編さん委員会|2005|p=130-132}}{{sfn|亀田俊和|杉山一弥|2021|p=421-422}}。
 
義弘は姻戚関係にあり、かつ九州で共闘した盟友だったが、了俊は著書の1つ『今川了俊書札礼』で義弘ら大内氏への非難を書いている。「大内氏が送って来る書状は自分に対して無礼な言葉遣いであり、弘世の代から一門も家来も無礼な態度を受け継いで呆れてしまう」という文は了俊が大内氏を無礼な一族だと見做していたことが伺い知れる{{sfn|桜井英治|2001|p=56}}{{sfn|平瀬直樹|2017|p=131-133}}。
{{sfn|平瀬直樹|2017|p=131-133}}。
 
== 著作 ==